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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第三章 仮面の舞台と銀の刃

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第三十話 方舟の切符

 夜明け前のアパートは、段ボールの匂いと、冷めかけたココアの匂いがした。

 ウルリカは壁に背を預けたまま眠り、アレクセイはテーブルに突っ伏して寝息を立てている。

 センリだけが眠れなかった。


 狭いベランダに出ると、冬の夜気が肺を刺した。

 眼下に広がるのは、首都の安い住宅街だ。別邸の庭園とは似ても似つかない、雑然とした屋根の群れ。その向こうに、港の方角がうっすらと見える。

 あそこに、あの船がいる。


 ポケットの端末を取り出し、もう一度ログを見つめた。

 自分の名前が並ぶ、偽りのアクセス記録。それを眺めていると、胃の腑が鉛を飲んだように重くなる。


「……俺が蒔いた種だ」


 呟いた息が白く凍る。

 あの時、プロメテウス・テックのデータを完全に消去していれば。エレナの研究を一片も残さず焼き尽くしていれば、この事態は起きなかった。

 だがセンリは、それをしなかった。可能性を殺しきれなかった。


 それは甘さだ。指揮官としての致命的な判断ミスだ。

 ——分かっている。分かっているのに。


 その時だった。

 消音モードにしていたはずの端末が、一度だけ短く震えた。

 着信ではない。組織の暗号化通信でもない。

 古い、非公式の周波数。かつてプロメテウス・テックの拠点から押収した通信機器の帯域だ。

 センリは息を止め、イヤホンを耳に差し込んだ。


『——おい、聞こえているか。センリ・ハーコート』


 低く、理性的で、しかし底知れぬ熱を孕んだ声。

 ノア・フェルマー。

 かつてエレナ・ワイズマンの思想に殉じ、プロメテウス・テックの旗を掲げた男。あの戦いの後、拘束されたはずの男の声が、深夜の電波に乗って届いている。


「……ノア」


 センリは手すりを握る手に力を込めた。


「生きていたのか」

『ご挨拶だな。……お前のIDがデータを垂れ流しているのは、こっちで先に気づいていた。拘置所の中でもネットは使えるんだよ、多少の知恵があればな』


 ノアの声は、かつての狂信的な高揚とは違う。抑制された、けれど折れてはいない声だった。


『エレナの技術が、貴族の延命治療に使われている』


 そのひと言が、夜の静寂に杭のように打ち込まれた。


『アクセスログを見たぞ。お前のIDだ。……お前があの時、データを完全に消去せず、可能性として残したからだ。その甘さが、この事態を招いた』


 センリは唇を噛んだ。

 ああ、その通りだ。一字一句、反論の余地がない。


「……だから、何だ」


 声が震えそうになるのを、無理やり押し殺した。


「謝ればいいのか。それとも、俺を殺しに来るか」

『まだ聞いてもいないことに答えるな、若造が』


 ノアが低く笑った。

 怒りではなかった。疲労と、それを超えた先にある、奇妙な信頼のようなもの。


『——だが』


 ノアは言葉を継いだ。


『だからこそ、託せる。切り捨てることを選べないお前だからこそ、あそこにいる人間を救えるのかもしれない』


 センリは目を閉じた。

 それは、かつて敵対した男からの、痛切な祈りだった。

 自分が愛したエレナの技術を、殺戮の道具で終わらせないでくれという、悲鳴にも似た願い。


『お前は知っているはずだ。エレナの研究の本質は人を壊すことじゃない。あの技術を正しく使えば、アーティファクトと人間の関係を根本から変えられる可能性があった。……それを、金儲けと保身の道具にした連中がいる』


 ノアの声がわずかに震えた。


『あの船で行われるのは、お披露目じゃない。人体実験だ。追い詰められた貴族たちを実験台にして、データを取るつもりだろう。……エレナが命を懸けた研究を、そんな使い捨ての見世物にさせるな』


 センリは手すりを掴む指が白くなるのを感じた。

 実験台。

 サロンで紅茶を震える手で持ち上げていた、あの女性たちが。子どもに重荷を背負わせまいと、自ら檻に残ることを選んだ母親たちが。

 甘い救済を信じて、あの船に乗り込もうとしている。


『行ってくれ、センリ・ハーコート。研究を終わらせなかった分の落とし前だ。……このふざけた計画を、終わらせてこい』


 通信が途絶えた。

 砂嵐のようなノイズが一瞬流れ、それも消える。

 残されたのは、冬の風の音と、遠くの港の汽笛だけだった。


 センリはイヤホンを外し、しばらくの間、夜空を見上げていた。

 星はない。分厚い雲に覆われた、何も見えない空だ。

 だが、その暗さが今は不思議と嫌ではなかった。

 見えないなら、自分で灯りを点ければいい。


 部屋に戻ると、ウルリカが薄目を開けてこちらを見ていた。

 眠っていたのではなく、センリがベランダに出た気配で起きていたのだろう。


「……誰かと話していたな」


 問いかけではなく、確認だった。壁越しに声は聞こえなくても、戦士の耳はセンリの呼吸の変化を捉えていた。


「ああ。……昔の知り合いだよ」


 センリはウルリカの隣に座り、壁にもたれた。

 暗い部屋の中、テーブルに突っ伏したアレクセイの穏やかな寝息だけが聞こえる。


「ノア・フェルマーだ。プロメテウス・テックの」

「……あの狂信者か」

「ああ。狂信者で、だけど、誰よりもエレナの技術を愛していた男だ」


 センリは天井を見つめながら、ノアの言葉を反芻した。

 切り捨てることを選べないお前だからこそ。

 それは賛辞なのか、嘲笑なのか。

 ——どちらでもいい。意味は同じだ。


「ウルリカ」

「なんだ」

「あの船に、行く」


 ウルリカは黙っていた。

 否定も肯定もしない。ただ、センリの横顔を見ている。


「マダムは休暇をくれた。組織は船を沈めようとしている。ハーコートの名前はもう盾にならない。……全部、俺の始末だ」


 センリは自分の掌を見つめた。


「だけど、一人じゃ無理だ。頭だけじゃ、誰も救えない。それはもう、嫌というほど分かってる」


 沈黙が数秒続いた。

 それから、ウルリカが小さく鼻を鳴らした。


「……何を今さら。お前一人で行かせるわけがないだろう」


 ウルリカは壁から背を離し、真っ直ぐにセンリを見た。


「組織が船を沈めようとするなら、私たちが沈ませなければいい。お前の頭と、私の剣と、こいつの魔法があれば——」


 視線が、テーブルで眠るアレクセイに向けられた。


「——大丈夫だ」


 その声は硬いが、疑いがない。

 戦場で幾度も背中を預けてきた相棒の、揺るぎない信頼だった。


 二人の声が聞こえたのか、アレクセイがもぞもぞと頭を持ち上げた。

 寝ぼけた緑の瞳が、暗がりの中でセンリとウルリカを捉える。


「……なに。もう朝?」

「まだ夜だ。寝てていいぞ」


 ウルリカが短く答えた。

 だが、アレクセイは首を横に振り、目を擦りながら身を起こした。


「二人とも、難しい顔してる。……何かあったんでしょう?」


 隠せないものだな、とセンリは苦笑した。

 この魔術師は、人の感情の波を魔力の揺らぎのように読み取る。嘘をついても仕方がない。


「……アレクセイ。あの船のことだ。オーロラ・クレスト」


 センリは簡潔に伝えた。

 ノアからの通信。船上で行われようとしている人体実験。そして、組織が船ごと沈めようとしていること。


 アレクセイの顔から、眠気が消えた。

 代わりに浮かんだのは、ハーコート家の地下で見たあの黒い箱を思い出す表情だった。


「……あの技術が、船の上で使われるんだね」

「ああ」

「乗っている人たちは、知らないんだ。自分たちが実験台だってこと」


 アレクセイは膝の上で自分の手を見つめた。

 アーティファクトの痛みに同調できるその手。シビルの地下で、悲鳴を上げる道具たちに「大丈夫だよ」と語りかけたその手。


「……僕も行く」


 静かだが、迷いのない声だった。


「ハーコート家のアーティファクトには、もう手が届かない。でも、あの船にいる人たちには——まだ、届くかもしれない」


 アレクセイはそこで一度言葉を切り、少しだけ俯いた。


「それに、ヒューゴが乗るんだ」

「ヒューゴ?」


 センリが眉を上げた。


「友だちだよ。古書店で知り合った、ライターの。……あの船に潜り込んで、取材するって言ってた。止めたけど、聞いてくれなかった」


 アレクセイの声が小さくなる。

 だがその奥には、もう自罰ではない感情があった。

 友人を守りたい。ただ、それだけの、人間としての素朴な動機だ。


「僕にできることがあるなら、やりたい。……トーストを焼くよりは、多分、得意だから」


 かつてマダムの前で彼がおずおずと口にした言葉。

 同じ言葉を、今度は真っ直ぐな瞳で、仲間に向けて言い直した。


 センリは二人を交互に見た。

 それから、不敵に笑った。


「……ああ、そうだね」


 センリは二人の肩に手を置いた。


「全員助けて、組織の鼻を明かしてやろう。泥船だろうが何だろうが、僕たちが乗れば方舟だ」


***


 決意は固まった。だが、現実は非情だ。

 豪華客船『オーロラ・クレスト』のチケットは、とっくに完売。ハーコート家のコネは使えず、組織の経費も落ちない。

 ダフ屋すら見当たらない状況に、センリが頭を抱えていた翌日の夕方。


 コンコン、とアパートの薄いドアが控えめに叩かれた。


「……宅配? 何も頼んでないぞ」


 ウルリカが警戒しながらドアを開けると、そこには誰もいなかった。

 代わりに、ドアの前の薄汚れたマットの上に、一通の封筒が置かれている。

 差出人は記されていない。だが、封蝋には白鳥の紋章が押されていた。


「——センリ」


 ウルリカの声に、ただならぬものを感じてセンリが駆け寄る。

 封を切ると、中には三枚のカードと、一通の手紙が入っていた。

 カードは、オーロラ・クレストの最高級スイートへの招待状だ。


 センリが招待状に目を見張っている横で、ウルリカは手紙を広げた。

 丁寧だが、所々で筆が乱れている。書いた人の手が震えていたのだろう。


 『シュミット様。


 不躾なお手紙をお許しください。

 あなたが社交界に現れた日から、私たちの間では、あなたのことが静かに語り継がれております。

 あの夜会で、倒れた令嬢の首元を見抜いたこと。彼女の痛みを、誰よりも先に理解したこと。

 そしてサロンで、広い空の話をしてくださったこと。

 あなたの言葉は、私たちの凍えた胸に、小さな火を灯しました。


 今、私たちの友人の多くが、甘い言葉に誘われてあの船に乗ろうとしています。

 新しい技術が、子どもたちをこの鎖から解放してくれると信じて。

 けれど、あなたの目なら、きっとお分かりのはず。

 あの甘い香りの奥に、何が隠されているか。


 同封の招待状は、サロンの有志から贈らせていただくものです。

 どうか、彼女たちを止めてください。

 あなたたちなら、それができると信じています。


 追伸——壁の外の空は、本当に広いのですね。

 あの言葉を胸に、私も歩き始めました。まだ寒いけれど、確かに広い空です。』


 ウルリカは手紙を読み終えても、しばらく黙っていた。

 あのサロンで紅茶を啜りながら、アーティファクトの苦しみを語っていた女性たちの顔が浮かぶ。扇子で涙を隠していた老婦人。「広い空の下へ」と旅立った令嬢。そして、まだ檻の中に残ることを選んだ、すべての人。

 彼女たちは、ウルリカに賭けたのだ。

 貴族の令嬢としてではなく、痛みが見える目を持つ一人の人間として。


「……地位も名前も関係ないな」


 ウルリカはカードを胸に押し当て、静かに、しかし確かに頷いた。


「行こう。最高のエスコートをしてやる」


 センリは招待状の一枚を手に取り、光にかざした。

 本物だ。しかも最上級スイート。サロンの有志が金を出し合ったのだとすれば、相当な覚悟だ。

 信頼を、託された。

 ハーコート家の看板でもなく、ユースティティアの天秤の権威でもなく。

 ただの三人の人間として。


「総員、第一種戦闘配置」


 センリはクローゼットを開け放った。


「——つまり、全力で着替えろ!」


***


 港に停泊する巨大な影を見上げ、三人は立ち尽くしていた。

 豪華客船『オーロラ・クレスト』。

 夜の闇に浮かぶその姿は、煌びやかな宝石箱のようでもあり、口を開けた巨大な怪物のようでもあった。


 イルミネーションに彩られた船体は六層。最上階のデッキからはシャンパングラスの音と弦楽器の調べが風に乗って降ってくる。タラップの両脇には、白い制服に身を包んだ船員たちが整列し、乗客を迎え入れていた。

 華やかだ。だが、アレクセイの目には、船体を覆う魔力の膜が見えていた。薄く、精巧で、しかしどこか歪んだ結界。あれは防御のためではない。中に入ったものを、外に出さないためのものだ。


「……あの船、息をしてる」


 アレクセイが小さく呟いた。


「生きてるアーティファクトが、たくさんいる。苦しそうに」


 ウルリカが彼の肩にそっと手を置いた。何も言わない。ただ、お前は一人じゃないと伝えるように。


 センリは、完璧に着こなしたタキシードの襟を正した。

 隣には、深い紺色のドレスの背中を気にするウルリカ。その向こうに、慣れない蝶ネクタイに四苦八苦するアレクセイがいる。


「さて、行こうか」


 センリが一歩を踏み出す。


「優雅な船旅の始まりだ。……一人残らず連れ戻すぞ」


 三人がタラップに足をかけた瞬間、港の風がドレスの裾を大きく揺らした。

 背後の陸地が、少しずつ遠くなる。


 振り返る者は、誰もいなかった。


第三章完結です。明日から第四章、クライマックスに入ります。

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