第三十三話 無機質な方舟
夜の海は、アレクセイが知っているどんな湖よりも広く、そして黒かった。
展望デッキの手すりに身を乗り出し、彼は潮風に髪を揺らしながら、ただ呆然とその光景を見つめていた。
空と海の境界線が溶け合い、満天の星空がどこまでも続いている。波の音は規則的で、巨大な船が海を切り裂いて進む振動が、心地よく足裏に伝わってくる。
「……世界って、こんなに広かったんだ」
ぽつりとこぼれた言葉は、夜風に吸い込まれていった。
物心ついた時から冷たい森の奥で生き、半年前まで小さな屋敷の中で世界のすべてを知った気になっていた自分が、ひどくちっぽけに思える。
センリやウルリカが教えてくれた外の世界は、騒がしくて、痛くて、そして――こんなにも美しい。
「本当に、素敵な夜ですわね」
不意に、隣から穏やかな声がした。
ビクッと肩を揺らして振り返ると、少し離れた場所に、上品なショールを羽織った老貴婦人が立っていた。彼女もまた、手すりに手を添えて星空を見上げている。
彼女はアレクセイの蝶ネクタイ姿を見て、人の良さそうな微笑みを浮かべた。
「驚かせてしまってごめんなさいね。……あまりにも空気が美味しくて、つい客室を抜け出してきてしまったの」
「あ、いえ……僕も、海を見るのは初めてなので」
「まあ。それは素晴らしい体験ですわね」
老貴婦人は目を細め、胸に手を当てて深く息を吸い込んだ。
「私も、こんな風に夜風を心地よいと感じたのは、何十年ぶりかしら。ずっと……背中に重い石を引きずっているような痛みと共に生きてきましたから」
彼女の家もまた、厄介なアーティファクトを管理する血筋なのだろう。
その責務がどれほど精神と肉体を削るか、アレクセイはハーコート家の地下室で嫌というほど見てきた。
「でも、もう痛くないの。この船に乗ってから、体が羽根のように軽くて……ようやく、私にも人間らしい生活が戻ってきたのよ」
彼女は幸福そうに笑った。
だが、アレクセイは愛想笑いを返すことができなかった。
彼の緑色の瞳――魔術の深淵を覗き込むその目は、彼女の言葉とは裏腹の、あまりにも残酷な真実を捉えてしまっていたからだ。
(……違う)
アレクセイは息を呑んだ。
老貴婦人の足元。そこから、光る絹糸のような『何か』が立ち上り、彼女の体から少しずつ、静かに抜け出している。
それは彼女の生命力であり、魔力であり、魂そのものだった。
透明な糸の束は、まるで目に見えない巨大なケーブルのように足元の甲板をすり抜け、船の遥か底深く――機関部へと吸い込まれていく。
彼女が「痛みが消えた」「軽い」と感じているのは、呪いが解けたからではない。
痛みを感じるための心そのものが、少しずつ削り取られ、吸い上げられているからだ。
よく見れば、彼女の微笑みはひどく不自然だった。
頬の筋肉はこわばり、目の奥には喜びの光などない。まるで、精巧に作られたゼンマイ仕掛けの人形が、プログラムされた通りに口角を上げているだけのようだった。
「これで、娘や孫たちも救われます。この素晴らしいシステムが、私たちの未来を約束してくれる……」
老婦人はうわ言のように繰り返し、ゆっくりとデッキを歩き去っていった。その足取りは、もはや自分の意思で歩いているのかすら疑わしいほど、空虚で覚束ないものだった。
アレクセイは手すりを強く握りしめた。
森で使った自分の魔法は、無理やり人の心を書き換える乱暴なものだった。
プロメテウス・テックの技術は、魂を燃やして人を狂気へと駆り立てるものだった。
だが、この船で行われていることは、そのどちらよりも静かで、無機質で、おぞましい。
血の呪いから逃れるために、血の通わないシステムの一部として電池になり果てる人々。
「……センリ、ウルリカ」
アレクセイは震える声で、仲間たちの名前を呼んだ。
早く伝えなければ。この巨大な箱舟が、乗客たちの命を燃料にして進む、冷たい棺桶であるということを。
***
同じ頃、豪華客船の最下層。
華やかな客室区画とは打って変わり、むき出しの配管と冷たい鉄の壁が続く通路の暗がりに、二つの影が潜んでいた。
「……見回りの数は五人。ここから先は電子ロックがかかっているな」
センリ・ハーコートは、壁の陰から分厚い隔壁とそれを守る警備員たちを観察し、小さく舌打ちをした。
すると、隣に潜んでいたウルリカが、無言で一枚の黒いカードキーと、香水の匂いが染み付いた小さなメモ用紙を差し出した。
「なんだい、これ」
「あの怪盗だ。ダンスの最中に、私の手袋の隙間に滑り込ませたらしい」
ウルリカの言葉に、センリはピクリと眉を動かした。
「……あいつ、やっぱり手癖が悪いな。で、何て書いてあるの?」
「『時計仕掛けの番犬は、決められた秒針の音しか聞こえない』……だそうだ。意味が分かるか?」
センリはメモの文面と、カードキー、そして隔壁の前に立つ警備員たちを交互に見比べた。
ウルリカは目を細め、獲物を狙う獣のように彼らの動きを観察している。
「……センリ。あいつら、足音が一定すぎる」
「なるほど。そういうことか」
センリの背筋に、氷のような悪寒が走った。
プロメテウス・テックの強化兵士。魂を燃やして人の限界を超える技術の産物。
だが、彼らはあの時の兵士たちとは違う。ノアやエレナの掲げていた魔術という特権階級への怒りや狂信的な熱すら、彼らの目には宿っていなかった。
「彼らはもう、ただ機関部を守るための防衛システムとしてあそこに配置されている」
「ただの部品、ということか」
「ああ」
センリはカードキーを弄りながら、不敵な笑みを浮かべた。
「つまり、彼らは侵入者や攻撃という明確な脅威には即座に反応するが、プログラムされていないただの機械のエラーには無関心なんだよ」
センリは音もなく後退すると、通路の壁にあった配電盤のカバーを開けた。
中の配線を迷いなく数本引き抜き、別の端子へと繋ぎ変える。ユースティティアの天秤で数々のアーティファクトの暴走処理をしてきた彼にとって、物理的な機械のショートなど造作もない。
バチッ、という火花と共に、通路の天井にあったスプリンクラーの配管から、高温の蒸気が勢いよく噴き出した。
視界を真っ白に染め上げる蒸気。
だが警備員たちは武器を構えることも、警戒の声を上げることもなかった。彼らのプログラムには『配管の不具合による蒸気漏れはメンテナンス班の管轄である』と刻まれているからだ。彼らは機械的に、自分の持ち場に立ち続けている。
「行くぞ、ウルリカ。蒸気が晴れるまで十五秒だ」
真っ白な視界の中、二人は足音一つ立てずに警備員たちの間をすり抜けた。
ウルリカが流れるような動作でカードキーをリーダーに通す。小さな電子音が鳴り、重厚な隔壁が音もなく開いた。
滑り込んだ先は、機関部の中枢だった。
そこに広がっていた光景に、センリとウルリカは息を呑んで立ち尽くす。
巨大な吹き抜けの空間。
その中央には、心臓のように脈打つ巨大なガラス張りの炉が鎮座していた。
だが彼らを戦慄させたのは、『永遠の炉』と記されたそれそのものではない。
炉の周囲に敷き詰められた、無数の台座。その一つ一つに、厳重に封印された箱や、剣、装飾品といった様々なアーティファクトが鎮座し、黒い金属の拘束具でがんじがらめにされていたのだ。
炉からは無数のケーブルが蜘蛛の巣のように張り巡らされ、上層の客室デッキへと伸びている。
そのケーブルを伝って、青白い光の粒子が絶え間なく降り注ぎ、炉を経由して各アーティファクトへと強制的に注入されていた。
「……そういうことか。悪趣味なシステムだ」
センリは吐き捨てるように言った。
この船に乗っている貴族たちは、単なる客ではない。彼らは自分たちが管理しきれなくなったアーティファクトを、この船に持ち込んでいたのだ。
「あれを見ろ、ウルリカ。上の客室から吸い上げた乗客たちの生命力を、一つの巨大な奔流にまとめて、アーティファクトに叩きつけている。……呪いを鎮めているんじゃない。命の質量で無理やり押さえつけて、窒息させているんだ」
貴族たちはアーティファクトの呪縛から逃れたと信じている。だが実態は、彼ら自身の命を『電池』として巨大な炉を回し、その莫大なエネルギーでアーティファクトの悲鳴を黙らせているだけなのだ。
「血の責任を誇ってきた貴族たちが、自らこんな無機質な機械の部品になるとはな……」
ウルリカの琥珀色の瞳に、静かな、しかし強烈な怒りの炎が灯る。
だが、センリはウルリカの言葉に頷く余裕すら失っていた。
彼の視線は、炉の最も近い場所――中枢エリアに置かれた一つのアーティファクトに釘付けになっていた。
「……嘘だろ」
センリの声が震える。
そこにあったのは、見覚えのある硝子細工の占術器に、秤に、時計。
ハーコート家が代々管理してきた第一種指定アーティファクト、『運命の分岐盤』に『星読の秤』、そして『嘆きの銀時計』だった。
それらが今や黒いユニットに寄生され、どす黒いノイズを上げながら無理やり沈黙させられている。
ハーコート家は、ただこの技術を容認しただけではない。
本家の次期当主であるシビルは、自らの家のアーティファクトすらもこの炉の核として組み込んでいた。この狂ったシステムを率先して先導しているのは、彼女だ。そしてそのシステムを構築するための基礎理論は、センリのIDを使って盗み出されたもの。
「センリ」
ウルリカの声が、凍りついたセンリの意識を現実に引き戻した。
彼女は、顔面蒼白になっている相棒の前に立ち、その両肩をガシッと掴んだ。
「家がどうとか、お前の責任がどうとか、今は考えるな。私たちが見るべきなのは、明日だ」
「……ウルリカ」
「このペースで命を吸われ続ければ、乗客たちは直に魂が空っぽの廃人になる。……組織が船を沈めるまでもない。この船が、勝手に彼らを殺す」
真っ直ぐな、迷いのない瞳。
彼女の手のひらの熱が、センリの冷え切った体に少しだけ温度を取り戻させた。
「……そうだね」
センリは小さく息を吐き、自嘲するような笑みを浮かべた。
絶望している暇はない。彼らは、全員を助けると決めてこの泥舟に乗ったのだから。
「このシステムは、俺のIDから漏れたデータで作られた。……それを利用してバックドアを仕込む」
永遠の炉をコントロールする端末に触れる。人間の限界を超えるために作られた技術の未来が、このような形であっていいはずがない。それは、技術者に対するセンリなりの敬意であった。
「ぶっ壊せばいいんじゃないのか?」
「物理的に破壊したら、行き場を失った魔力が暴走して、大災厄の再来だよ。……止めるには、俺たちが炉の制御を完全に奪うしかない」
タイムリミットは迫っている。
センリは、苦しげに明滅するアーティファクトを――かつて自分が目を背け、人に押し付けていた家の呪いを、今度こそ真っ直ぐに見据えた。
「……家族会議の準備が必要だな」
機械仕掛けの地獄に、生身の反逆者たちが牙を剥く時が来たのだ。




