第三十四話 心の在処
ロイヤルスイートの豪奢な円卓に、見取り図が広げられていた。
センリが手書きで書き起こした、機関部の中枢エリアの簡易マップだ。
「作戦の決行は明日の夜。機関部見学ツアーの最中だ」
センリはマップの中央――『永遠の炉』が描かれた部分をペンで叩いた。
「俺がツアー客に紛れてシステムにハッキングを仕掛け、炉の制御を奪って物理的にシャットダウンする。その間、ウルリカはあの強化兵士たちを抑え込んでくれ。アレクセイは限定的な魔力行使で、炉が止まった瞬間に起きるアーティファクトの魔力逆流を相殺するんだ」
それぞれが自分の役割を確認し、無言で頷く。
だが、ウルリカがマップから視線を上げ、鋭い琥珀色の瞳でセンリを射抜いた。
「もしもの話だ、センリ。あれが暴走を始めたら、どうする? 限定的な魔法で相殺できる規模ではないぞ」
その問いに、部屋の空気が一段と重くなった。
センリは手元のペンを置き、重い息を吐き出した。
「……その時は、俺とウルリカの同時承認で、アレクセイの首輪を完全に解除する。第一種魔術の行使許可だ」
二人の魂を鍵として、一時的にアレクセイの魔力制限を全解除するジョーカー。彼が天秤の管理下に入った際、万が一の暴走を止めるためのセーフティとして設定したものだ。同時に、彼本来の絶大な力を引き出すための裏口でもあった。
「だが、俺は絶対にあの鍵を開けたくない」
「なぜだ? アレクセイはそんなにやわじゃないだろう」
「……心配なんだよ」
センリは、隣で静かに話を聞いているアレクセイに視線を向けた。
「あの炉の底には、数え切れないほどのアーティファクトの呪いと、乗客たちの願いがヘドロのように溜まっている。それを魔術でねじ伏せるということは、アレクセイの精神をそこに直結させるということだ」
センリの拳が、テーブルの上で微かに震えていた。
彼にとって、目の前にいる細身の青年は、もはや処理すべき危険物ではない。トーストの完璧な焼き加減で得意げに笑い、初めて見る海に目を輝かせる、大切な家族だ。
「あの呪いを処理するために、アレクセイが……怪物になるんじゃないかって」
センリの痛切な告白に、ウルリカもまた息を呑んだ。
彼女も知っている。アレクセイがかつて、どれほど孤独で、どれほど虚ろな瞳をしていたかを。
沈黙が落ちた。波の音だけが、窓の向こうから規則的に響いている。
「……センリ」
ふわりと、穏やかな声がした。
アレクセイが、センリの震える手に自分の冷たい手を重ねていた。
「大丈夫だよ」
「アレクセイ……」
「森にいた頃の僕は、一人ぼっちだった。繋ぎ止めてくれるものが何もなかったから、魔法の中に溶けていくしかなかったんだ」
彼は空いた方の手で、自分の首元にそっと触れた。
そこには物理的な首輪はない。だが、三人の魂を繋ぐ、確かな制約がある。
「でも今は、この首輪がある。センリとウルリカが鍵を持っている限り、それが僕が帰るための目印になるんだ。真っ暗な海の底に潜っても、二人が引っ張ってくれるって分かってるから」
アレクセイは緑色の瞳を細め、ひだまりのような柔らかい笑みを浮かべた。
「だから、もしもの時は……僕を信じて、鍵を外して。絶対に帰ってくるから」
その言葉の強さに、センリは言葉を失い、ウルリカがふっと口角を上げた。
「……聞いたか、センリ。こいつが迷子になりそうなら、私たちが力ずくで首輪を引っ張ってやればいいだけだ」
「……無茶苦茶言うなよ」
センリは自嘲するように笑い、それから、しっかりとアレクセイの手を握り返した。
「分かった。もしもの時は、一瞬の躊躇もなく鍵を開ける。……そして、必ず引き戻す」
三人の視線が交錯し、見えない絆が再び強く結び直された。
ジョーカーを切る覚悟は決まった。あとは、その札を使わずに済むよう、全力で足掻くだけだ。
***
翌朝。
空には一点の曇りもなく、豪華客船『オーロラ・クレスト号』は、陽光を反射して白亜に輝きながら、穏やかな海を滑るように進んでいた。
デッキでは乗客たちが談笑し、来るべき救済の夜を心待ちにしてグラスを合わせている。彼らは何も知らない。自分たちが立っている甲板の真下で、静かに死へのカウントダウンが進んでいることを。
そして、その死のシステムを破壊すべく、三人の生身の人間が牙を研いでいることを。
太陽がゆっくりと西へ傾き、海面が黄金色から赤、そして深い紫へと染まっていく。
偽りの福音を暴く、運命の日が始まろうとしていた。




