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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第四章 黄金の方舟と終幕の光

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第三十五話 静謐な宴

 オーロラ・クレストの甲板に、冷たい海風が吹き抜けていた。

 人影のないボートデッキ。分厚い雲の切れ間から差し込んだ月光が、一人の男の姿を白く照らし出している。

 怪盗アウレウス。

 彼は豪奢な燕尾服の裾を風に揺らしながら、手すりに寄りかかり、手元の古びたランタンを柔らかな布で丁寧に磨いていた。


 火の入っていない、薄汚れたガラスのランタン。

 だが、今夜が終わる頃には、このランタンは眩い光で満たされるはずだ。

 アウレウスは磨き終えたランタンを高く掲げ、月明かりに透かした。


「……泣き声がひどい。可哀想に。どれほど無理やり押さえつけられても、君たちの悲鳴は私の耳に届いているよ」


 船の底から響いてくる、無数のアーティファクトたちの苦痛の呻き。

 アウレウスは嘆息し、黄金のハーフマスクの奥で目を細めた。

 鈍く輝く仮面が、月光を反射して鋭い光を放つ。


「さて、掃除の時間だ。……派手に行こうか、共犯者たち」


 闇に溶けるように、怪盗は音もなくその場から姿を消した。


***


「……くそっ、やっぱり駄目か」


 客室区画の最下層。機関部へと続く重厚なエレベーターホールの陰で、ウェイター姿に変装したヒューゴ・ターナーは、忌々しげに舌打ちをした。

 ホールの前には、これまでとは比較にならないほど厳重な警備が敷かれている。

 黒服の警備員たちが、無機質な瞳で立ち並び、訪れる客一人一人の名簿と顔を厳格に照合していた。


『機関部見学ツアー』。

 希望に満ちた名前とは裏腹に、そこに参加できるのは条件を満たした選ばれし貴族のみだ。ただの金持ちや、ましてや船の従業員など、立ち入る隙は一ミリもない。


「絶対になんかあるってのに……!」


 ヒューゴは隠し持ったカメラを強く握りしめた。

 ジャーナリストとしての直感が、警鐘を鳴らし続けている。中に入っていく貴族たちの顔色は、昨日よりもさらに青白く、まるで生気が吸い取られているように見えた。彼らは皆、操り人形のように虚ろな微笑みを浮かべてエレベーターに吸い込まれていく。


「おい、アレクセイ……。本当に大丈夫なんだろうな」


 自分には、この分厚い特権階級の壁を越えられない。

 ヒューゴは悔しさに唇を噛みながら、密かに潜入しているはずの友人の無事を祈ることしかできなかった。


***


「次の方。……招待状と、IDの確認をお願いします」

「はい。ハーコート家の名代として参りました」


 警備員の機械的な問いかけに、センリ・ハーコートは完璧な作り笑いで応じた。

 差し出したのはハーコート家の紋章が入った身分証だ。

 この船の中枢、『永遠の炉』の要として実家のアーティファクトが繋がれている以上、センリには堂々とこのツアーに参加する血の権利がある。


 警備員は手元の端末とセンリの顔を交互に確認し、やがて無言で道を開けた。


「確認いたしました。……そちらのお連れ様は?」

「護衛と、専門の技術顧問です。アーティファクトの稼働状況を視察するよう命じられていましてね」


 センリの背後には、荷物を背負ったウルリカと、タキシード姿のアレクセイが控えている。

 警備員の無機質な視線が二人を舐めるように動いたが、プログラムされた許可リストに合致したのか、それ以上の追及はなかった。


「どうぞ。素晴らしい救済の夜をお楽しみください」

「ええ、存分に」


 三人はエレベーターに乗り込んだ。

 扉が閉まり、箱が重々しい音を立てて地下深くへと降下していく。


「……随分と簡単なチェックだな。本当にあいつら、思考能力がないのか」


 ウルリカが周囲を警戒しながら小声で言った。


「ああ。あれはただの自動改札機だ。だからこそ、想定外の事態(ハッキング)には脆いはずだ」


 センリはタキシードの内ポケットに忍ばせた小型のデータ端末に触れ、冷たく目を細めた。


「気分はどう、アレクセイ?」

「……騒がしいね。ずっと泣き声が聞こえる。早く止めてあげないと」


 アレクセイは耳を塞ぐように両手を当て、顔を顰めていた。

 彼の目には、昨日よりもさらに太くなった命のケーブルが、乗客たちから吸い上げられているのが見えているはずだ。猶予はない。


 チン、という無機質な電子音と共に、エレベーターが最下層に到着した。

 ゆっくりと扉が開く。

 そこに広がっていたのは、青白い光に満たされた広大な空間。そして、中央で禍々しく脈打つ巨大なガラスの心臓――『永遠の炉』だった。

 炉の周囲には、血管を思わせる黒いケーブルが無数に這い回り、その先端には幾つもの見慣れた品々が繋がれている。剣、杯、古書、装飾品。各家門が代々、血を吐くような思いで管理し続けてきたアーティファクトたちが、まるで生贄のように磔にされていた。


「ようこそ、皆様。……もう、大丈夫ですよ」


 静寂の中、よく通る女の声が響いた。

 シビル・ハーコートは、すでに到着していた数十人の貴族たちの間をゆっくりと歩き回り、まるで優秀な看護師かのように一人ひとりの肩に優しく触れていた。


「あなたの家のアーティファクトはあそこです。……ええ、もう暴走に怯える夜は終わりました。痛みに耐える必要もありません。この巨大なシステムが、皆様の痛みを完全に肩代わりします」


 シビルの囁きは、どこまでも落ち着いていた。氷のような冷たさは薄れ、その口ぶりには慈愛すら滲ませている。


「私たちがすべきことはたった一つ。この穏やかな海のように、船のネットワークを通じて微かな生命力を預け、ただ静かに、永遠に家門の責務を果たし続けること。……さあ、安らぎの時代を迎えましょう」


 数秒の、完全な沈黙。

 そして――ふうっ、と。

 誰からともなく、限界まで張り詰めていた糸が切れたような、深い、深い安堵の溜息が漏れた。


「ああ……これで、やっと眠れる」

「娘に、あの呪いを背負わせなくていいんだ……」


 貴族たちは次々とその場に崩れ落ち、顔を覆って静かに泣き崩れた。

 誰一人として、命を奪われることに怒る者はいなかった。彼らは、限界まで擦り切れていたのだ。痛みがなくなり、子孫に呪いを残さずに済むのなら、自分がゆっくりと空っぽの抜け殻になっても構わない。その緩やかな死を、彼らは救済として受け入れていた。


***


 泣き声が広がっていく。

 安堵と感謝の涙。長い長い痛みから、ようやく解放される喜び。

 その波が、ゆっくりと、三人にも押し寄せてきた。


 最初に呑まれかけたのは、ウルリカだった。


 白鳥のサロンで出逢った女性たちの顔が、一人ずつ、脳裏に浮かんでくる。

 扇子の陰で涙を拭っていた老婦人。首筋のアーティファクトの痕を隠すように襟を立てていた若い母親。手が震えて紅茶のカップを持ち上げられなかった令嬢。

 彼女たちが求めていたのは、まさにこの光景ではなかったか。

 子どもに呪いを残さない未来。痛みのない朝。それだけのことだ。

 人間として当たり前の願いを、何百年も踏みにじられてきた人々が、ようやく手に入れた安らぎ。

 それを――壊す?


「……」


 ウルリカの右手が、無意識にドレスへ伸びた。手が探したのは武器ではなく、あの手紙だった。

 サロンの有志が、三枚の招待状と共に託してくれた手紙。『彼女たちを止めてください』と書かれていた。

 あの手紙を書いた女性は、今、どうしているのだろうか。助けてほしい友人が、この中にいるのだろうか。この泣き崩れる群衆に。安堵の涙を流しながら、ゆっくりと空っぽになっていく人々に。


(止めてほしいと、託された)


 だが。

 泣いている老婦人が、隣の女性と手を取り合い、微笑む光景が目に入った瞬間。


(……本当に、壊していいのか)


 心臓が鈍く痛む。

 ウルリカの足が、動かなくなった。


 センリもまた、立ち尽くしていた。

 内ポケットの端末に指を添えている。ハッキング起動のコマンドは、もう打ち込んである。エンターキーを押すだけだ。たったそれだけで、このシステムは崩壊する。


 だが、その『たったそれだけ』が、途方もなく重い。


 目の前で泣いている人々。

 その中に、見覚えのある顔があった。ハーコート家の分家の老人だ。センリが幼い頃、屋敷を訪ねるたびにキャラメルをくれた、穏やかな老紳士。彼は今、涙を流しながら繰り返していた。


「これで……孫にあの日記帳を継がせなくて済む。あの子は、自由になれるんだ……」


 日記帳。

 センリが自ら断ち切ったはずの、ハーコート家の呪い。だが分家では、同じような鎖が今も生きている。その鎖から解放される喜びを。

 この手で、壊すのか。


(やめろ。考えるな。これは毒だ。甘い毒だ)


 頭では分かっている。このシステムが彼らの魂を吸い上げ、やがて廃人にする装置であることを。

 だが、その『やがて』が来るまでの猶予を奪い取る権利が、自分にあるのか。


(俺は何様だ?)


 ハーコート家から逃げ出した脱走兵。血の責任を放り出した男が、今さら血の苦しみに耐えてきた人々に「目を覚ませ」と説教するのか。

 センリの指が、端末の上で凍りついた。


 そして、アレクセイ。

 彼は、最も深い場所で揺らいでいた。


 アレクセイの目には、他の二人には見えないものが見えている。

 青白い光に満たされた空間。命のケーブルが乗客たちの足元から静かに炉へと伸びていく。

 だが、同時に。

 吸い上げられた命の残滓が、薄いヴェールのように貴族たちの体を包み、彼らの痛覚を優しく麻痺させている光景も、見えていた。


 かつて自分がやったことと、同じだ。


 ウルリカの記憶を書き換え、痛みを消し、偽りの幸福で包み込んだ。あの時の自分の魔法と、このシステムがやっていることの本質は、何も変わらない。

 違うのは、規模だけだ。


(……僕がウルリカにしたことは、間違いだった。ウルリカが自分で殴って教えてくれた。痛みを消すのは、人間を消すのと同じだって)


 だが。


(でも、あの時の僕も、本気で彼女を幸せにしたかっただけなんだ)


 目の前で泣いている人々の願いは、かつての自分の願いと同じだ。

 愛する人を苦しみから救いたい。ただそれだけの、純粋で、切実で、だからこそ取り返しのつかない願い。

 それを「間違いだ」と断じることが、アレクセイにはできなかった。

 間違いだと言えば、かつての自分の愛も、全て否定しなければならないから。


 三人とも、動けなくなっていた。

 シビルの甘い声が、安堵の涙が、長い苦痛からの解放の喜びが、見えない麻酔のように三人の決意を溶かしていく。

 このまま目を閉じてしまえば、楽になれる。

 すべてを受け入れて、ここに痛みのない世界を作ることもできる。

 端末を捨てて、剣を捨てて、魔法を捨てて。

 ただの乗客として、この安らかな船に身を委ねて――。


 ぴしり、と。


 空気が割れるような、微かな音が響いた。

 それは、炉に繋がれたアーティファクトの一つが発した、小さな、小さな悲鳴だった。


 貴族たちには聞こえない。センリにもウルリカにも。

 だが、アレクセイの耳には、はっきりと届いた。


 それは、ハーコート家の『嘆きの銀時計』だった。

 黒い拘束具に締め上げられ、魔力を強制的に封じられた時計が、壊れかけの振り子のように、か細い音を立てている。


 それは「助けて」ですらなかった。

 もっと単純な、もっと原始的な音。


 ただ、痛い。

 ただ、苦しい。

 ただ、ここから出して。


 言葉にならない祈り。

 人間たちの安らぎの裏側で、声を上げることも許されず、ただ黒いノイズを吐きながら沈黙を強いられている道具たちの、凍りついた悲鳴。


 アレクセイの緑色の瞳から、一筋の涙が零れた。


 それは、自分のための涙ではなかった。

 かつてシビルの地下室で、別れ際にアーティファクトたちに囁いた言葉が蘇る。


『ごめんね。もう少しだけ、我慢して』


 あの時から、ずっと我慢させたままだ。


「……センリ」


 アレクセイは、小さな声で言った。

 涙で濡れた目のまま、しかしその瞳に迷いはなかった。


「人間たちは笑ってるのに……あそこに繋がれた道具たちは、泣き叫んでる」


 静かな声だった。

 だが、その言葉は、安堵の麻酔に包まれかけていた二人の意識を、氷水のように貫いた。


「痛いって、苦しいって……。無理やり封じられて、悲鳴を上げてるのに、誰も聞いてくれないんだ」


 センリの指が、端末の上で微かに震えた。


「人間が楽になるために、道具が代わりに苦しんでいいなんて、そんなの……僕は嫌だ」


 アレクセイは袖で涙を拭い、センリとウルリカを真っ直ぐに見た。


「僕があの時、ウルリカの痛みを消したのと同じだよ。幸せにしたかっただけだって、今でも思ってる。でも、間違いだった。ウルリカが教えてくれた。痛みを引き受けるのが、生きるってことだって」


 その言葉に、ウルリカの目が見開かれた。

 かつて崩壊する黄昏の館で、自分がアレクセイに叩き込んだ拳の意味を、この魔術師はずっと抱えていたのだ。


「だから、ここにいる人たちにも……痛くても、自分の足で立ってほしい。僕はそれを信じたい」


 アレクセイの声が震えている。

 泣いている人々に「目を覚ませ」と言うことの残酷さを、かつて自分が目を覚まさせられた側の痛みを知っている彼だからこそ、誰よりも深く理解している。

 それでも、言った。


 ウルリカは、一度だけ目を閉じた。

 瞼の裏に、サロンの女性たちの顔が浮かぶ。『止めてください』と書いた、あの震える筆跡。

 彼女たちは知っていたのだ。この甘い安らぎが毒だと。だからこそ、外から壊してくれる人間を求めた。

 自分たちの力では、もう抗えないほど深い絶望の底にいるからこそ。


「……貴族がどれだけ重い荷物を背負ってきたか、私だって少しは分かったつもりだ」


 ウルリカは、ドレスを強く握りしめた。


「だが……心を殺してまで得た平穏に、生きている意味なんてあるのか。そんなのは、死ぬより悲しい逃げ道じゃないか」


 センリは、端末を握る自分の手を見つめた。

 震えている。ずっと震えていた。

 目の前で泣いている老紳士。キャラメルをくれた優しい人。

 その人の涙を踏みにじる覚悟が、この手にあるのか。


(……ある)


 センリは息を吸った。


(なくても、やる。それが、逃げ出した人間の落とし前だ)


 端末を握り直す。指先に、少しだけ力が戻った。

 だが、まだ押さない。

 今この瞬間に押せば、三人の覚悟を固めないまま、混沌に飛び込むことになる。


「……作戦を変えない。だけど、少しだけ順番を変える」


 センリは低い声で、二人に囁いた。


「シビルが次の説明に移るタイミングを待つ。貴族たちの注意が炉のデモンストレーションに集中した瞬間に、俺がシステムに割り込む。ウルリカ、強化兵士が動いたら頼む。アレクセイは――」


「分かってる」


 アレクセイは頷いた。もう泣いていない。


「炉が止まった時に、あの子たちの悲鳴を受け止める。僕にしかできないことだから」


 三人の視線が交錯した。

 迷いは消えていない。痛みも消えていない。

 だが、足は動く。

 目の前の安らぎが偽りだと知りながら、それでも壊すと決めた人間の足は、確かに前を向いていた。


 機関部を満たす青白い光の中、シビルが次のプレゼンテーションの準備に取りかかる。

 炉がひときわ大きく脈動し、その光が貴族たちの顔を照らした。

 安堵に包まれた彼らは、自分たちの背後に立つ三人の影に、まだ気づいていない。


 センリの指が、端末のエンターキーの上に静かに乗った。


 嵐の、一秒前だった。


長くなったので本日は一話のみの更新です。明日は二話更新、駆け抜けますのでお付き合いください!

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