幼馴染
閉店後の店には、揚げ油の匂いが残っていた。
昼から続いた持ち込み受付も終わり、店の前で跳ねていた袋も消えた。コレットは肉屋へ戻り、リリカさんは奥で片付けをしている。
僕は明日の通常営業に回す肉を、仕込み箱から出して見ていた。
扉が鳴った。
顔を出したのはガイだった。その後ろに、セラとルッツとフィオがいる。
「テオ、悪いな。こいつら、閉店後なら来られるって言うからよ」
ガイは何度も店に来ていた。うまい、うまいと騒いで、今日も昼に二個食べて帰った。でも、セラたちは初めてだった。
セラは小さな包みを両手で持って、入口で止まっている。昔は遠慮なく家にも入ってきたくせに、今は店の敷居の前で迷っていた。
「……久しぶり、テオ」
「……久しぶり」
それだけで、胸の奥が変に動いた。
怒ってはいない。でも、何もなかった顔にもなれない。
セラは店の中を見た。片付いた客席。油鍋。作業台。明日の肉が入った仕込み箱。
それから、僕を見た。
「ガイから、ずっと聞いてた。屋台を出したって。人が並んだって。店まで出したって。……聞くたびに、行かなきゃって思った。でも、来られなかった」
セラは包みを差し出した。
「開店祝い。遅くなって、ごめんね」
「ありがとう」
僕が受け取ると、セラはすぐには手を離さなかった。包みの布を握ったまま、指先が止まっている。
「……ごめんね、テオ」
セラは、やっと手を離した。ルッツも少し遅れて頭を下げる。
「悪かった」
フィオは両手を握ったまま、小さく言った。
「ごめんなさい」
ガイは気まずそうに頭をかいた。
「俺も……止めきれなくて悪かった」
長い言い訳はなかった。
それが、かえって胸に来た。
「怒ってないよ」
セラが顔を上げた。信じたいのに、信じきれない顔だった。
「……本当に?」
「あの時の僕、【フライドチキン】しかなかったし」
僕は油鍋のふちに指を置いた。
「Sランクを目指すなら、連れていけない。僕だって、そう思った」
セラは首を横に振った。
「私は……テオを危ないところに連れていきたくなかった。大事だったから。でも、それだけじゃない。私、自分の夢も捨てられなかった。Sランクになりたかった。だから……余計に来られなかった」
セラは言い切ってから、店の奥にある油鍋を見た。
それから、僕の手を見る。
「……もう、冒険者はやめるの?」
僕はすぐには答えられなかった。
冒険者という言葉は、まだ自分の中に残っていた。森に入ること。依頼を受けること。みんなの後ろで怪我を見て、薬草を潰して、帰り道を数えること。
でも今の僕は、明日の肉のことを考えている。どの部位を使うか。どの鳥は下処理を変えるか。油の温度をどう戻すか。
「……今でも冒険者だよ」
セラが顔を上げた。
「味のね」
ガイが、少しだけ笑った。
セラだけは、すぐに笑わなかった。
「毎日、知らない鳥が来るんだ。肉も違う。音も違う。どう揚げたらうまいのか、まだ全然分からない。だから、忙しいよ。けっこう楽しい」
「……そっか」
「うん。今、けっこう楽しい」
そう言ったあと、僕は明日の分の肉を見た。通常営業用に分けておいた肉なら、まだある。
明日の朝、また仕込めばいい。
ここは僕の店だ。
今日は、僕が出したい。
「時間ある?」
セラが顔を上げた。
「え?」
「食べていってほしい。僕のフライドチキンを。今から、ちゃんと作る。みんなの分」
セラはすぐには返事をしなかった。
それから、店の奥へ一歩入った。
「……うん。食べる」
「時間かかるよ」
「急がなくていいよ。ちゃんと食べたい」
ガイが、ぱっと顔を上げる。
「俺もか?」
「当たり前だろ。幼馴染なんだから」
ガイは一瞬黙って、それから困ったように笑った。
「……そうだったな」
僕は仕込み箱から、状態のいい肉を人数分取り出した。これなら、ちゃんと出せる。
「謝ってほしいからじゃない」
言ってから、自分でも少し驚いた。
謝ってほしくなかったわけじゃない。でも、それより先に、見てほしかった。
「見てほしいんだよ。今の僕を。あの頃の僕じゃなくて、ここで揚げてる僕を」
セラは何も言わず、客席の椅子に座った。
ルッツとフィオも、その隣に座る。ガイだけは立ったまま油鍋を見ていたけれど、フィオに袖を引かれて、やっと椅子に座った。
肉の水分を取り、厚みを見る。
衣をつける前に、指で硬さを確かめた。
油の温度が戻るまで、誰も急かさなかった。
油へ入れる。
じゅわああっ。
四人とも黙っていた。
ガイでさえ黙っていた。
肉の端が色づく。衣が立つ。油の音が変わる。
僕は一つずつ引き上げて、網の上で油を切った。
「できた。熱いうちに」
人数分のフライドチキンを皿に乗せた。
セラが最初に手を伸ばした。
小さくかじる。
ばりっ。
「……美味し」
セラの声が、思ったより普通に出た。
フィオがつられてかじる。
「ほんとだ……美味しい」
ルッツも一口食べて、眉間にしわを寄せた。
「これは、困るな」
「なんでだよ」
ガイがすぐにかぶりつく。
「うめぇからだろ! 困るくらいうめぇんだよ!」
その言い方があまりにガイで、フィオが小さく笑った。
ルッツも皿を見たまま、口元をゆるめる。
セラも笑った。
昔みたいに、全員で同じものを食べていた。
でも、出しているのは僕だった。
セラはもう一口食べて、ゆっくり飲み込む。
「……これが、今のテオなんだね」
「うん」
皿を持つ手に、少し力が入った。
やっと見てもらえた気がした。
そこからは、少し騒がしくなった。
「テオ、これ本当に明日の分じゃねぇのか?」
「明日の朝、また仕込む」
「じゃあ遠慮しねぇ」
「もう食べてるだろ」
ガイが二口目にかぶりつき、フィオが笑いながら皿を守る。
「ガイ、私の分まで見ないで」
「見てねぇよ」
「見てた」
「見てたな」
ルッツにまで言われて、ガイが口をとがらせた。
「見るくらいいいだろ。幼馴染だぞ」
「それ、そういう時に使う言葉じゃないよ」
セラが笑って言った。
その声が、少しだけ昔に戻っていた。
みんな、最後まで食べた。
皿に残った衣の欠片まで、誰かが指で拾った。
店を出る時、セラは入口で振り返った。
「開店、おめでとう、テオ」
「ありがとう」
「明日、並んでもいい?」
「うん。店だから」
セラは少しだけ笑った。
「じゃあ、並ぶ」
扉が閉まった。
外へ出て少し歩いたところで、セラは立ち止まった。
もう、同じ依頼には行けない。テオを後ろに置いて森へ入ることもない。それなのに、油鍋の前に立つテオは、置いていかれた顔をしていなかった。
セラは袖で目元を拭いた。
ガイが横からのぞき込む。
「泣くほどうまかったか?」
セラは少しだけ笑った。
「うん。そういうことにしておいて」




