第4話 赤壁の風と神獣の導き
修学旅行、二日目。
春日大社へ続く参道は、木漏れ日と鹿でいっぱいだった。
観光客の笑い声と、鹿せんべいをねだる鼻息が混ざり合う。
律が腕を組み、妙に神妙な顔で言った。
「ここでは、鹿こそが神の使い――恋愛成就の使いでもある」
律は陽人の足元に集まる鹿を指さした。
「それがこんなにお前に集まっている。流れは悪くない」
「……いや、ただ鹿がせんべいを狙ってるだけだと思うけど」
陽人は袋を胸に抱えながら、弱々しく反論する。
律はさらに声を潜めた。
「おい、知ってるか。
『一枚のせんべいを二人で持って、全部食べさせられたら一生離れない』って言い伝えがあるんだぞ」
「えっ……そうなの……」
陽人は半信半疑で固まる。
すぐ横で由奈が律の脇腹をつついた。
「……初耳なんだけど。それ、あんたが今作ったでしょ」
律は胸を張る。
「赤壁の戦いにおいて、
孔明は季節風を神通力と言って兵士に勇気を与えた。
――恋愛兵士に勇気を与えるためには、嘘も必要だ」
(ちょっと、ふたりとも……聞こえてるんだけど……)
陽人はせんべいの袋を手に鹿たちに近づく。
***
鹿の群れの中で、永山が爽やかに手を振った。
「畑野さん、これ一緒にあげようよ!」
鹿たちが、何度もお辞儀をする。
永山は、それを面白がって、わざと鹿をじらすようにせんべいを上下させた。
その瞬間、鹿が怒ったように永山の服を噛む。
「わ、わかった! 今、あげるから!」
永山が慌てて取り出そうとした拍子に、せんべいが地面に散らばった。
周囲の鹿が一斉に集まり、永山の四方を囲む。
永山は悲鳴を上げながら逃げ出した。
律が腕を組んで頷く。
「見ろ、神獣たちが『警鐘』を鳴らしている」
由奈が即座に切り捨てる。
「絶対に違う!」
律は構わず続けた。
「強引に進軍しようとする永山への神獣による不遜な進撃への拒絶だ」
(いや、ただの鹿パニックだよ……)
陽人は心の中でそっと突っ込んだ。
***
永山が遠くで鹿に追われているのを横目に、陽人は木陰にしゃがみ、静かにせんべいを差し出していた。
鹿がぽりぽりと食べる音が心地よい。
そこへ、影が落ちた。
朋美が横に立っていた。
「……動物、好きなの?」
そう聞かれ、陽人は慌てて首を振る。
「い、いや……ただ、落ち着くから……」
朋美は何も言わず、ただ陽人の手元を見つめていた。
その視線に胸がざわつく。
そのとき。
観光客の大声が響き、鹿の群れが一斉に走り出した。
「えっ……!」
朋美が鹿に押されてよろけ、陽人にぶつかる。
陽人の手からせんべいが落ちた。
二人同時に手を伸ばす。
落ちた一枚のせんべいの上で、手が重なった。
(……あ)
朋美の手は驚くほど小さくて、温かかった。
鹿が二人が持つせんべいを「パクッ」と食べた。
食べるまでの数秒間、陽人と朋美は手を重ねたまま動けなかった。
***
鹿が去り、二人は弾かれたように手を離した。
朋美は顔を赤くしながら言う。
「ご、ごめん……鹿が急に来たから……」
陽人も慌てて頭を下げる。
「……ううん。僕も、ごめん」
朋美は無表情を保とうとしているが、
触れていた方の手をさっと後ろに隠した。
その仕草が妙に胸に刺さる。
(……今の、ただの事故だよな)
陽人は、朋美の白い手を思い出していた。
(手、すごく小さかった……いや、変なこと考えるな)
陽人は心臓の音がうるさくて、鹿の鳴き声が急に遠くに感じた。
***
律がニヤニヤしながら近づいてきた。
「『塵低くして広きものは、歩の来るなり』
――鹿が走り塵が舞ったその瞬間に、孔明の風が吹いた!」
由奈が冷静に突っ込む。
「孔明の風だなんて、あんたが鹿を追い立てていたじゃない」
律は悪びれず笑った。
「俺は、神獣たちを導いただけさ」
朋美は、‟触れた手‟を握ったまま、少し先を歩く。
(……あれ、本当に神獣だったのかな)
陽人は朋美の背中を目で追った。




