011 第三話 幕府の依頼(二) 将軍の文箱
五 登城
七日目の朝、朔は屋形に行った。
「受ける」
弥左衛門は表情を変えなかったが、両手をついて頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それだけか」
「書面を整えます。しばしお待ちを」
待った。
三刻ではなかった。四日。
その四日のあいだ、朔は屋形の一室に通された。弥左衛門は朝と昼と夕にやって来て、そのたびに紙を持っていた。
「まず、廊下の歩き方でございます」
「歩き方」
「畳の縁を踏まぬこと。これは屋形でも同じでございます」
「知ってる」
「では、廊下から広間へ入る際、敷居の前で一度止まること」
「止まる」
「止まって、名を名乗ること。名乗り方は――」
弥左衛門が紙を読み上げ、朔が繰り返す。二度目で言い間違え、三度目で言い直し、四度目で弥左衛門が「もう一度」と言った。
昼にはまた別の紙が出た。
「上様が言葉をお掛けになった場合、直ちに平伏いたします」
「平伏」
「両手を畳につき、額を畳に近づけます。近づけるのであって、つけるのではございません」
「どっちだ」
「近づけるのでございます」
「つけたらどうなる」
「つけすぎでございます」
「加減があるのか」
「ございます」
弥左衛門は朔の前に座って、自分でやって見せた。四十半ばの男が畳に額を近づけている姿を、朔は黙って見ていた。
「これが正しい形でございます」
「……あんた、毎日これをやってるのか」
「毎日でございます」
夕に出た紙は、言葉遣いだった。
「『そうか』は用いません」
「じゃあ何と言う」
「『承知いたしました』でございます」
「長い」
「長うございます」
「短くならんか」
「なりません」
弥左衛門は紙を置いた。
「宵士どの」
「朔でいい」
「朔どの」
弥左衛門は珍しく紙を見ずに言った。
「お手前が言葉を崩されるのは、身分を軽んじておられるからではないと、私は存じております」
朔は眉を上げた。
「そういう風に育たなかっただけでございましょう」
「そうだな」
「ですが、上様はそれをご存じありません。広間に控える者も存じません。その者たちには、崩した言葉が一つ聞こえるだけでございます」
弥左衛門は頭を下げた。
「四日でございます。四日だけ、こらえていただきたい」
「弥左衛門」
「はい」
「俺はもう、依頼を受けたことを後悔している」
「お断りになりますか」
朔は一拍置いた。
「もう一度、名乗り方をやってくれ」
弥左衛門が顔を上げた。
「はい」
その日、二人は夜まで同じことを繰り返した。
六 将軍
広間は思っていたより狭かった。
七間四方ほどある。上段に一人。下段に幕臣が七人、左右に分かれて控えている。弥左衛門は右列の一番末にいる。
朔は敷居の前で止まり、名を名乗った。四日かけて覚えた言い方だった。
「宵士、朔にございます」
声が広間に落ち、そのまま沈んだ。
「近う」
上段から声がした。
朔は進み、指示された位置に座った。膝の位置を直して両手を畳につき、額を近づける。畳には、触れさせない。
「面を上げよ」
顔を上げた。
蔵原統斉は、思っていたより小柄だった。
六十近い。髪は白く、顔に肉がない。目だけが妙に静かだった。老いた人間の目ではなく、長いあいだ同じ姿勢で物を見てきた人間の目だ。
「櫛名の件、受けてくれたと聞いた」
「承知いたしました」
朔がそう言うと、下段の幕臣の一人がわずかに顔を動かした。返事として合っていなかったのだろう。統斉は気にした様子もない。
「弥左衛門から、理由は聞いておらぬな」
「はい」
「余が話すと言うたゆえな」
統斉は膝の上で手を組んだ。
「宵士は、何人残っておる」
「……正確な数は」
「知らぬか」
「把握している者はおりません。散って動いておりますので」
「余のところには、十七と上がっておる」
朔は面を上げたまま、口を結んでいた。
十七。近い数字だと思った。少なくとも、三十年前より二十は減っている。
「三十年前は三十八であった。五十年前は六十を超えておった」
統斉は淡々と言った。
「そして、増えることはない」
「はい」
「作る技がない。二度と戻らぬ」
「……はい」
「ならば、答えは一つしかない」
統斉はまっすぐ朔に目を向けた。
「人が妖怪に対して最も強いのは、今である」
広間は静まり返っている。紙をめくる者もいない。
「百年後、宵士は五人か、三人か、あるいは一人もおらぬ。その時、西の七体は一体も減っておらぬ。あれらは死なぬからな」
「はい」
「今も、余の代でも、次の代でも、あれらは同じだけ強い。だがこちらは減る一方だ。ならば、こちらが最も強いうちに、あちらを一つでも減らしておかねばならぬ」
朔は畳の目に視線を落とした。
「大妖怪の一角を討てる宵士が、今また現れるとは思わぬ」
統斉の声は低く、揺れなかった。
「余は十一代目である。十代にわたって、幕府は守勢に徹してきた。結界の内を守り、境を固め、動かぬことを是としてきた。余もそう教えられた。そうしてきた」
少し間があった。
「だが、守っておるあいだに、こちらだけが減った」
朔は顔を上げたまま、次の言葉を待った。
「そなたは五年前、遠洲北部の吸血鬼を討ったな」
「はい」
「一人でな」
朔の指が、わずかに動く。
一人ではなかった。蛭がいた。
あれは蛭の獲物だ。蛭が、自分で決着をつけると決めた相手だった。蛭が先に踏み込んで、蛭が隙を作った。朔がやったのは、その隙に一太刀入れたことだけだ。そして蛭はそこで死んだ。
記録には朔の名しか残っていない。蛭の名を知っている人間は、もうほとんどいない。
朔は口を開きかけた。
訂正しようとして、やめた。
訂正すれば、統斉は計算を組み直すことになる。大妖怪の一角を討った男が一人ではなく二人で、その片方はもういない。それは事実だが、事実を言ったところで櫛名がいなくなるわけではない。
そして、蛭の名を出したところで、蛭は喜ばない。
「はい」
朔はそう答えた。
統斉の顎がわずかに引かれた。
「ゆえに、そなたに頼む」
統斉が目をやると、幕臣の一人が進み出て、朔の前に文箱を置いた。
「櫛名の討伐は、それ一つでは成らぬ。三つある」
「三つ」
「一つ、櫛名の討伐そのもの。二つ、潮洲への協力要請。潮洲には二体おる。狸と、海のもの。いずれも中立を保っておるが、境州と繋がられては困る」
「渡るのですか」
「渡ってもらう。使者ではない。宵士として会うてもらう。幕府の名で行けば門前払いになる」
「三つ目は」
「浪都だ」
朔の眉が動いた。
「浪都の領主、鷺宮寿玄に協力を仰ぐ。西の情勢に最も通じておる。兵も出せる」
統斉は文箱を指した。
「その文を渡してくれ。中身は余の手による」
「承知いたしました」
「それと、一つ伝えておく」
統斉はわずかに声を落とした。
「標的を櫛名と定めたのは、鷺宮の進言による」
朔は文箱に目を落とした。
「七体のうち、どれを狙うかは長く議論があった。鬼を先にすべきという意見もあった。妖狐を分断すべきという意見もあった。鷺宮は櫛名を挙げた。理由は、櫛名が最も孤立しておるゆえ、討っても他の二体が動かぬというものであった」
「筋は通っております」
「余もそう思うた」
統斉は膝の上で手を組み直した。
「よい男だ。浪都をよう治めておる。会えば分かる」
「はい」
広間に沈黙が降りる。下段の幕臣たちは、身じろぎ一つしなかった。
「朔」
名を呼ばれた。
「はい」
「そなたが死んだら、宵士は十六になる」
統斉は朔を見据えていた。相変わらず静かな目だった。
「余はそれを承知の上で頼んでおる」
「はい」
「断ってもよかったのだぞ」
「存じております」
「そうか」
統斉は目を伏せた。
「では、頼む」
朔は両手を畳につき、額を近づける。つけなかった。
下がる時、右列の末で弥左衛門がわずかに頷いたのが、視界の端に見えた。
廊下に出ると、外の光が眩しい。
朔は文箱を抱えて、その場に立っていた。
十七。
自分を入れて十七だ。そのうち何人が、まだ動けるのかは分からない。桃のように刀を置いた者もいる。老いて山を下りられなくなった者もいると聞いた。
実際に大蛇の前に立てる人間が何人いるかと言えば、片手で足りるだろう。
朔は歩き出した。
文箱は、思っていたより軽かった。
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