第三十一話 仮初の休日
汽笛が鳴り響き、巨大な鉄の塊が海原へと滑り出した。
豪華客船『オーロラ・クレスト』。
その威容は、海に浮かぶ城そのものだった。全長三百メートルを超える船体には、劇場、カジノ、プール、そして数千人を収容する客室が詰め込まれている。
その最上階、選ばれし者だけが許されるロイヤルスイートにて。
「……広いな」
ウルリカ・シュミットは、バスケットコートができそうなほど広いリビングを見渡し、呆れたように呟いた。
床にはふかふかの絨毯、天井にはシャンデリア。窓の外には一面のオーシャンビューが広がっている。
「白鳥のサロンの奥様方には感謝してもしきれないね。普通に泊まったら、俺の年収が数秒で吹き飛びそうだ」
センリ・ハーコートもまた、ソファの革の質感を確認しながら肩をすくめた。
彼らは完璧な正装に身を包んでいる。センリは仕立ての良いタキシード、ウルリカは背中の開いた濃紺のイブニングドレス、そしてアレクセイは少し窮屈そうな蝶ネクタイ姿だ。
「で、センリ。作戦はどうする? すぐに船内を調査するか?」
「いや、まずは資金調達だ」
センリは真顔で言った。
「いいかい、俺たちは組織の支援を受けられない。個人の貯金はあるけれど、それはあくまで生活防衛資金だ。老後のために崩すわけにはいかない」
「……お前、二十五歳で老後の心配か?」
「公務員とはそういう生き物さ。だが、この船の物価は狂ってる。水一杯で金貨が飛ぶ世界だ。調査をするにも、情報を買うにも、まずは軍資金が必要になる」
センリは不敵に笑い、部屋の扉を指さした。
「行こう。この船には、合法的に他人の金を巻き上げられる素晴らしい施設がある」
***
船内カジノ『エルドラド』。
その名の通り、そこは黄金郷だった。
真紅の絨毯に、回転するルーレットの音、カードが切られる音、そして人々の欲望と熱気が渦巻いている。
「すごい……! キラキラしてる!」
アレクセイが目を輝かせた。魔術的な光ではない、電気と金装飾の輝きだが、彼にとっては初めて見るおもちゃ箱の中身のようだ。
「さて、手分けしよう。俺はポーカーとブラックジャックで堅実に稼いでくる。二人は適当に遊んでいてくれ」
「適当にと言われてもな……私はこういうのは専門外だ」
「大丈夫、負けても俺のポケットマネーでなんとかするから。アレクセイに社会勉強をさせてやってよ」
そう言い残し、センリは人混みへと消えていった。
「……社会勉強、か」
残されたウルリカは溜息をつき、隣でキョロキョロしているアレクセイを見た。
無防備すぎる。森の小動物が、肉食獣の檻に放り込まれたようなものだ。
周囲の客――特に、ギラついた目をした有象無象が、慣れない手つきでチップを握りしめるアレクセイを値踏みしているのが分かる。
「よし、アレクセイ。私のそばを離れるなよ」
「分かった。あ、あっちで数字が回ってるやつ、やってみたいな」
アレクセイが指差したのはルーレット台だった。
「赤か黒か、あるいは数字か……賭け方は分かるか?」
「分からない。 でも、あの『ゼロ』って数字、好きだな。何もないのに、あるから」
アレクセイは無邪気に笑い、持っていたチップを0の一点に置いた。
周囲の客が「素人が」と失笑する。確率論で言えば、そこは最も分が悪い場所だ。
「ノーモア・ベット!」
ディーラーが宣言し、球が投げ込まれる。
カラカラと乾いた音を立てて、白い球が盤面を回る。
アレクセイはそれを、猫が蝶を目で追うように楽しげに見つめていた。
「……あ、止まるよ」
彼が呟いた瞬間。
不規則に跳ねていた球が、まるで吸い込まれるように――あるいは、そこが最初から定位置だったかのように――緑色のポケットへと落ちた。
『0』。
「な……っ!?」
「入った! すごい、当たったよウルリカ!」
配当は三十六倍。山のようなチップがアレクセイの元へ押し寄せた。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
その後も、アレクセイが適当に選んだ数字に、球は次々と吸い込まれていった。
魔法は使っていない。ただ、彼が「そこがいい」と思った場所に、世界の結果が後から追いついてくるような、理不尽なまでの強運。
あっという間に、テーブルの上にはチップの塔が築き上げられた。
「おいおい、随分とツイてるじゃないか、坊ちゃん」
低い声がかかった。
背後から近づいてきたのは、仕立ての良いスーツを着た男たちだ。だが、その目は笑っていない。いわゆるカジノのハイエナたちだ。
「勝ちすぎは体に毒だぜ。どうだ、俺たちともっと面白いゲームをしないか?」
男の一人が、馴れ馴れしくアレクセイの肩に手を回そうとする。
その手には、既にすり替え用のカードか、何らかの仕掛けが握られているのが見えた。
アレクセイが「え?」と振り返るよりも早く。
ガシッ、と無骨な手が男の手首を掴んでいた。
「……あ?」
男が睨む。そこには、ドレス姿の美女――ウルリカが立っていた。
彼女は微笑んですらいない。戦場で敵将を見据えるような、鋭く光る琥珀色の瞳で男を射抜いていた。
「その袖口。……エースが二枚、隠れているな」
ウルリカの指摘に、男の顔色が凍りついた。
彼女の動体視力は、放たれた銃弾すら見切る。素人の手品など、止まって見えるに等しい。
「な、何を言いがかりを……!」
「離せ、とは言わないのか? 言っておくが、私はドレスの裾を踏まれるのも、連れが不快な手つきで触られるのも嫌いだ」
ミシミシ、と男の手首が悲鳴を上げる。
ただ握っているだけだ。だが、その握力は鋼鉄の剣を軽々と振るう膂力である。男は脂汗を流し、膝から崩れ落ちた。
「ひ、ひぃっ……!」
「失せろ。二度と視界に入るな」
手を離すと、男たちは脱兎のごとく逃げ出した。
騒ぎに気づいた周囲の客も、ウルリカの一瞥を受けると、慌てて視線を逸らす。
「ウルリカ、今の人は?」
「……ただのゴミだ。もう掃除は終わった」
ウルリカは何事もなかったようにシャンパンを煽る。
そこへ、両手にチップのケースを抱えたセンリが戻ってきた。
「やあ、お待たせ。こっちはそこそこの戦果だ……って、うわ」
センリは目を丸くした。
そこには、彼の稼ぎを遥かに上回るチップの山に埋もれたアレクセイと、その山を守護神のごとく守るウルリカの姿があった。
「……どうやら、俺の稼ぎは必要なさそうだね」
「ああ。アレクセイの強運と、私の目があれば、カジノ破りも夢じゃないぞ」
「ほどほどにしておこう。運営に目をつけられて、海に沈められるのは御免だ」
センリは苦笑しながら、積み上がったチップの塔を見上げた。
これで軍資金の心配はない。
「よし、引き上げだ。懐も温まったことだし、最高に贅沢なディナーといこうじゃないか」
第四章開始です!話もいよいよクライマックス、毎日二話ずつ、20時10分と21時10分に更新していく予定です。




