第三十六話 崩壊の足音
カツン、と。
硬い靴音が、むせ返るような安堵の空気を切り裂いた。
泣き崩れる同胞たちの間を抜け、センリがただ一人、シビルに向かって歩み出る。いつもの飄々とした態度は、そこには微塵もなかった。
「シビル」
彼の声が、広大な空間に冷たく響き渡る。
振り返った従姉の微笑みを見据え、センリは静かに、しかし絶対に譲らない決意を込めて言い放った。
「血の責任から逃げるために、心を捨てるなんて……そんなふざけた妥協、俺が許さない」
センリの瞳に、これまでにない怒りの炎が灯っていた。
彼はタキシードの内ポケットから、小型のデータ端末を静かに引き抜いた。
トラップは既に仕込んである。あとは、手元の端末から起動コマンドを送信するだけだ。
「悪いけど、ここで終わらせるよ」
センリは、躊躇いなく端末のエンターキーを叩き込んだ。
――ビィィィィィィッ!!
瞬間、歓声に包まれていた機関部に、鼓膜を突き破るような甲高い警告音が鳴り響いた。
「な、なんだ!?」
「何が起きている!」
貴族たちがパニックに陥り、ざわめき始める。
脈打っていた『永遠の炉』の青白い光が、不規則な赤色へと変色し、激しく明滅を始めた。
「システム異常……? 外部からの不正アクセス……?」
シビルの優しげな笑みが、初めて崩れた。
だが、彼女は叫びも取り乱しもしなかった。コンソールに駆け寄り、震える指で端末を叩き始める。
「大丈夫よ。冗長系に切り替えれば、出力は維持できるわ……。数値は正常範囲。私の計算に間違いはない」
呟く声は、自分自身に言い聞かせるようだった。
そこにあるのは狂信ではなく、何百年にもわたる貴族の苦痛を数式に変換し、最適解を弾き出してきた女の矜持。計算が正しい限り、この船は救いの方舟であり続ける。彼女はそう信じなければ生きていけないのだ。
「さあ、お目覚めの時間だ、お偉方! 泥舟からの脱出劇を始めようか!」
センリの声が、機関部全体に響き渡った。
彼は端末を掲げて堂々と前に進み出る。その両脇には、拳を固めたウルリカと、緑の瞳を光らせるアレクセイが並び立っていた。
「警備兵、来て」
シビルの声に応え、周囲に控えていた無機質な強化兵士たちが、一斉に武器を構えて三人に殺到する。
***
「ごきげんよう。ずいぶんと騒がしいパーティーだが……少し、火を落とさせてもらおうか」
吹き抜けの上層部。遥か頭上の暗がりから、ふわりと一つの影が舞い降りた。
月光を背負って現れたのは、黄金の仮面にマントを纏った男――怪盗アウレウスだ。
「あなた、どこから……」
コンソールに張り付いたまま振り返ったシビルの視界に、怪盗の片手に提げた古びたランタンが映る。
アウレウスはシビルに優雅にウインクを返すと、炉の周辺に繋がれたアーティファクトたちへとランタンを高く掲げた。
カチリ、とランタンのガラス戸が開く。
瞬間、炉に無理やり押さえつけられていたいくつかのアーティファクトから、黒い靄のような「呪い」が吸い出され、ランタンの中へと吸い込まれていった。
淡く、鎮魂の光がランタンの中に灯る。
「……おっと。どうやら中身を溜め込みすぎたらしい」
アウレウスが呟いた直後だった。
呪いを吸い取られたいくつかの台座が沈黙したことで、すべてのアーティファクトを均等に繋いで保たれていた『永遠の炉』のバランスが、決定的に崩壊した。
耳をつんざくような音と共に、行き場を失った莫大な命と魔力の奔流が残されたアーティファクトへと逆流しはじめた。
ハーコート家の『運命の分岐盤』をはじめとする強力なアーティファクトたちが、許容量を超えた魔力を叩き込まれ、黒いノイズを撒き散らしながら致命的な共鳴を始める。
かつて世界を滅ぼしかけた、大災厄の二の舞。その発火点に火がついたのだ。
シビルの指がコンソールの上で凍りついた。
画面に並ぶ数値が、彼女の計算を一つ残らず裏切っていく。冗長系への切り替えも、出力の再調整も、すでに意味をなさない。
「……嘘よ。数値が合わない。なぜ。私の設計は完璧だったはずなのに」
彼女の声から、初めて計算者の冷静さが剥がれ落ちた。
コンソールを叩く手が震え、やがて拳が画面を殴りつける。
「なぜよ……! こんなはずじゃなかった……!」
計算の人生を送ってきた女が、計算では御しきれない現実に叩きのめされる瞬間だった。
「あーあ。これはもう私の手に負える代物じゃないな。……あとは頼んだよ、ユースティティア」
アウレウスは肩をすくめると、悲鳴を上げて立ちすくむ貴族たちの集団へと身軽に飛び降りた。
「さあ、迷える子羊たち。ここは危険だ。皆様、どうか私の後ろへ」
彼は敵であるはずの貴族たちに向かって、まるで夜会のエスコートをするように恭しくお辞儀をした。
そして、魔力にあてられてへたり込んでいた老婦人の手を取り、優しく引き起こす。
「非常用エレベーターはこちらだ。さあ、私についてきなさい」
「あ、あなた様は……」
「ただの通りすがりの泥棒ですよ」
アウレウスの甘く落ち着いた声と、洗練された身のこなしに、錯乱していた貴族たちが次々と彼に従い始める。義賊はそのまま逃げ遅れた乗客たちを見事に先導し、安全な上層デッキへと退避していった。
「あの野郎、美味しいところだけ持っていきやがって……!」
センリは荒い息を吐きながら、急いで手元の端末を操作し、コンソールから炉のシステムへとアクセスを試みる。
***
乗客の退避が始まったことで、強化兵士たちの行動パターンが切り替わった。
炉の防衛ではなく、侵入者の排除。
無機質な瞳が赤く明滅し、一斉にセンリ達へ向かって殺到する。
「させるかッ!」
ウルリカが床を蹴り、銀の閃光となって敵陣に突っ込んだ。
痛覚を持たない彼らに、胴体への打撃は意味をなさない。ウルリカはそれを熟知していた。
彼女の剣は的確に、兵士たちの手首、膝の関節、あるいは武器そのものを狙い、鋭く重い一撃でそれらを切断、粉砕していく。
「……ッ、数が多すぎるな」
ドレスの裾を翻しながら戦うウルリカだが、倒れても這いずって向かってくる無機質な兵士たちに、少しずつ包囲を狭められていく。
その間にも炉の暴走は加速する。空間の魔力濃度が跳ね上がり、空気そのものが物理的な重さを持ったかのようにのしかかってくる。
高濃度の魔力は、耐性のない人間にとっては猛毒に等しい。
「ぐっ……!」
真っ先に影響を受けたのはセンリとウルリカだった。
ウルリカの剣の軌道が鈍り、後方で端末を操作していたセンリは肺を鷲掴みにされたような息苦しさに片膝をつく。
「センリ! ウルリカ!」
アレクセイが慌てて二人に駆け寄る。
魔力濃度がどれほど上がろうと、生粋の魔術師であるアレクセイにとっては何の苦痛もない。だが、放たれる魔力が大切な仲間たちの命を削っている。
「やめて! こんなことしたら、あなただって……!」
アレクセイの悲痛な叫びの通りだった。
コンソールにすがりつくシビルの鼻からは、一筋の血が流れ落ちている。彼女もまた人間だ。限界を超えた魔力の放出に、毛細血管が悲鳴を上げている。
だが、シビルは血を拭おうともしなかった。
もう泣いてもいなかった。壊れた計算式を前に、ただ呆然と虚空を見つめている。
「……合わないの。どうしても、合わないの」
それは狂気の叫びではなく、信仰を失った人間のか細い嘆きだった。数字を信じ、論理を杖にして歩いてきた女の、最後の支えが折れる音。
だが、センリに彼女を気遣う余裕はなかった。
ピーッ! ピーッ!
炉の暴走する音とは違う、冷たく機械的なアラートが、センリの端末に鳴り響いた。
「なんだこれ……。船のレーダー網に、外部から高熱源体が接近……!?」
ディスプレイに表示された光点を見たセンリの顔から、一気に血の気が引いた。
ミサイル、あるいは魚雷。
組織の上層部が、船内でのアーティファクト暴走の兆候を察知し、予定を前倒しして船の撃沈を開始したのだ。
「中からは大災厄、外からは組織のミサイルかよ……! 笑えない冗談だ!」
センリは即座に思考を切り替えた。
俺たちだけじゃ全部は止められない。それに、船が助かっても、このままでは組織は別の手段で証拠隠滅を図るはずだ。
社会的な監視の目――全世界への生中継で、彼らの隠蔽を不可能にするしかない。
「客室デッキの外部通信アンテナを開けるぞ!」
センリは叫びながら、船の通信システムをハッキングして外部への回線を開こうとした。
だが、その瞬間。
『アクセス拒否。当該回線は、既にローカルユーザーによって物理的に占拠されています』
「は?」
画面には、強引にアンテナを乗っ取り、外のネットワークへと大容量の動画データを送信し始めている謎の接続元の形跡があった。しかも、その接続元からは、熱っぽい実況テキストが打ち込まれている。
「なんだこれ、誰かが既に外部回線を……!?」
「あっ!」
耳を塞いで蹲っていたアレクセイが、センリの端末を覗き込んで声を上げた。
「それ、ヒューゴだよ! 特ダネを配信するって言ってた!」
センリは目を見張り、すぐさまその謎の接続元へと自分の回線を割り込ませた。
『うおっ!? なんだ!? 回線がハッキングされた!?』
端末のスピーカーから、慌てふためく若い男の声が飛び出した。
「おい、そこの無謀なジャーナリスト! アレクセイの友達だな!?」
『……はあ!? 誰だお前! ってか、その声……ダンスホールにいたハーコート家のボンボンか!?』
顔を合わせたこともないハッカーとジャーナリスト。だが、絶体絶命の極限状態と『アレクセイの友人』という一点の共通項が、二人の間の無駄な前置きをすべてすっ飛ばした。
「上からアンテナを物理ハックしたんだろ、見事だ! だが、甲板から適当な景色を映してるだけじゃ特ダネには弱い!」
センリは血を吐くような息苦しさに耐えながら、端末を高速で叩き続ける。
「今から、この機関部の中枢――『永遠の炉』のメインカメラの映像をそっちにパスする! 貴族が何に命を吸われ、組織が何を隠蔽しようとしてミサイルを撃ち込んできたか、その全部が映ってる!」
『ミサイルだと!? おい、お前ら無事なのかよ!』
「俺たちのことはいい! この悪趣味な炉の真実を、世界中にバラ撒け! 天秤の上層部が海難事故として揉み消せないくらい派手にな!」
ほんの一瞬の、通信越しの沈黙。
そして、ヒューゴはニヤリと笑う気配と共に、力強く答えた。
『……っ! 上等だ! 組織の隠蔽だろうが貴族の闇だろうが、俺のカメラで全部白日の下に晒してやる! 送ってこい!』
センリはエンターキーを強く叩き、機関部の映像データを外部回線へと一斉送信した。
これで、乗客たちの社会的な命は救われた。組織はもう、この船を闇に葬ることはできない。
だが。
『警告。熱源体着弾まで、残り二十秒』
物理的な死は、もう目と鼻の先まで迫っていた。
外からは組織のミサイル。内からは、許容量を超えて暴走し、黒いヘドロのような呪いを撒き散らし始めた数十のアーティファクトたち。
強化兵士を切り伏せていたウルリカも、高すぎる魔力濃度と圧倒的な数の暴力の前に、ついに膝をついた。
完全に詰みだ。
人間の手でどうにかできる領域は、もう一秒たりとも残されていない。
センリは、端末から静かに手を離した。
ウルリカも、深く息を吐き出し、大剣についた血と油を振り払う。
二人は、暴走する炉の前に立ち尽くす一人の青年を――ひび割れた世界を見つめるアレクセイを、同時に振り向いた。
アレクセイは、もう耳を塞いでいなかった。
彼は振り返り、自分の首元――見えない『首輪』がある場所にそっと触れ、二人にコクリと頷いてみせた。
(信じて。絶対に帰ってくるから)
昨夜の、彼の声が蘇る。
言葉を交わす暇すらない。だが、もとより言葉など不要だった。
センリとウルリカの視線が交錯する。
たった一瞬のアイコンタクト。そこにあるのは、迷いではなく、世界最強の魔術師を自分たちが必ず人間の世界へ引き戻すという、絶対的な覚悟。
センリの首筋で、ウルリカの右手で、紋章が輝く。二人の魂が、全く同じタイミングで、見えない鍵を回した。
「「承認コード『リブラ』――第一種魔力制限、全解除!」」
承認の声が重なった瞬間。
アレクセイ・イズマイロフの首元で、カチャン、と。
重厚な錠前が外れる、幻の音が鳴り響いた。




