第三十二話 役者たちの夜
カジノでの征服を終えた三人は、メインダイニング『ル・グラン・ブルー』へと移動していた。
高い天井にはクリスタルのシャンデリアが煌めき、生演奏のヴァイオリンが優雅な調べを奏でている。
「……センリ。これは、食べ物なのか?」
運ばれてきた皿を見て、ウルリカが眉間に深い皺を刻んだ。
巨大な皿の中央に、ポツンと置かれているのは、虹色に輝く泡と、試験管に入ったスープ、そして花びらのような何かだ。
「『オマール海老の再構築・深海の夢を添えて』だそうだよ」
「海老……? 殻も身も見当たらないが」
「この泡が海老のエキスだよ。さあ、食べてみて」
センリに促され、アレクセイがおずおずとスプーンを伸ばす。
彼がその泡を口に含んだ瞬間、緑色の瞳がまん丸に見開かれた。
「……消えた!」
「口にあった?」
「すごいよセンリ! 口に入れた瞬間、海老が弾けて、香りが鼻に抜けて、スッと溶けちゃった! これは魔法? それとも錬金術?」
「科学の粋を集めた料理さ。気に入った?」
「こんな不思議な料理、初めてだ」
これまで質素な食事かセンリの作る雑な家庭料理しか知らなかったアレクセイにとって、この美食体験は衝撃的だったようだ。次々と運ばれてくる実験のような料理に、彼は子供のように目を輝かせている。
一方、ウルリカは複雑な顔でフォークを動かしていた。
「美味いが……食べた気がしないな。肉の塊を焼いて食う方が、よほど精がつく」
「まあ、貴族の食事なんてのは体験を食べるようなものだからね」
センリは慣れた手つきでナイフを使いながら、周囲のテーブルに視線を流した。
着飾った紳士淑女たちが、ワイングラスを傾けながら談笑している。だが、聞こえてくる会話の内容は、この料理の味についてではない。
「……聞いたか? 例の。機関部の見学ツアー」
「ああ、明日の夜だろう? ついに『永遠の炉』がお披露目されるとか」
「これでもう、娘を犠牲にせずに済む。……素晴らしい時代だ」
希望に満ちた声。安堵の溜息。
彼らは本気で信じているのだ。この船が、希望への箱舟だと。
センリの手が止まる。
美味しいはずのワインが、鉄錆のような味に変わるのを感じた。
「……誰も、疑っていないな」
「ああ。幸せな顔をしている」
ウルリカが小声で返し、アレクセイは黙って皿を見つめた。
この船に乗っているのは、悪人ではない。ただ呪いから解放されたいと願う、普通の人々だ。
だからこそ、タチが悪い。
「さて、デザートも済んだことだし」
センリはナプキンで口元を拭い、意識的に明るい声を出した。
「少し運動をしようか。情報は足で稼ぐものだ」
***
食後のダンスパーティーが開かれているボールルームは、熱気に包まれていた。
センリとウルリカは、ホールの中央でステップを踏んでいた。
「……随分慣れたね。やっぱり教え方が良かったのかな」
「言ってろ」
センリのリードに合わせて、ウルリカがくるりと回る。
二人は踊りながら、周囲の客層と警備の配置を観察していた。会場の四隅には、黒服の男たちが立っている。ただの警備員ではない。腰のあたりが不自然に膨らんでいるのは、銃か何かを隠し持っている証拠だ。
その様子を、アレクセイは壁際の柱にもたれて眺めていた。
自分はダンスなど踊れないし、目立つのも怖い。壁の花でいるのが一番落ち着く。
「……おい」
不意に、背後から声をかけられた。
アレクセイがびくりとして振り返ると、そこには盆を持ったウェイターが立っていた。
整えられた赤毛、見覚えのある顔立ち。
「ヒューゴ!」
「しっ! 声がでかい!」
ウェイターに変装したヒューゴ・ターナーが、慌ててアレクセイの口を塞ぐような仕草をした。
「お前、なんでここにいる!? 危ないから来るなって言ったのアレクセイだろ!」
「……ヒューゴ、本当に潜入してたんだ」
「当たり前だろ。特ダネのためなら火の中水の中だ。……で? ずっと見てるあの二人は知り合いか?」
ヒューゴは踊っているセンリとウルリカに視線をやり、呆れたようにため息をついた。
「ハーコート家のボンボンと、その愛人のボディーガードか。……いや、違うな。お前ら、ただの観光客じゃないだろ」
ヒューゴの鋭い指摘に、アレクセイは言葉に詰まる。
だが、ヒューゴは追求しなかった。代わりに、盆に乗っていたシャンパングラスをアレクセイに渡し、小声で早口に告げた。
「……お前の忠告、本当だったかもしれないな」
「え?」
「機関室の周りだけ、警備が異常だ。それに、妙な匂いがする。焦げ臭いような、空気がビリビリするような……」
(多分……高濃度の魔力だ)
アレクセイが言葉を選んでいるうちに、ヒューゴはひとり納得したように頷いた。
「俺の勘が言ってる。この船の底には、とんでもない爆弾が眠ってるぞ」
「気をつけてな」と言い残し、彼は他の客の呼び出しに応じて去っていった。
アレクセイはグラスを握りしめた。やはり、嫌な予感は的中していたようだ。
***
曲調が変わった。
ワルツから、よりテンポの速い曲へ。パートナーチェンジの時間だ。
「センリ様、一曲いかがですか?」
「あ、ええ。喜んで」
センリは貴婦人に腕を引かれ、人混みの中へと連れ去られていく。
残されたウルリカは、ホッとして壁際に戻ろうとした。やはりダンスは戦いよりも疲れる。
だが、その手を取る者がいた。
「お一人かな? 麗しき剣士殿」
耳元で囁かれた声は甘く、そしてどこか芝居がかった響きを持っていた。
振り返ったウルリカの前に立っていたのは、仮面舞踏会のようなハーフマスクをつけた長身の男だった。燕尾服を完璧に着こなし、その身のこなしも洗練されている。
「……私はダンスが下手だぞ」
「謙遜を。あなたの足運びは、重心が全くブレていない。武の心得があるとお見受けする」
男は強引に、しかし滑らかにウルリカの手を取り、ダンスの輪の中へと彼女を引き戻した。
上手い。
センリのリードも悪くなかったが、この男の技術は別次元だ。ウルリカの体の動きを完全に予測し、次のステップへと誘導していく。まるで、彼女自身がダンスの名手になったかのような錯覚さえ覚える。
回転の最中、ふわりと男から香りが漂った。
甘く焦げたような、それでいてスッとする香り。
ウルリカの記憶が刺激される。これは、以前手にした予告状から漂っていた残り香と同じものだ。
「――お前」
ウルリカが鋭く男を見上げる。
仮面の奥の瞳が、悪戯っぽく細められた。
「明日は素晴らしい満月だ。盗みには最高の夜だと思わないか?」
男――怪盗アウレウスは、ステップを踏みながら優雅に囁いた。
「この船には、本来あるべきではないものが多すぎる。私が頂いていくよ」
「貴様、何を企んでいる」
「掃除さ。君たちも、同じ目的だろう?」
ターンに合わせて、背中が密着する。
至近距離での宣戦布告。だが、敵意は感じられない。むしろ、共犯者を誘うような軽やかさだ。
「ウルリカ!」
遠くから、センリの声が聞こえた。
ダンスのパートナーを適当にあしらって戻ってきたセンリが、ウルリカを抱く謎の男を見て、血相を変えてこちらを見ている。
アウレウスはクスクスと笑った。
「おっと、怖い飼い主のお帰りだ。……では、また後で。ショーの時間に会おう」
曲の終わりと共に、アウレウスはウルリカの手を離し、恭しく一礼した。
そして、雑踏の中へ紛れ込むように、煙のように姿を消してしまった。
その人混みをかき分けて、センリが駆け寄ってくる。解けかけたネクタイを直す余裕もなく、ウルリカの手を確認するように一瞬だけ視線を落とした。
「大丈夫か!? あいつ、君に……!」
「……怪盗アウレウスだ」
「は?」
「本物だ。……どうやら役者は揃ったらしいな」
ウルリカは、男の残り香が漂う自分の手を見つめ、不敵に口角を上げた。
黄金の休日が終わる。
嵐の夜が、始まろうとしていた。




