第三十七話 終幕の栞
カチャン、と。
それは物理的な音ではなく、三人の魂の奥底で鳴った、重厚な楔が外れる音だった。
次の瞬間、世界から全ての音が消えた。
鼓膜を破らんばかりに鳴り響いていたアラートも、アーティファクトたちが吐き出す呪いの悲鳴も、シビルのか細い嘆きも。
すべてが、分厚いガラスの向こう側に追いやられたように、ふっと途絶えたのだ。
「……え?」
シビルが、呆然と声を漏らす。
息苦しいほどの高濃度だった魔力空間が、一瞬にして澄み切った空気に上書きされていた。否、違う。あまりにも純度が高く、圧倒的すぎる魔力が空間を満たした結果、他のすべての不純物が押し流され、無に帰したのだ。
炉の前に立つアレクセイ・イズマイロフの姿が、揺らいだ。
彼の纏う空気が、ただの青年から、人智を超えた存在へと――魔術師へと、変貌する。
アレクセイは、黒いヘドロのような呪いを撒き散らす数十のアーティファクトたちと、それを繋ぐ『永遠の炉』を見据え、ゆっくりと口を開いた。
これまでいかなる魔術を行使する時も詠唱を必要としなかった彼が、初めて世界に向けて命令を紡ぐ。
「星よ、凍てつけ」
言葉が発せられた瞬間、世界の物理法則が書き換わった。
「波よ、静まれ」
船の外。厚い装甲をぶち破り、乗客たちを海の藻屑にすべく猛スピードで迫っていた組織のミサイルが。
着弾まで数メートルという空中で、まるで映像を一時停止したかのようにピタリと静止した。
轟音を立てていた推進器の炎が凍りつき、鋼鉄の弾頭は、パラパラと無害な白い砂に変わって、夜の海へと静かに崩れ落ちていく。
「ここは全ての災禍が眠る場所」
アレクセイが一歩、前へ歩み寄る。
大災厄の二の舞を引き起こそうとしていたアーティファクトの暴走。脈打つ赤い光と、空間を埋め尽くす呪いの奔流が、彼が近づいた端から真っ白な紙吹雪へと変わっていく。
「――全ての祈りが還る場所」
ページが千切れて舞うように、あるいは清らかな淡雪のように。
何百年も貴族たちを苦しめてきた血の呪いが、痛みの連鎖が、彼の言葉一つで、ただの美しい景色にされていく。
「今、世界を閉じよう……『終幕の栞』」
アレクセイが、そっと本を閉じるように両手を合わせる。
その瞬間、最後の呪いの欠片が雪となって溶け、機関部を青白い、静謐な光だけが満たした。
……暴走は終わった。強化兵士たちは糸を切られた人形のように崩れ落ち、永遠の炉も、繋がれていたアーティファクトたちも、憑き物が落ちたように完全に沈黙している。
ミサイルの脅威も、大災厄の危機も。すべてが白紙に戻されていた。
だが、しかし。
静寂の中、アレクセイの足が止まった。
炉の最も近くに繋がれていた台座の一つ。そこに横たわるのは、ひび割れた硝子細工の占術器。ハーコート家の第一種指定アーティファクト、『運命の分岐盤』だった。
黒い拘束具は既に塵となって消えている。だが、解放されたはずの分岐盤は、光を取り戻さなかった。
硝子の表面を走る無数の亀裂。そこから漏れ出していた淡い燐光が、蝋燭の最後の揺らめきのように、弱々しく明滅している。
アレクセイは膝をつき、壊れかけた分岐盤にそっと手を触れた。
冷たい。
炉に繋がれた時間があまりにも長すぎた。魔力を無理やり抑え込まれ続けた結果、器そのものが限界を超えて損傷していたのだ。
アレクセイの魔法をもってしても、壊れた器に命は戻せない。
「……ごめんね」
アレクセイは、消えかけた燐光に向かって囁いた。
「間に合わなかった」
最後の光が、ふっと消えた。
分岐盤は、ただの割れた硝子になった。
何百年もの間ハーコート家と共にあった運命の器が、静かに、その生涯を終えた。
アレクセイは立ち上がらなかった。
割れた硝子の前で膝をつき、冷たい破片を両手で包んでいる。
世界を白紙に戻すほどの力を持ちながら、目の前のたった一つを救えなかった。その事実が、彼の胸に深く、静かに突き刺さっていた。
「……ッ」
シビルが、床にへたり込んだまま小さく息を呑んだ。
分岐盤の消滅。それは、ハーコート家の血脈が何百年も守り続けてきたものの終焉を意味する。
彼女の計算も、貴族としての矜持も、すべてが根本から崩れ去っていた。
(……駄目だ)
そしてセンリは、アレクセイの背中に目をやって、別の戦慄を覚えていた。
分岐盤の前で膝をつく彼の横顔。その緑色の瞳から、感情が消えかけている。
あまりにも強大な力で世界を俯瞰しすぎた結果、彼の意識が、この真っ白な魔法の世界に溶け込もうとしている。
このままでは、彼は人間の世界に帰ってこられなくなる。
「アレクセイ!」
センリが叫んで駆け出した。
ウルリカも同時に床を蹴り、剣を放り捨てて青年の元へ走る。
「アレクセイ、こっちを見ろ!」
静かに佇む彼の手を、センリとウルリカが左右から強く、痛いほどに力強く握りしめた。
割れた硝子の破片が掌に食い込む。だが、構わなかった。
「……っ」
「帰ってこい! アレクセイ!」
「目を覚ませ、アレクセイ! 私たちはここだ!」
二人の声と、掌から伝わる生身の人間の熱。
それが栞の代わりとなって、無限に広がる魔力の世界から彼の意識を現実に引き戻す。
アレクセイの肩が、ビクンと大きく跳ねた。
空虚だった緑色の瞳に急速に光が灯り、焦点が結ばれる。彼はハッとして、自分を力強く握りしめている二人の顔を交互に見つめた。
「……センリ。ウルリカ」
「馬鹿野郎……。心臓が止まるかと思ったよ」
「無茶をするな。……よく帰ってきた」
センリがへなへなと座り込み、ウルリカが安堵の息を吐きながらアレクセイの頭を乱暴に撫で回す。
アレクセイは目を瞬かせ、それから、ふにゃりと子供のように笑った。
「……うん。ただいま」
それは世界を救った神様ではなく、不器用で、トーストの焼き加減にこだわる一人の人間の、確かな帰還の合図だった。
だが、その笑みはすぐに曇る。
アレクセイは、自分の膝の前に散らばった硝子の欠片を見下ろした。
「……全部は、救えなかった」
小さな呟き。
センリは一瞬だけ目を伏せ、それから、アレクセイの肩に手を置いた。
「ああ。……でも、お前のせいじゃない」
センリの声は穏やかだった。
割れた分岐盤。かつて自分を縛り、自分が捨てた家の遺産。その最期を看取れなかった後ろめたさは、きっとこの先もずっと胸に残る。
だが今は、立ち上がらなければならない。
「行こう。まだ、やることがある」
センリが手を差し出す。
アレクセイはその手を取り、立ち上がった。
掌には硝子の破片が残した小さな傷跡。それは、全部は救えなかったという事実を刻む、最初の勲章だった。
明日投稿のエピローグをもちまして完結いたします。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




