十四、もう一人の
***
それが苦しいということなのだと、ずっと知らずに生きていた。
例えば誰かに優しく声をかけられたとか、とても興味の引かれる物を見た時、それに反応しようとするといつも喉の奥がぐっと重くなるような感じがした。
ガルヴィードが何かに興味や好意を抱くようなことがあると、外に向かおうとした意識を引き戻すように重い何かがぐっと腹の底から手を伸ばしてきた。
その苦しさに顔を歪め息を抑えるガルヴィードを見て、周りの人々は嫌われた、気に食わなかったと判断して、ガルヴィードに不快な思いをさせないように遠ざかったり、目の前のものを遠ざけた。
自分が興味を引かれた物は遠ざけられてしまう。
そう認識したガルヴィードはそれに抗おうとした。だが、重い何かに逆らってやっとのことで出した声は掠れているか、怒鳴るようにひび割れているかで、必死に歪められた表情はなおさら周囲の人々にガルヴィードは常に不機嫌であらゆることが気に入らないのだと勘違いさせる結果にしかならなかった。
抗うことに疲れ、すべてに投げやりになっていた頃、ガルヴィードは一人の少女と出会った。
いきなり王太子のズボンを下ろすという大失態をかました小さな令嬢は、ガルヴィードを見上げて言ったのだ。
『王太子殿下、どこか痛いですか?苦しそうな顔してる』
その令嬢の言葉に、何故かガルヴィードは初めて目を開いたような気分になった。
令嬢はすぐさま父親らしき貴族に回収されて、まわりにわらわら集まってきた連中がなにやらわーわー言っていたが、ガルヴィードは何も聞いていなかった。
いつもの「何か」が手を伸ばしてきて、腹の底が重くなった。
これが、苦しいということかと、ガルヴィードは初めて知った。
自分は、これまでずっと苦しかったのだと、ガルヴィードは初めて気づいたのだった。
謝罪に現れた小さな令嬢を遠ざけられたくない一心で、苦しさを抑えて声をかけようとした。
それなのに、口から出てきたのはろくでもない罵倒だった。こんなことを言うつもりではないのに、と思う間もなく小さな手で頬を叩かれていた。
それもまた、ガルヴィードには初めての経験で、周りは慌てていたけれどガルヴィード自身は何故か息が楽になったような気さえした。
小さな令嬢がパーティーの時と同じように回収されていなくなった後、ガルヴィードは慎重に声を出して、傍らのエルンストに尋ねた。
「……あれは、誰だ?」
人間に興味を示したガルヴィードに、幼い頃から傍に侍っている乳兄弟は目を丸くして驚きながらも「ギーゼル伯ドーリア・ビークベル卿のご令嬢ルティア様です」と教えてくれた。
ガルヴィードは、心の赴くままに立ち上がった。
このまま、遠ざけられてしまいたくない。
そう思って城の中を探し、庭の隅でぽつんとしゃがみ込んでいる小さな小さな姿を見つけて声をかけた。
四つ葉のクローバーを見つけるのが得意だと笑う顔を見ていると、胸がぎゅっと締め付けられる感じがした。
でもそれは、いつもの重苦しい厭な感じではなく、むしろこの感覚を手放したくないと思うものだった。
なりゆきでクローバーを探すことになったが、結局ガルヴィードは四つ葉をみつけられなかった。
一頻り勝ち誇った後で、ルティアは自分がみつけたクローバーをガルヴィードに差し出した。
『殿下に、いいことがあるように』
その時、ガルヴィードは、ふわりと浮き上がるような心地と、重苦しい腹の底で煮え立つような不平と、相反する感情を同時に感じたのだった。
ルティアに指摘されて自分が苦しんでいると知ったガルヴィードは、自分の苦しみがどこから生まれているのか考えるようになった。
喜びや興味を感じた時にそれを邪魔するように湧き上がってくる不快な苦しさ。自分を邪魔する何かがあるのだと、気付くのに時間はかからなかった。
自分の中に何かがある。
ガルヴィードを苦しめ、周囲から切り離そうと目論む「何か」がある。
そんな考えに囚われて、ガルヴィードは不気味でたまらなくなった。
頭がおかしくなったと思われるのが怖くて、誰にも打ち明けられず、ガルヴィードは一人で怯えるしかできなかった。
そんな時だ。王妃が主だった貴族の令嬢を集めた茶会を開くと聞いたのは。
今考えるとそれは王太子の婚約者候補を探すための催しであったろうに、ガルヴィードの脳裏を過ぎったのはクローバーを差し出してきた少女の笑顔だけだった。
かくて開かれた茶会の席で他の令嬢達をほとんど無視してルティアを探し回る王太子に、周囲の者達は唖然とした。これまで、ガルヴィードがそんな風に自分の意志を露わにすることはなかったからだ。
みつけたルティアを引っ張って茶会から逃げ出し、中庭の前と同じ場所に連れて行って、でも自分でも彼女に何を言えばいいのかわからず、とりあえず「今度は俺が勝つ」と言い張ってまた四つ葉を探した。
逆らわずにちまちまと四つ葉を探すルティアに、ガルヴィードは何か言わなければという焦燥と、何を言えばいいかわからない苛立ちを感じた。
やがて、ルティアがぽつりと尋ねてきた。『何かいいことありましたか?』と。
「何もない」と答えると、ルティアはくりっと首を傾げた。そうして、こう言った。
『どうして、殿下はいつも苦しそうなのですか?』
ガルヴィードは一瞬躊躇ったが、ちょうどみつけた四つ葉に励まされて正直に口に出した。
「俺の中に、俺を苦しめる何かがある。だから、いつも苦しいんだ」
馬鹿にされるか怯えられるかと思ったのに、ルティアの態度はそのどちらでもなかった。
『じゃあ、いつも楽しいことだけしていればいいですよ』
ガルヴィードは四つ葉を探す手元から顔を上げてルティアを見た。ルティアは不思議そうにこちらを見ていた。
『いつも苦しいなら、苦しいのも忘れちゃうぐらい楽しいことをすればいいんですよ』
「……どんな」
『そうですね。美味しいものを食べるとか、歌をうたうとか、友達と遊ぶとか、やりたいことをやるんです』
そんなことで忘れられるようなものではないと、ガルヴィードは腹が立った。だから、クローバーをぶちっと引き抜いて、土の付いたままのそれをルティアに投げつけた。
「脳天気なお前と一緒にするな。どうせ俺は一生このままなんだ」
すると、ルティアはむっとした顔で言った。
『じゃあ、勝負しましょう!』
ガルヴィードは眉をひそめた。
「勝負?」
『私の方がたくさん四つ葉をみつけたら、いっしょに美味しいケーキを食べてもらいます!』
ルティアは胸を張って自信を滲ませた。
『それで苦しいのを忘れられたら、私が正しかったって認めて謝ってくださいね!』
そう言うと、ルティアは猛然と四つ葉を探し始めた。
呆気にとられたガルヴィードは、四つ葉を探すのも忘れてその姿をみつめた。
小さな令嬢の横顔は生き生きとしていて、明るい夜空に似た藍色の瞳はきらきらと輝いていた。
結局、その日の勝負もルティアの勝ちで、ガルヴィードは茶会の席に戻って彼女と向かい合ってケーキを食べる羽目になった。周りの者達が何かいろいろ言っていた気がするが、ガルヴィードは勝負に勝ってご機嫌なルティアを凝視していて聞いていなかった。
『私が正しかったでしょう?』
ルティアがにこにこ笑顔で言った。
ガルヴィードは首を横に振った。いつもとは少し違う気もしたが、胸がもやもやと苦しいことに違いはなかったからだ。
「俺は一生このままだ。これまでずっとそうだったんだから」
『どうして諦めるんですか?そんな苦しさなんかに負けちゃ駄目ですよ』
その無責任で脳天気な言葉に、ガルヴィードはむっとして言い返した。
「お前は、自分のことじゃないからそんなことが言えるんだ」
自分の苦しさなど、わかるわけがない。ガルヴィードはそう吐き捨てた。
すると、ルティアはぱちりと目を瞬いた後で、こう言った。
『じゃあ、私も一緒に戦うから』
ガルヴィードは食い入るようにルティアをみつめた。
『殿下が苦しくなくなるまで、私も一緒に戦いますよ。だから、絶対に負けないでください』
そんな言葉をすぐに信じられるほど、ガルヴィードは馬鹿でも純粋でもなかった。
それなのに、そのなんの根拠もない言葉に縋りたくなった自分をガルヴィードは恥じた。
「お前に何が出来るってんだ」
恥ずかしさを誤魔化したくて、口調が荒くなった。
『一緒に戦います!』
「どうやって?お前がなんの役に立つんだよ」
二人が言い争っていると思った貴族達がルティアを下がらせようとしたが、ガルヴィードは不機嫌を露わに睨みつけて周囲の者を追っ払った。
周りから人が下がると、ルティアはいいことを思いついたとでも言うようにぱっちりと目を見開いて言った。
『じゃあ、勝負しましょう!私がちゃんと戦えるってわかったら、私を頼ってくださいね』
少女は手元に置いてあった四つ葉の束を掴んで、満面の笑顔でガルヴィードに差し出した。
『今のところ、私の方が殿下より強いです!』
***
たかが四つ葉のクローバーを上手く見つけられるくらいで、王太子より自分の方が強いなどと、とんでもない思い上がりだ。不敬でもある。
あの時のことを思い出したガルヴィードはふっと微笑んだ。
あれが、長年に渡って繰り広げられる勝負の始まりだった。
ルティアはガルヴィードの中にある「ガルヴィードを苦しめる何か」を心底嫌ってくれている。ガルヴィードを見る度にその「何か」を感じて嫌悪を浮かべる。ガルヴィードの中にいる「何か」はルティアを嫌い、ルティアを見る度にガルヴィードの中で不快感を暴れさせる。
この「何か」がある限り、ルティアとガルヴィードが結ばれることはない。嫌なのだ。二人の間に「何か」が混じるのは。
ガルヴィードは自分の腹にしがみつくルティアの頭を撫でた。喚き疲れてぐったりしてしまった少女はうとうととしているようだ。
今のままでは、結婚など出来ない。
結婚するためには……
「っ、「何か」を倒せばいいんだ!」
突如、ルティアが叫んでがばあっと起き上がった。勢い余ってガルヴィードの顎に頭がぶつかった。
「ぐっ……!」
「あ」
顎を押さえて呻くガルヴィードを見上げて、ルティアは自分の頭を撫でた。
「でめぇ……っ」
「あのね!「何か」をガルヴィードの中から追い出せばいいんだよ!」
涙目で睨みつけてくるガルヴィードの手を取って、ルティアは懸命に訴えた。
「追い出してやっつけよう!」
「……どうやって?」
顎をさすりつつ尋ねると、ルティアはさもいいことを考えたとでも言いたげに胸を反らした。
「ガルヴィードの中がすっごく居心地が悪くなれば、「何か」は逃げ出すんじゃないかな?だから、ガルヴィードの中を居心地悪い場所にすればいいのよ!」
「どうやって?」
「私!」
ルティアはびしっと自分を指さした。
「私は「何か」に嫌われてるでしょ!だから、私が常にガルヴィードにくっついていれば、「何か」にとってはすっごく嫌で居心地が悪いはず!」
ガルヴィードは目を瞬いた。
「おお、そうか」
「そうだよ!」
「しかし、どれぐらいくっつけば「何か」が逃げ出してくれるか……」
「逃げ出すまでくっつこう!大丈夫だよ!」
ルティアは再びガルヴィードの腹に手を回した。
「私は一緒に戦うから!」
ガルヴィードはルティアのつむじを眺めて口を噤んだ。
勝負を繰り返してきた宿敵は、戦友でもある。その宿敵で戦友が「一緒に戦う」と言うのだ。幼い頃と違って、今のガルヴィードはもう「お前に何が出来る」なんて聞いたりしない。
なんでも出来る。こいつと一緒ならなんでも出来る。
「よし!じゃあ、くっつくぞ!」
「おう!」
こうして、ガルヴィードの中から「何か」を追い出すための「ルティアがくっつく嫌がらせ作戦」は始動した。
ちなみに、後にこの作戦のことをやる気満々のガルヴィードから聞かされたルートヴィッヒは壮絶に嫌そうな顔で「側近辞めたい……っ!」と呻いたのだった。




