完売
「完売です!」
リリカさんの声が、ギルド横の通りに響いた。
「えー!」
「今来たのに!」
「二個目ありますって書いてあるだろ!」
「匂いだけ残ってるの、ずるいだろ!」
看板の前には、まだ冒険者たちが残っていた。
【フライドチキンあります】
【一口だけでは終わりません!】
【二個目あります!】
でも、油鍋の横に置いた器は空だった。
「申し訳ありません! 今日の分は終わりました! 明日お願いします!」
リリカさんが頭を下げると、冒険者たちは空の器を見て、看板を見て、もう一度空の器を見た。
「明日な!」
「朝から来るからな!」
「二個目の看板、消すなよ!」
悔しそうな声を残して、冒険者たちはギルドの方へ戻っていった。人が引くと、ギルド横の通りが急に広くなる。
僕は油鍋の火を落とした。朝の鐘が鳴ってから、まだそんなに経っていない。それなのに、フライドチキンは一切れも残っていなかった。
衣を入れていた器も空。紙皿もほとんどない。油鍋の前に残っているのは、揚げた匂いと、手書きの看板だけだった。
「テオさん」
リリカさんが、空の器を胸の前に抱えていた。器は空なのに、まるで宝箱みたいに大事そうだった。
「売れました」
僕は空の器を見て、リリカさんを見た。
「売れましたね。全部、売れました」
「全部です!」
リリカさんが跳ねた。空の器が揺れる。リリカさんも揺れる。言葉にしてから、胸の奥から熱いものが上がってきた。
「初日完売です! テオさん、初日で完売です!」
「はい。初日完売です。すごいです。僕たち、売り切りました!」
思っていたより大きな声が出た。
自分で選んだ鳥を、自分の手でフライドチキンにした。それを誰かが買って、食べて、もう一個ほしいと言った。そして、全部なくなった。
「すごいです! テオさんのフライドチキン、すごいです!」
「リリカさんの読みもすごいです! 二個目、出ました。何回も出ました!」
「出ました! ほら、やっぱり一口だけでは終わりませんでした!」
リリカさんが、また近づいた。空の器を見せたいのか、僕に言いたいのか、本人にも分かっていない勢いだった。
完売した器なのに、リリカさんが胸の前に抱えているせいで、器がやけに小さく見える。僕はその器をまっすぐ見ようとして、うまくいかなかった。でも、リリカさんがあまりにも嬉しそうで、目をそらすのも惜しかった。
近かった。
でも、今日は下がれなかった。困るくらい近いのに、その近さまで完売祝いに思えてしまった。
「祝杯です!」
「やりましょう!」
僕がすぐに返すと、リリカさんは目を丸くした。
「いいんですか!?」
「完売したので! 祝杯くらい、します!」
「やりました!」
リリカさんは空の器を台に置き、紙皿の束の下から小さな瓶を取り出した。
「実は、用意していました!」
「何をですか?」
「果実水です!」
瓶の中には、薄い赤色の果実水が入っていた。朝の光を受けて、きらきらしている。
「売り切れると思っていたんですか?」
「思っていました!」
リリカさんは、まったく迷わず言った。
「テオさんのフライドチキンですから!」
その言葉が、油鍋の熱より強く胸に来た。
「じゃあ、ちゃんと祝杯にしましょう。初日完売祝いです」
「はい!」
リリカさんは紙の杯を二つ取り出した。でも、出店の裏は狭い。片方には油鍋。片方には空の器。足元には紙皿の箱。台の下には使い終わった布。
リリカさんが杯を渡そうとすると、自然に距離が近くなる。
「はい、テオさん!」
「ありがとうございます」
受け取る時、指が触れた。ほんの少しだった。でも、朝から鳥を処理して、衣をつけて、油を見て、炎魔法で仕上げていた手が、その一瞬だけ別の熱を持った。
リリカさんも、杯を持ったまま少し止まった。それから、照れたみたいに笑った。
「完売祝いです!」
「はい。完売祝いです!」
僕たちは、台の裏で紙の杯を軽く合わせた。
「初日完売に!」
「フライドチキンに!」
「リリカさんの看板に!」
「テオさんの腕に!」
最後が思っていたより近いところから返ってきて、僕は果実水を飲む前に笑ってしまった。
「僕の腕ですか」
「はい! 朝からずっと揚げていた腕です!」
リリカさんが僕の手元を見た。その目が、フライドチキンを見ていた時と同じくらい真剣だったので、僕は急に手の置き場に困った。でも、それも嫌ではなかった。
「明日も揚げます。今日より、もっと揚げたいです」
言ってから、自分でも驚いた。かなり前のめりだった。でも、嘘ではなかった。
「はい!」
リリカさんは果実水を一口飲んだ。頬が少し赤い。酒ではない。ただの果実水だ。それなのに、リリカさんはもう祝杯で酔ったみたいに楽しそうだった。
「おいしいです!」
「フライドチキンのあとだから、余計においしいですね」
「ですね! でも、やっぱりフライドチキンも一個残しておけばよかったです!」
リリカさんは空の器を見て、本気で悔しそうな顔をした。その顔が可愛くて、僕はまた笑った。
「完売しましたからね」
「完売は嬉しいです! でも、完売祝いにフライドチキンがないのは、かなり惜しいです!」
「明日は、祝い用も作りますか?」
「売ります!」
「売るんですね」
「売ります! でも、私たちも食べたいです!」
「分かります。僕も食べたいです」
口に出すと、また楽しくなった。
売りたいし、食べたいし、喜びたい。リリカさんの言葉は欲張りなのに、全部同じ方向を向いていた。僕も同じだった。もっと作りたい。もっと揚げたい。もっと食べてもらいたい。そして、リリカさんにもう一度、こんな顔をしてほしかった。
「楽しいです」
口から、そのまま出た。
「はい!」
「僕、今、かなり楽しいです」
言い切ると、胸の奥がまた熱くなった。
昨日まで、こんな朝になるなんて思っていなかった。依頼板の前ではなく、油鍋の前に立っている。報酬の計算ではなく、フライドチキンの数を気にしている。しかも横では、リリカさんが空の器を大事そうに抱えて笑っている。
楽しくないわけがなかった。
「私もです!」
リリカさんは、空の器に手を置いた。
「テオさんが揚げたからです」
「リリカさんが看板を書いてくれたからです」
「ガイさんが叫んだからです!」
「それは大きいですね!」
ガイの叫び声は、たぶんギルドの奥まで届いていた。
うめええええええええっ!!
思い出しただけで、また笑ってしまう。
あの一声で人が集まった。匂いで足が止まった。一個目で顔が変わった。二個目で列が伸びた。さっきまで、僕の手は止まらなかった。揚げて、渡して、また揚げて、また渡した。忙しかったのに、嫌ではなかった。
むしろ、早くまた油鍋の前に立ちたかった。
「テオさん」
リリカさんが、紙の杯を両手で持ったまま言った。
「明日も、完売させましょう」
その言い方が、まっすぐだった。明日も、あの顔を見たい。明日も、あの声を聞きたい。明日も、この店を開きたい。そう言われた気がした。
「はい」
僕はうなずいた。
「明日も揚げたいです。今日より、もっと」
「はい!」
リリカさんの顔が、また近づいた。今度も下がらなかった。紙の杯を持ったまま、二人で笑った。
油鍋の火は落ちている。器は空。看板には、まだ【二個目あります!】と書いてある。
今日の二個目は、もうない。
でも明日はある。
リリカさんが紙の杯を少し高く上げた。
「フライドチキンに!」
紙の杯が、軽く触れた。




