第二十九話 泥中の天秤
重厚な鉄の門が、ガシャンと無慈悲な音を立てて閉ざされた。
その音は、彼らのかりそめの優雅な生活の終わりを告げる弔鐘のようだった。
「……追い出されたな」
「ああ、見事にな」
センリとウルリカは、足元に積み上げられた段ボール箱を見下ろして溜息をついた。
彼らの背後には、ついさっきまで拠点としていたハーコート家の別邸が聳えている。だが、もう彼らは敷地に入ることすら許されない。
「契約終了よ」
門の向こうで、シビル・ハーコートは冷ややかに告げた。
「アレクセイ・イズマイロフとのメンテナンス契約の解除に伴い、この別邸の貸与も終了。当然、ウルリカ・シュミットの貴族の令嬢としての身分保証も破棄させてもらうわ。これからはただの薄汚い公務員に戻りなさい」
取りつく島もない。
センリは口を開きかけ、やめた。言い返す材料ならいくらでもある。だが、シビルの判断は最初からこの着地点を見据えていたのだろう。アレクセイの腕が不要になった瞬間に、彼らを切り離す。そのために別邸という餌をぶら下げていたのだ。
シビルは踵を返しかけ、一瞬だけ立ち止まった。
手袋に包まれた指先が、門の柱に触れる。
「……あの子たちのことは、私が面倒を見るわ。余計な心配は無用よ」
それだけ言って、彼女は立ち去った。
あの子たち。それがアーティファクトを指しているのだと、この場で理解できるのはアレクセイだけだった。
アレクセイは閉ざされた門を見つめていた。
何度も訪れたハーコート家本邸の冷たい地下室。黒い制御ユニットに息を塞がれた『運命の分岐盤』。声を殺して軋んでいた『嘆きの銀時計』。『星読みの秤』の穏やかな寝息。
彼の手が届いた子たちと、届かなかった子たち。
「……ごめんね。もう少しだけ、我慢して」
返事はない。それでも、言わずにはいられなかった。
「アレクセイ、行くぞ」
ウルリカが段ボールを一つ肩に担ぎ上げ、低く声をかけた。
その声は硬いが、怒りの矛先はアレクセイに向いていない。彼女なりの気遣いだった。
「……うん」
アレクセイは小さく頷き、自分の荷物を抱え直した。
鞄の中で、『名もなき騎士の航海』の背表紙が微かに軋む。
三人はなけなしの荷物を抱えて、アパートへの道を歩き始めた。
***
「……狭い」
センリのアパートに到着するなり、三人は同時に呻いた。
リビングは荷物の山で埋まり、足の踏み場もない。広い別邸での生活に慣れてしまった身には、この閉塞感は毒だ。
「文句を言うな。ここが俺たちの分相応だ」
センリは段ボールを蹴飛ばしてスペースを作り、ソファの代わりに床へと腰を下ろした。
ウルリカは壁に背を預け、黙って腕を組んでいる。彼女には女性用宿舎があるが、二人のためについてきたのだろう。アレクセイは唯一の椅子に座り、膝の上で自分の手を握ったり開いたりしていた。
沈黙が重い。
失ったものの大きさが、この狭い部屋に充満している。
別邸という拠点。貴族の令嬢というウルリカの仮面。シビルを通じたハーコート家との接点。そしてアレクセイにとっては、手を伸ばせば触れられたアーティファクトたちとの距離。
すべてが、一枚の契約書の裏側で繋がっていたのだ。
「……夕飯、どうする」
ウルリカが、場違いなほど実務的なことを言った。
「冷蔵庫に何もない。買い出しに行くか」
「いや……俺が行くよ。ちょっと、頭を冷やしたい」
センリは立ち上がりかけて、やめた。
座り直す。目を閉じる。
買い出しの前に、やらなければならないことがある。
「……先に、確認しておくことがある」
センリの声のトーンが変わった。
ウルリカが目を細め、アレクセイが顔を上げる。二人とも、この声を知っている。任務中の、指揮官としてのセンリの声だ。
センリは段ボールの山から端末を掘り出し、強引に電源を入れた。
組織のデータベースにアクセスする。管理者権限を持つ自分のIDを使って、プロメテウス・テックの封印指定データを検索した。
あの技術の出処を突き止める。
ウルリカがサロンで聞いた新技術。アレクセイがハーコート家の地下で見た黒い箱。散らばったピースが、一つの像を結ぼうとしている。
「……ん?」
センリの指が止まった。
封印指定データへのアクセス権限が、いつの間にか変更されている。閲覧だけでなく、外部転送の許可が追加されていた。
いつ変わった。誰が変えた。
嫌な汗が背中を伝う。
センリはアクセスログの画面を開いた。
最初に目に入ったのは、見慣れた文字列だった。
『アクセスログ:承認者 センリ・ハーコート』
深夜一時。自分が眠っていた時間帯に、このIDで外部からの接続が行われている。
一度ではない。ログを遡ると、同様のアクセスが過去数ヶ月にわたって定期的に繰り返されていた。
「おい……」
センリの声が掠れた。
さらに時系列を照合する。震える指がスクロールを繰り返す。
データが持ち出された日付。その一つ一つが、アレクセイがハーコート本家を訪れてメンテナンスを行った日と、正確に一致していた。
「……そういうことかよ」
パズルのピースが、嵌まった。
シビルはアレクセイの技術を利用すると同時に、別邸に滞在するセンリの端末から権限を吸い上げていたのだ。アレクセイを受け入れるたびに、センリのIDを使ってプロメテウス・テックの封印データを外部に転送していた。
ハッキングではない。正規の鍵を使った、正規の手続きだ。痕跡を残さない、貴族らしいやり方で。
センリは椅子の背もたれに深く沈み込み、天井を仰いだ。
逃げたつもりだった。
家を出て、名前を捨てて、泥にまみれる公務員になって。自分はもうハーコートではないと、そう思い込んでいた。
だが結局、俺はずっとハーコート家の便利な裏口だったわけだ。
いや——それどころか。
あの女性たちが今、甘い毒を飲まされようとしている。震えながら紅茶を啜っていた彼女たち。血の代償に耐えながら家を守っていた彼女たち。その偽りの希望の出処は、紛れもなく自分の名前が署名された扉から流れ出していた。
「……笑えるな」
笑えなかった。
唇が震えている。こめかみが痛い。
「センリ」
ウルリカが静かに呼んだ。
壁際から動かないまま、しかし鋭い瞳でセンリの横顔を射抜いている。
「……何があった。全部話せ」
センリは目を閉じ、数秒の沈黙の後、すべてを二人に打ち明けた。
自分のIDが利用されていたこと。プロメテウス・テックの封印データが持ち出されていたこと。サロンの女性たちに囁かれている新技術の正体が、かつて自分たちが封じたはずのものであること。
話し終えた時、部屋の空気は氷のように冷たくなっていた。
「……ハーコート家が、センリを利用していたんだね」
アレクセイが、膝の上で握りしめた拳を見つめながら呟いた。
その声は平坦だったが、かすかに震えている。
「僕がシビルさんの所に通うたびに、センリの鍵が盗まれていた。……つまり、僕が行くことが、きっかけになってたんだ」
「アレクセイ、お前のせいじゃない」
ウルリカが即座に遮った。
「利用したのはあの女だ。お前は自分の仕事をしただけだ」
「でも——」
「でも、じゃない。責任の所在を間違えるな」
ウルリカの声は硬いが、言葉の選び方は丁寧だった。アレクセイが何でも自分のせいにしようとする癖を、彼女はよく知っている。
「……ウルリカの言う通りだよ」
センリが重い口を開いた。
「利用されたのは、俺の迂闊さだ。家を出たつもりで、鍵を置いてきたのと同じだった。……俺の責任だよ」
その言葉は自罰的だったが、声には怒りよりも深い疲労が滲んでいた。
三人の間に、やりきれない沈黙が落ちた。
***
その時、端末が鋭い着信音を上げた。
ディスプレイに表示されたのは『マダム・マーガレット』の文字だ。
センリは一瞬ためらい、通話ボタンを押した。
「……はい、マダム」
『センリちゃん、単刀直入に言うわ。上層部がある決定を下したの』
マダムの声は、氷のように冷徹だった。
『貴族院が持ち込んだ新技術と、大量のアーティファクト。これらが閉鎖環境である船内で連鎖反応を起こせば、第二の大災厄になりかねない。……よって、組織は事態の収拾を図ります』
「収拾? どうやって」
『出航後、公海上で船ごと消滅させる。表向きは、不幸なエンジントラブルによる海難事故として』
センリは受話器を握り潰しそうになった。
「正気ですか!? 乗客には罪のない人間もいる! それに、騙されているだけの人たちだって……!」
『決定事項よ。私の権限では覆せない』
マダムは淡々と言った。
センリの脳裏に、サロンの女性たちの顔が浮かぶ。ウルリカが扇子の奥で見た、あの覚悟と疲労が滲む横顔。安堵の涙を流した夫人。アーティファクトの重みに耐えながら、子どもだけには背負わせまいと願っていた母親たち。
彼女たちが騙されて乗り込む船を、沈める。
それが、組織の出した答えだ。
「……マダム、それは天秤じゃない。ただの虐殺だ」
『言葉を選びなさい、センリ・ハーコート。……だが、否定はしないわ』
短い沈黙。
マダムの呼吸音が、微かに変わった。
『……だから、私はあなたたちに休暇を与える。これからの行動は、組織の指揮下にはない。何をしようと、どこへ行こうと、私は関知しないわ』
通話が切れた。
ツーツーという電子音が、無慈悲に響く。
「……あはは」
センリは笑おうとした。
いつものように。何でも冗談にして、軽くいなして、明日に持ち越さない——それが自分のやり方だったはずだ。
だが、今夜は喉の奥が引きつって、音にならなかった。
膝が震えている。指が震えている。
家には利用され、組織には見捨てられた。
自分が守ろうとした人々の危機の種を蒔いたのは、自分自身の名前だ。
センリ・ハーコートという署名が、あの船に乗る女性たちを殺しかけている。
「……どうしろって言うんだ」
声が、掠れて消えた。
ウルリカは何も言わなかった。
ただ黙って、センリの隣に腰を下ろした。肩が触れるほど近く、けれど何も言わない。
戦場で背中を預けるように、沈黙だけを共有する。
アレクセイが立ち上がり、キッチンへ向かった。
狭い台所で湯を沸かす音がする。しばらくして、彼は三つのマグカップを持って戻ってきた。
青と、赤と、深緑。
あの日、初めてのお使いで買った自分のマグに、インスタントのココアを注いだだけの、ささやかなものだ。
「……はい、センリ。ウルリカも」
アレクセイは二人の前にマグを置き、自分も床に座った。
三人で狭い床に座り、温かいマグを両手で包む。
誰も口を開かなかった。
窓の外は暗い。街灯の光だけが、薄いカーテン越しにぼんやりと滲んでいる。
別邸の広いリビングはもうない。
月明かりに照らされたダンスフロアも、手入れされた庭園も、アレクセイが丁寧に焼いたトーストの香りが漂う朝のキッチンも。
あるのは、1LDKの安アパートと、段ボールの山と、三つのマグカップだけだ。
それでも、ココアの湯気が三人の顔を等しく温めていた。
今夜は、それだけで十分だった。




