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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第三章 仮面の舞台と銀の刃

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第二十八話 偽りの救済

 白い手袋をした手が、震えながらティーカップを持ち上げる音だけが、静寂に包まれたサロンに響いた。

 豪奢なシャンデリアの下、柔らかいソファに腰掛ける貴婦人たちは、一様に青白い顔をしている。彼女たちは、宝石やドレスで着飾ってはいるが、その肌の奥には隠しきれない疲労と、ある種の覚悟が滲んでいた。


「……エリン様が、いらっしゃらないわね」


 誰かが、ポツリと零した。


 ここ『白鳥のサロン』は、有力貴族の夫人や令嬢たちが集う秘密の社交場だ。だが、そこで交わされるのは華やかなゴシップではない。


「あの方の家が管理している魂の竪琴……先月の新月の晩に、共鳴が限界を超えたそうですわ」

「まあ……。あんなにお若かったのに」

「療養のために、北の別荘へ移されたとか。……もう、二度とお会いできないかもしれません」


 沈黙が落ちた。

 ウルリカはドレスの裾を握りしめないよう、意識して指の力を抜いた。

 彼女たちの言う療養が何を意味するか、ウルリカは知っている。アーティファクトによる精神汚染。あるいは、肉体的な変異。貴族たちは高貴な血の責務として、代々その呪いを自らの体で受け止め、封じ込めてきた。

 ここにいる女性たちは、優雅に紅茶を啜っているだけではない。次は自分が檻として壊れる番かもしれない、自分でなくてもその子どもが背負うかもしれない。そんな恐怖と戦っているのだ。

 その悲壮な連帯感が、場を支配していた。


「でも皆様、希望はありますわ」


 重苦しい空気を払うように、一人の夫人が身を乗り出した。その瞳には、溺れる者が藁を掴むような必死な光が宿っている。


「新技術の噂、お聞きになりまして?」

「ええ、貴族院のお話でしょう? 血を代償にしない管理法」

「魔法ではなく、最新の科学によってアーティファクトを鎮める……夢のようなお話ですわ」


 科学による管理。

 その言葉が出た瞬間、ウルリカの背筋に冷たいものが走った。

 以前戦ったプロメテウス・テックの悪夢が蘇る。魂を燃やして人の限界を超えさせる、あの冒涜的な技術。


「今度、その技術のお披露目会があるそうです。処女航海に出るオーロラ・クレストの船上で」

「オーロラ・クレスト……!」

「私も招待状を頂きましたの。これで、子どもにこの重荷を背負わせなくて済むかもしれません」


 夫人たちは顔を見合わせ、初めて心からの安堵の微笑みを浮かべた。

 それは、長年の兵役から解放されると知った老兵の顔にも似ていた。だが、ウルリカだけは笑えない。

 あまりに、都合が良すぎる。

 彼女たちの切実な願いを利用するような、甘く、毒を含んだ匂いがする。かつてアレクセイの魔力に支配された時を思い出させる、思考を麻痺させる匂いが。

 ウルリカは扇子で口元を隠しながら、鋭い眼光でそのサロンの光景を記憶に焼き付けた。


***


 同じ頃、センリの実家であるハーコート本邸。

 地下にある厳重な保管庫の中で、アレクセイは呆然と立ち尽くしていた。


「……シビルさん、これは何?」


 アレクセイの視線の先には、ハーコート家の管理する第一種指定のアーティファクト『運命の分岐盤』が鎮座している。

 その美しい硝子細工の占術器には、無骨で黒い金属の箱が取り付けられていた。箱からは無数のケーブルが伸び、壁面のサーバーへと繋がっている。


「見ての通り、貴族院が開発した新型の制御ユニットよ」


 ハーコート家の次期当主候補、シビル・ハーコートは、タブレット端末の数値をチェックしながら答えた。その声は普段通りを装っているが、わずかな興奮に上擦っている。


「待って、これじゃアーティファクトが息をしてない」


 アレクセイは慌てて占術器に駆け寄ろうとした。

 耳を澄ませば聞こえる。未来を描くための澄んだ音の裏で、運命の分岐盤が軋み悲鳴を上げているのが。魔力の循環が強引に遮断され、内部で澱んでいる。


「無理やり口を塞いでるだけだ。このままじゃ熱が溜まって、いつか暴走する。すぐに外して調整しないと」

「触らないで」


 鋭い声がアレクセイの足を止めた。

 シビルは冷たい瞳で彼を見下ろしている。そこには侮蔑はないが、道具としての用済みを告げる無関心があった。


「数値は安定しているわ。あなたの感覚的な手作業よりも、このシステムの方が遥かに効率的で、そして安全なの」

「でも……痛がってる」

「機械に痛みなどないわ。それに、あなたも楽になるでしょう? わざわざこんな地下まで来て、神経をすり減らす必要もなくなる」


 シビルはタブレットの画面を消し、コツコツとヒールを鳴らして出口へと向かった。


「ご苦労様、最後の魔術師さん。あなたとの契約は解除させてもらうわ。これからは誰でも管理ができる時代になるのよ。……不確定な才能や、おとぎ話の魔法使いに頼る時代は終わったの」


 重厚な鉄の扉が閉まる。

 アレクセイはまっすぐにアーティファクトを見つめた。黒い箱は、まるで寄生虫のように分岐盤に食い込んでいる。


 (――違う)


 あれは管理じゃない。ただの先延ばしだ。

 だが、今の彼にはそれを証明する術も、扉を開けて食い下がる力もなかった。


***


 屋敷を追い出されたアレクセイは、逃げ込むように街の裏路地へと足を向けた。

 古びたレンガ造りの建物の半地下。ドアベルのカランコロンという音が、沈んだ心を少しだけ慰めてくれる。

 古書店『銀の栞』。

 紙とインクの匂いが漂う薄暗い店内で、店主の孫であるヒューゴ・ターナーが脚立から飛び降りてきた。


「よう、アレクセイ! 待ってたぞ、すごいニュースがあるんだ!」


 ヒューゴはすっかり興奮した様子で一枚の紙きれをアレクセイの目の前に突きつけた。

 それは、黄金の箔押しがされたカードだった。


「見てくれ、これだ! 怪盗アウレウスからの予告状だぞ! あちこちに配られてる!」


 そこに記された文字を、アレクセイは目で追った。

 流麗な筆記体で、『次なる満月の夜、オーロラ・クレストにて、偽りの福音を頂きに参上する』とある。


「偽りの……福音?」

「ああ! 巷で噂の新技術ってやつさ。貴族たちがこぞって手を出してるのは聞いてるか? アウレウスは、それがインチキだって見抜いてるんだ」


 ヒューゴは鼻息荒く、大仰な身振り手振りで語り出した。


「俺はずっと追ってたんだ。貴族がアーティファクトの管理に限界を迎えてるってネタをな。そこに来て、この怪しい新技術だ。アウレウスが動くってことは、その船には間違いなくデカい闇がある」


 ヒューゴはカウンターの奥から、使い込まれたカメラを取り出した。


「俺も潜り込むつもりだ。じいちゃんの知り合いに関係者がいてな。船員としての潜入ルートを見つけた。これは特ダネだぞ、貴族社会の嘘を暴くチャンスだ!」

「だ、駄目だよヒューゴ!」


 アレクセイは思わず大声を上げていた。

 ヒューゴが驚いて動きを止める。


「……アレクセイ?」

「その船は……駄目だ。危ない。すごく、嫌な予感がするんだ」


 ハーコート家で見た、あの黒い箱。そして偽りの福音という言葉。点と点が繋がり、最悪の絵を描き出している。

 もしあの技術が、かつてのプロメテウス・テックの亜種だとしたら。そしてそれが、船という逃げ場のない密室で使われるとしたら。

 それは客船ではなく、巨大な棺桶になりかねない。


「爆発するかもしれない。……呪われるかもしれない」

「呪い?」

「あ……えっと、その」


 アレクセイは口ごもった。説得するには、秘密にしていることが多すぎる。


「とにかく、行っちゃ駄目だ。死んじゃうかもしれない」

「……ははっ、お前は本当に心配性だなあ」


 ヒューゴはニカっと笑い、バシバシとアレクセイの背中を叩いた。


「ありがとう、アレクセイ! そこまで心配してくれて。だが、危険の中にこそ真実はあるんだ。お前が止めるってことは、やっぱそれだけヤバいネタがあるってことだろ?」

「えっ、いや、そうじゃなくて……!」

「安心しろ、危なくなったら逃げるさ。怪盗のお手並み拝見といこうじゃないか!」


 ヒューゴの目は、冒険に憧れる少年のように輝いている。

 アレクセイは項垂れた。止めるつもりが、逆に背中を押してしまった。ハーコート家のことと言い、相応しい言葉を持たない自分への無力感が、重くのしかかる。


***


 夜。拠点となっているハーコート家の別邸。

 帰宅したアレクセイは、リビングのソファで膝を抱えていた。その隣では、ドレスを脱いでラフな服装に着替えたウルリカが、渋い顔で水を飲んでいる。


「……サロンで、妙な噂を聞いた」


 ウルリカがコップを睨みながら言った。


「血の限界を迎えた貴族たちを救う、夢の新技術だとさ。そのお披露目が、豪華客船で行われるらしい」

「……オーロラ・クレスト」

「ん? なんだ、お前も知ってるのか」


 アレクセイは膝に顔を埋めたまま、小さく頷いた。

「ヒューゴが……友だちが、その船に行くって。怪盗アウレウスも、予告状を出した」

「あの大泥棒か。……きな臭くなってきたな」


 ウルリカとアレクセイ。二人が持ち帰った情報は、不気味なほど一致していた。

 希望を謳う新技術。それを否定する怪盗。そして、逃げ場のない海上の密室。

 嵐が来る。それも、とびきり大きな嵐が。

 ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。

 センリが軽快な足取りで入ってくる。


「ただいまー。いやあ、今日は本家との定例会議で絞られ……て……」


 そこまで言って言葉を切った。

 薄暗いリビングで、お通夜のように沈み込んでいる二人を見て、キョトンと目を瞬かせる。


「……え、何この空気。俺、なんか悪いことした? プリンならまだ食べてないよ?」


 いつもの軽やかな声が、張り詰めた空気に虚しく響いた。


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