第三十八話 夜明けの天秤【完】
客室上層デッキの通信アンテナに物理ケーブルを繋ぎ、ヒューゴ・ターナーは息を呑んで手元のモニターを見つめていた。
配信の同時接続数は、すでに天文学的な数字に跳ね上がっている。
機関部の中枢に据えられた『永遠の炉』。そこに命を吸い取られる貴族たちの姿と、隠蔽のために放たれた組織のミサイル。世界中の人々が、特権階級の闇とユースティティアの天秤の非情な決断を、リアルタイムで目撃していた。
「よし、これで誰も揉み消せねえ。俺の、いや俺たちの勝ちだ……!」
ヒューゴは拳を握りしめた。
だが次の瞬間、モニター越しの機関部を、ありえないほどの純白の光が包み込んだ。
ミサイルが空中で静止し、砂となって崩れ落ちる。暴走する呪いのヘドロが、美しい雪に変わっていく。
ヒューゴは目を疑い、モニターに顔を近づけた。
その光の中心に、一人の青年が立っている。背中越しでもわかる、見覚えのある細い後ろ姿。
「……アレクセイ?」
ヒューゴが呆然と呟いた瞬間。
青年から放たれた強大すぎる魔力波が通信機器の許容量を完全に突破し、モニターの映像が激しい砂嵐に飲み込まれた。
ザーッ、という無機質な音だけが、深夜のデッキに響く。
「……嘘だろ」
ヒューゴはモニターから顔を上げ、機関部があるであろう足元の甲板を見つめた。
あの時、古書店で『危ないから行くな』と必死に止めてきた、世間知らずで心配性な友人。
その正体が、世界を書き換えるほどの力を持った、おとぎ話の魔法使いだったなんて。
「あいつ……一人で全部、終わらせちまったのかよ」
ジャーナリストとしての本能が、急いで回線を復旧させ、あの青年の顔を世界中に発信しろと叫んでいる。もし彼が現代に残る本物の魔法使いだと報道すれば、歴史に残る大スクープになる。
ヒューゴは砂嵐の画面に手を伸ばし――。
プツン、と。
自らの手で、配信機材のメイン電源を落とした。
「……まあ、いいか」
ヒューゴは海風に吹かれながら、ふっと口角を上げた。
「魔法使いだろうが何だろうが、あいつは俺のダチだ。……最高の特ダネは、俺の胸の中だけにしまっといてやるよ」
彼は機材を乱暴に鞄に詰め込むと、足取りも軽く、誰もいないデッキを後にした。
***
同じ頃、静寂を取り戻した機関部の中枢。
永遠の炉は完全に沈黙し、繋がれていたアーティファクトたちは憑き物が落ちたようにただの骨董品に戻っていた。
ただ一つ、ハーコート家の『運命の分岐盤』があった場所だけは、割れた硝子の欠片が床に散らばったまま、冷たく光を失っている。
「……どうして」
床にへたり込んだシビル・ハーコートが、空虚な瞳で呟いた。
彼女の視線は、散乱する硝子の欠片に注がれている。何百年もの間、本家が命を削って守り続けてきたもの。それを救うためのシステムだったはずなのに、そのシステムに繋いだことで、取り返しのつかないほど壊してしまった。
「私たちは、どうすればよかったの……。血が薄れ、アーティファクトを縛れなくなった私たちは、こうやってシステムに縋るしか、生き残る道はなかったのに」
「だからって、心を殺して電池になるのが正解だとは思わないね」
冷たい声が降ってきた。
センリ・ハーコートが、見下ろすように彼女の前に立っていた。その顔に、かつてのようなへらへらとした愛想笑いはない。
「呪いは呪いだ。自分たちで抱えきれなくなったからって、血の通わない機械に押し付けて、綺麗事の方舟で逃げ出そうとした。……それが、ハーコート家の限界だったんだよ」
センリの視線が、一瞬だけ割れた硝子の欠片へと落ちた。
分岐盤の最期。あれを見た時、胸の奥で何かが軋む音がした。自分が捨てた家の遺産が、自分の不在の間に壊されていた。その事実を突きつけられた痛みは、きっとこの先もずっと消えない。
だが、その痛みごと引き受けると決めたのだ。
センリはタキシードの内ポケットに手を入れると、小さな金属の塊を取り出した。
ハーコート家の紋章。
組織の中で身分を証明し、時に特権を行使するための『便利な鍵』として、彼が今日まで持ち歩いていたものだ。
カラン、と。
センリはそれを、躊躇いなくシビルの足元へと投げ捨てた。
「センリ、あなた……」
「さよなら、シビル。貴族の時代は今日で終わりだ」
センリの言葉は、冷酷な宣告であり、同時に一つの呪縛からの解放でもあった。
「これからは、呪いも痛みも、人間として自分の足で背負っていく時代だ。……俺は一足先に、ただの公務員になるよ」
センリは踵を返し、倒れたシビルに二度と振り返ることはなかった。
歩み寄った先には、少し疲れた顔で笑う魔術師と、服をボロボロにした剣士が待っている。
「終わったか、センリ」
「ああ。最低な家族会議だったよ」
センリはネクタイを少し緩め、ようやく、いつもの肩の力の抜けた笑みを浮かべた。
「帰ろう、二人とも。ここはもう、俺たちのいる場所じゃない」
***
混乱を極める客室区画から遠く離れた、船尾のデッキ。
無事に避難誘導を終えた怪盗アウレウスは、夜風にマントの裾を揺らしながら、手すりに寄りかかっていた。
彼の手には、機関部で回収した呪いを吸い込み、淡く温かな光を放つ古びたランタンが握られている。
先ほどまで船の底から響いていた、世界を滅ぼしかねないほどの巨大な魔力のうねりは、今や嘘のように消え去っていた。あの不器用な青年のたった一言が、すべての災厄を白紙に戻してしまったのだ。
「……本当に、魔術師っていうのはむちゃくちゃだ」
アウレウスは黄金のハーフマスクを少しだけ押し上げ、呆れたように、しかしどこか懐かしむようにふっと笑いを漏らした。
彼が見つめるランタンの光の奥に、かつてこの厄介なアーティファクトを彼に託した師匠の顔がよぎる。理不尽で、強大で、そしてどうしようもなく人間臭かった、一人の魔術師の姿が。
「彼もあなたと同じで、規格外のバケモノだったよ。……ねえ、師匠」
誰に聞かせるでもない独り言は、潮騒の中に静かに溶けていった。
怪盗はランタンを高く掲げ、見えない友と師に向けて一度だけウインクをすると、夜明け前の闇の中へと軽やかに姿を消した。
***
一方、遠く離れた大陸にあるユースティティアの天秤本部。
そこは今、蜂の巣をつついたような大混乱に陥っていた。
「報道部局から連絡! 先ほどの生配信の映像、すでに全世界のネットワークで拡散されています! もはや検閲は不可能です!」
「上層部は何をしている! なぜサニタイズが失敗したのか、原因を究明しろ!」
「第一種魔術の使用反応を観測! オーロラ・クレストの周辺海域です!」
怒号と電話のベルが鳴り響く作戦司令室。
だが、その喧騒から分厚い扉一枚で隔てられた執務室だけは、奇妙なほどの静寂に包まれていた。
マダム・マーガレットは、革張りの椅子に深く腰掛け、窓の向こうに白み始めた空を静かに見つめていた。
彼女のデスクの上には、四十年前から針の止まった、色褪せた懐中時計が置かれている。
先ほどの、ノイズにまみれた短い生配信。
マダムは確かにその目で見たのだ。すべてを白紙に戻す、圧倒的で神々しい魔術の光を。
「……見せてもらったわ。あなたの物語を」
マダムは、動かない懐中時計の表面を、愛おしむように指先で撫でた。
四十年前の大災厄。世界を救うために魔術を使い、強大すぎる力と引き換えに魔力の中へ溶け――二度と人間の世界に帰ってこられなかった一人の魔術師。
「……あの日の続きを、ね」
マダムの唇に、穏やかな微笑みが浮かんだ。
アレクセイ・イズマイロフは、帰ってきたのだ。あの時引き戻せなかった存在を、センリとウルリカという二人の生身の人間が、力ずくで現実世界へと繋ぎ止めてみせた。
「上層部がどう喚こうと、私が必ずあの子たちを守り抜くわ。ええ、どんな手段を使ってでも」
マダムは懐中時計をそっと引き出しにしまい、毅然とした顔つきで立ち上がった。
夜明けの光が、彼女の背中を力強く照らし出していた。
***
オーロラ・クレストのオーシャンデッキ。
東の空から黄金色の朝日が昇り、穏やかな凪の海をキラキラと照らし出している。
手すりに寄りかかっている三人の姿は、およそ豪華客船の客には見えないほどボロボロだった。
「……ひどい休暇だったな」
ウルリカが、海風に銀髪を揺らしながら溜め息をついた。
「まったくだよ。命の危険はともかく、大赤字だ。……カジノでせっかく稼いだチップ、換金し損ねた」
センリが心底恨めしそうに、ポケットに入ったままのプラスチックのチップを弾いてみせる。
血の呪縛から解放された乗客たちは、今はみな疲れ果てて客室で眠りこけているだろう。もう誰の命も吸われない。誰も犠牲にならない。
ただ、この船が港に着けば、世界を揺るがす大騒動と、果てしない事後処理が彼らを待っているはずだ。
「ねえ、二人とも」
二人の間で、海を眺めていたアレクセイが振り返った。
彼は少しだけ困ったような、それでいてどこか安心しきったような顔をして、自分のお腹のあたりをさすった。
「僕、お腹すいたな。朝ごはんは何だろう?」
神様のような魔法で世界を救った張本人の、あまりにも俗っぽいその言葉に。
センリとウルリカは顔を見合わせ、数秒の空白のあと、同時に吹き出した。
「あははっ! 違いない、まずは腹ごしらえだ。世界が終わるより一大事だからな!」
「そうだね。シェフが無事なら、極上のオムレツでも焼いてもらおうか」
三人の明るい笑い声が、朝の海に溶けていく。
重い過去も、呪われた血も、世界の行く末も。今はすべて、この眩しい太陽の向こう側だ。
かくして、彼らの黄金の休日は、ひとまずの幕を下ろした。
ユースティティアの天秤、完結です。最後まで読んでくださりありがとうございます。感想などいただけるととっても嬉しいです!




