010 第三話 幕府の依頼(一) 二百年前の話
一 呼び出し
三刻待たされた。
控えの間は八畳で、床の間に軸が一本掛かっている。何が書いてあるのか、朔には読めない。庭に面した障子は閉めてあり、外の音だけが入ってくる。誰かが何度も廊下を通っていったが、声をかけてくる者はいなかった。
四度目に襖が開いた時、入ってきたのは同じ男だった。
「大変お待たせいたしました」
真柄弥左衛門といった。四十半ばで顔の造りが薄く、羽織の紋が几帳面な位置についている。
「もう三回聞いた」
「申し訳ございません。上の都合がつきませんで」
「上ってのは、あんたの上か」
「私の上の、そのまた上でございます」
弥左衛門は膝を進めて座った。
「それで、もう一度だけ確認をさせていただきます」
「もう一度」
「はい」
朔は天井を仰いだ。
「まず、お手前は幕臣ではございません」
「知ってる」
「したがって、これは命令ではなく依頼でございます。断ることができます」
「それも聞いた」
「ですが、断る場合も、断り方というものがございます」
「そこは聞いてない」
「今から申し上げます」
弥左衛門は懐から紙を出した。
「お断りになる場合、この場で断言なさらぬこと。一度持ち帰り、日を置いて書面にてご返答いただくこと。書面の文言は――」
「弥左衛門」
「はい」
「俺はまだ、何を頼まれるのかも聞いてない」
紙を持った弥左衛門の手が止まった。
「……左様でございましたか」
「左様だ」
「これは失礼を」
弥左衛門は紙を畳んでしまい、また別の紙を出した。
「ではまず、言葉遣いについて」
「頼む内容が先だろう」
「順序というものがございます」
「あるのか」
「ございます」
朔は畳に手をついて、体重をそちらへ預けた。
「わかった。続けてくれ」
「では」
弥左衛門は表情を変えずに紙を開いた。
「お手前は、上様に対して『あんた』と申されました」
「言ってない」
「先ほど私に申されました」
「あんたは将軍じゃないだろう」
「私に対してそう申される方は、上様に対しても申されます」
紙から上げた弥左衛門の目は、真剣だった。
「これは私の首の話ではございません。お手前の首の話でもございません。上様の御前で無礼があった場合、その場に控えた者が全員腹を切るという話でございます」
朔は手をついた姿勢のまま、弥左衛門を見返した。
「そうなのか」
「そこまではならんと存じますが、そのつもりでおります」
朔は座り直した。
「……分かった。聞く」
「ありがとうございます」
弥左衛門は深く頭を下げ、上げた時には肩の力が少し抜けていた。
「では、御依頼の内容を申し上げます」
三つ目の紙は、巻いたものだった。
「境州西端に、大蛇がおります」
朔は続きを待った。
「櫛名と申します。西の七体の一角でございます。上半身が六本腕の女、下半身が大蛇。全長は十間を超えると」
「知ってる。会いたくない相手の、上から三番目くらいだ」
「討っていただきたいのです」
障子の外で、鳥が鳴く。
「……本気か」
「本気でございます」
「幕府が大妖怪を討つと」
「上様がそうお決めになりました」
朔は膝の上で指を組んだ。
「理由は」
「私の口からは申し上げられません」
「じゃあ誰から聞く」
「上様から直接、と承っております」
朔が見据えても、弥左衛門は目を逸らさない。
「受けるとも断るとも、今は言わなくていいんだな」
「はい。七日の後に、御返答を頂戴したく存じます」
「七日」
「七日でございます」
朔は立ち上がった。
「弥左衛門」
「はい」
「あんた、この依頼をどう思ってる」
弥左衛門の指が、膝の上の紙の端を一度だけなぞった。
「……私の意見は、書面に載りません」
「載せなくていい」
「では、申し上げません」
そう言って、弥左衛門はまた深く頭を下げた。
朔は控えの間を出た。
二 逡巡
屋形を出ると、日が傾いていた。
堀沿いを歩く。荷車が減り、代わりに仕事帰りの人間が増えている。
断ることはできる。弥左衛門も三度そう言った。三度も言ったのは、断られることも想定しているからだろう。
問題は、断る理由が思いつかないことだった。
櫛名は人を喰う。境州の西端で、少なくとも百年はそうしている。討てるなら討ったほうがいい。危険は承知しているが、危険だから断るなら二十年もこの仕事をしていない。
それでも何かが引っかかる。
朔はこれまで、依頼を一件ずつ選んできた。誰が困っていて、何が起きていて、自分に何ができるか。それだけで決めてきた。宿場が二両しか出せなくても受けたし、大店が百両積んでも断ったことがある。
その選び方が、幕府の依頼では通らない。
受ければ、幕府の手の一本になる。一度なれば、次も来る。次を断れば、断った理由を問われるようになる。そして問われるようになった時点で、もう選んでいるのは自分ではない。
宵士は幕臣ではない。どこにも属さない。だから誰の依頼でも受けられるし、誰の依頼でも断れる。
その足場から降りていいのかどうかが、分からなかった。
橋の上で足を止めると、水面に灯が映っていた。両岸の家に、明かりが入りはじめている。
訊ける相手が、一人いた。
朔は踵を返して、西へ向かった。
三 杣口
臥雲山までは、歩いて二日かかる。
臥雲山に桃はいなかった。
門のところで朱丸が「町だ」と言い、それだけで通じた。
杣口の町は、日暮れ前から賑わっている。木こりと炭焼きは朝が早いぶん、上がるのも早い。表通りの飲み屋はどこも戸を開け放っていて、中から声が漏れてくる。
三軒目で見つけた。
桃は奥の壁際に座って、一人で飲んでいた。膳の上に小鉢が二つと徳利が三本。三本とも空に見える。
「よう」
朔が向かいに座ると、桃は猪口を持ったまま目だけをこちらへ寄越した。
「なんだ、また来たのか」
「また来た」
「二月も経っとらんぞ」
「まだ明るいうちから飲んでるのか」
「もう暗い」
「まだ明るい」
「わしの中では暗い」
桃は徳利を振って、中身がないことを確かめた。
朔は手を上げて、酒と飯を頼んだ。店の女が徳利を二本持ってくると、桃が一本を引き寄せた。
「山まで行ったのか」
「行った」
「言っときゃよかったな」
「朱丸が教えてくれた」
「あいつは口が軽い」
「亭主の居場所を教えるのは口が軽いとは言わん」
桃が鼻を鳴らした。
朔は酒を一口飲んだ。杣口の酒は安いが悪くない。
「加賀屋の子供は、洛環に入った」
「ほう」
「律人が掛け合った。母親が渋ったが、最後は承知した」
「元気か」
「先月の文では、歩けるようになったと」
「そうか」
桃の目尻に皺が寄った。
「牙の礼だと言って、加賀屋が反物を送ってきた。臥雲山宛てだ」
「そんなもんどうする」
「千代が喜んでた」
「なら良かった」
朔は小鉢の煮物をつまんだ。大根が味を吸っている。
「深沢で火車が出た」
「火車」
「谷に溜まってた。半年で七件。仏ばかりだ」
「ふん。どんな形だった」
「猫だ」
「猫か」
「谷に猫が来てたらしい」
桃は徳利を傾けた。
「わしが若い頃に見たのは烏だったな」
「烏」
「越州だ。船着場の裏が捨て場になっとった。烏がよく来ておったんだろう。羽の生えたやつが出た」
「飛べたのか」
「飛ぶというより空中を歩いとった。羽の形は真似たが、飛び方は見とらんかったんだろうな」
朔の口元が少し緩んだ。
「あんたはそれをどうした」
「斬った」
「塚は」
「建てさせた。建てんと、また出る」
「同じことをした」
「ほう」
桃が猪口越しに朔を見た。
「なら、わしが教えたことは間違っとらんかったな」
「教わってない。見ただけだ」
「そりゃ教えたのと同じだ」
二人は黙って飲んだ。
店の奥で、炭焼きたちが博打の勝ち負けで揉めていた。誰かが笑って、誰かが怒鳴って、それからまた笑う。
桃が徳利を置いた。
「で」
「なんだ」
「何しに来た」
朔は猪口を口へ運びかけて、止めた。
「話が長くなる」
「長くて構わん。どうせ飲んどる」
四 二百年前の話
朔が話し終えるまでに、徳利が二本空いた。
桃は口を挟まず、相槌も打たず、ただ飲みながら聞いている。
話し終えると、桃は猪口を置いた。
「受けたくないのか」
「そうじゃない」
「じゃあ受けたいのか」
「そうでもない」
「どっちだ」
「分からんから来た」
桃は腕を組んだ。
「櫛名を討つのが嫌なわけじゃないんだな」
「あれは討ったほうがいい」
「じゃあ何が引っかかっとる」
「誰から受けるかだ」
朔は猪口を置いた。
「幕府から受けたら、次も来る。断れば理由を訊かれる。そうなったら、選んでるのは俺じゃない」
「なるほどな」
桃は徳利を取り、中身がないので、また振った。
朔は手を上げて、もう一本頼んだ。
「わしはな」
新しい徳利が来るのを待って、桃は続けた。
「二百年前、大名から金をもらって鬼を討った」
朔は猪口から目を上げた。
桃が昔の話をするのは珍しい。臥雲山にいた八年で、数えるほどしか聞いたことがない。武勇伝はいつも千代が話したが、どれも尾鰭がついていて、桃はそのたびに「そんなことはしとらん」と言った。だから朔が知っているのは、経歴の骨だけだった。
「金をもらったのか」
「もらった。三百両だ。当時の三百両だぞ」
「聞いたことがない」
「言っとらんからな」
桃は酒を注いだ。
「大名は鬼を討ちたかったんじゃない。鬼を討った大名になりたかった。隣の国に睨みを利かせたかったんだ。わしを雇ったのはそのためだ」
「それで受けたのか」
「受けた」
「なんでだ」
「鬼がおったからだ」
迷いのない声だった。
「あいつらは人を喰っとった。何十年もな。討てば、その土地の人間は喰われずに済む。討たなけりゃ喰われ続ける。それだけだ」
「大名の思惑は」
「どうでもいい」
桃は猪口を空けた。
「わしはな、依頼を選ぶ時に、誰が頼んでくるかを見たことは一度もない。見るのは一つだけだ」
「一つ」
「これをやったら、後に何が残るか」
朔は口を挟まなかった。
「目の前の人間が助かるかどうかは、当たり前だ。それは考えるまでもない。わしが考えたのは、その先だ。十年後、五十年後、百年後に、この土地に何が残っとるか。良いもんが残るか、悪いもんが残るか」
「それで決めたのか」
「それで決めた。二百何十年、ずっとだ」
桃は徳利を取って、朔の猪口に注いだ。
「大名が偉くなろうが、幕府が手柄にしようが、知ったことか。そいつらの思惑は、五十年も経てば誰も覚えとらん。残るのは、喰われなかった人間と、その子供と、孫だ」
注がれた酒の面に、行灯の火が揺れている。
「……それが、あんたの答えか」
「わしの答えだ」
桃の声に、酔いは混じっていなかった。
「お前の答えじゃない」
朔の視線が酒から桃へ移った。
「わしはこう決めた。それだけだ。お前に同じようにしろとは言わん。言う気もない」
「なんでだ」
「わしの物差しでお前が決めたら、それはお前が決めたことにならんからだ」
桃は猪口を置いた。
「お前は十でうちに来て、十八で出ていった。八年だ。わしが教えたのは、刀の振り方と、山の歩き方と、妖怪の腹の裂き方だ。あとは自分で覚えた。二十五年かけてな」
桃は自分の猪口に酒を足した。
「二両の宿場で受けたんだろう。火車の時」
「なんで知ってる」
「そういう顔をしとる」
桃は喉の奥で笑った。
「わしはそこまではせんかった。安い仕事は断った。金の要る家族がおったからな。犬と猿と雉を食わせにゃならん」
「今もだろう」
「今もだ」
桃は徳利を傾けて、少し残った酒を自分の猪口に注いだ。
「朔」
「なんだ」
「わしはな、満足しとる」
朔は桃の顔を見た。
「二百何十年やって、いろいろ残した。土地も残したし、条約も残したし、塚もいくつか建てさせた。鬼も討った。……そのどれよりもな」
桃は猪口を持ち上げた。
「お前が強い宵士になったのが、一番でかい」
朔の手の中で、猪口が止まった。
「わしが死んだ後も、お前は百五十年やる。わしが助けられんかった人間を、お前が助ける。わしが一生かけて残したもんより、そっちのほうがよほどでかいんだ」
桃は酒を飲んだ。
「だから、わしはもう何も言わん。好きにやれ」
店の奥で、また誰かが笑う。
朔は猪口を持ったまま、しばらく動かなかった。それから、飲んだ。
「爺さん」
「なんだ」
「酔ってるな」
「酔っとる」
「じゃあ明日もう一度聞く」
「明日は覚えとらん」
「それでいい」
桃は鼻を鳴らして、空の徳利を振った。
「朔」
「なんだ」
「もう一本頼め」
朔は手を上げた。
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