リリカ
「このいい匂いはなんですか!?」
扉の向こうで、リリカさんの声がした。
僕は手元の皿を見た。
皿の上には、現時点最強のフライドチキンが二切れ残っている。
普通の生け捕り鳥に、僕が最初から最後まで関わって作ったものだ。
「テオさん! いますよね!」
「いますよ。今開けます」
「よかったです! この匂いを信じて来ました!」
「匂いを信じすぎでしょ」
僕は皿を持ったまま、扉を開けた。
リリカさんはギルドの制服のまま立っていた。
走ってきたのか、頬が少し赤い。
明るい笑顔をこちらへ向けているけれど、目は最初から僕ではなく、皿に向いていた。
「それですか? そのお皿の上のものですよね?」
「たぶん、これです。とりあえず入ってください。ここで話すと本当に人が来ます」
「入ります!」
返事は早かった。
僕はリリカさんを部屋に入れて、すぐに扉を閉めた。
それから皿を机へ置こうとした時、リリカさんが横から身を乗り出した。
「近くで見てもいいですか?」
「いいですけど、急に来ると……」
言い終わる前に、皿が少し揺れた。
僕はあわてて両手で皿を支え直した。
現時点最強を落とすわけにはいかない。
リリカさんの顔が、皿の向こうにある。
制服の胸元も近い。
僕は皿を見た。
見てはいけない気がした。
でも、皿も見ないと落としそうだった。
「リリカさん、近いです」
「あっ、ごめんなさい!」
リリカさんはぱっと顔を赤くした。
けれど、皿から目は離さない。
「すみません。おいしそうで、つい」
「皿、落とすところでした」
「それはだめです!」
真剣な顔で言われた。
僕も真剣にうなずきそうになって、少し困った。
リリカさんは半歩だけ下がった。近いことは近いけれど、さっきよりはましだ。
僕は皿を机の上に置いた。
ようやく両手が空いた。
それだけで少し落ち着くはずなのに、さっきの距離がまだ残っている気がして、何も持っていない手を一度だけ握った。
リリカさんは机の向こうから、皿をじっと見つめている。
半歩下がった分を、目だけで取り返しているみたいだった。
「……これ、一口だけでもいいので」
「食べます?」
「いいんですか!?」
リリカさんの顔が、ぱっと明るくなった。
「反応を見たいんです。一口だけですよ」
「一口だけ、全力で食べます!」
声は、一口で終わる声ではなかった。
僕は小皿に一切れ乗せて渡した。
「では、ちゃんと食べます」
「お願いします」
リリカさんは両手で小皿を持ち、一切れを口に運んだ。
ざくっ。
衣が鳴った瞬間、リリカさんが止まった。
目が大きく開く。
小皿を持つ手に力が入る。
さっきまで明るかった顔から、声だけが消えた。
リリカさんは、もう一度噛んだ。
「……なに、これ」
小さな声だった。
それから、急に僕を見た。
「おいし……え、待ってください。なにこれ」
「リリカさん?」
「待ってください。待てないです。もう一個ください!」
早い。
とても早い。
「まだ飲み込んでませんよ」
「飲み込みます!」
リリカさんはあわてて飲み込んだ。
それから、空になりかけた小皿を見て、もう一度皿の上を見た。
「もう一個ください」
「感想は」
「おいしいです!」
「短いですね」
「だって、今はそれしか出ません!」
リリカさんは赤い顔のまま、まっすぐ僕を見た。
「おいしいです。すごく。びっくりするくらい。もう一個ください」
そこまで言われると、断れなかった。
僕は笑って、最後の一切れを小皿に乗せた。
「これで最後ですよ」
「大事に食べます」
リリカさんはそう言ったのに、目はもう完全にフライドチキンを追っていた。
ざくっ。
二口目を食べた瞬間、リリカさんはまた止まった。
今度は声を出さなかった。
ただ、目が少し潤んでいた。
大げさではない。
泣いているわけでもない。
でも、何かが胸まで届いた顔だった。
僕は、その顔を見て動けなくなった。
自分で食べた時も、うまかった。
止まらなかった。
でも、誰かが食べてこんな顔をするところを見るのは、初めてだった。
「……テオさん」
リリカさんは、ゆっくり飲み込んだ。
「これ、もしかして……祝福スキルの効果ですか?」
リリカさんは、小皿ではなく僕を見た。
「まだ、分かりません」
「でも、普通の揚げ鳥じゃないです」
リリカさんは空になった小皿を見て、それからもう一度、僕を見た。
「テオさんが作ったんですよね」
「はい」
「じゃあ、これはテオさんの力です」
その言葉は、思っていたよりまっすぐ胸に来た。
強い剣でもない。
大きな炎でもない。
仲間を一瞬で守れる盾でもない。
それでも、今、目の前の人が笑っている。
僕の作ったものを食べて、もう一個ほしいと言ってくれた。
「……リリカさんに最初に食べてもらえてよかったです」
口にしてから、少し遅れて恥ずかしくなった。
リリカさんは小皿を持ったまま固まった。
フライドチキンを食べた時とは違う止まり方だった。
「それは、ずるいです」
「ずるいですか」
「ずるいです。そんなことを言われたら、もう、ただおいしいだけじゃなくなります」
リリカさんは空の小皿を胸の前で持った。
「でも、嬉しいです。最初で」
今度は僕が黙った。
部屋には、まだフライドチキンの匂いが残っている。
皿は空だ。
現時点最強は、もう一切れも残っていない。
でも、残念ではなかった。
ひとりで食べるより、ずっと楽しい。
リリカさんが食べるところを見ると、また作りたくなる。
そんなことは、検証項目に入れていなかった。
リリカさんは、空になった皿を見た。
それから、急に顔を上げた。
さっきまで食べる人の顔だったのに、今度は何かを決めた人の顔になっている。
「テオさん」
「なんですか」
リリカさんは、空の皿を指さした。
「お店を出しましょう!」




