第二十六話 鎮魂の灯火
「……安堵していた、か」
リビングで紅茶のカップを傾けていたセンリの手が、ふと止まった。
サロンから戻ったウルリカの報告――没落した男爵令嬢が、家宝を盗まれたにも関わらず憑き物が落ちたように穏やかだったという話。センリは思わず眉をひそめた。
「ああ。彼女は十年ぶりに眠れたと言っていた。……あれは強がりじゃない。本心からの言葉だ」
センリはカップを置き、窓の外の闇を見つめた。
水面に落ちたインクが広がるように、彼の瞳から穏やかな色が消えていく。
「ウルリカ。彼女は本当に盗まれたと言ったのかい?」
「……? ああ。なぜそんなことを聞く」
「死刑宣告を、喜んで受け入れる人間はいない。……だが、最初から荷物を下ろしたがっている人間なら、話は別だ」
センリは立ち上がり、静かに上着を手に取った。
「……少し、野暮用を済ませてくるよ」
「こんな時間にか? 夕飯はどうする」
「いらない。……少し、確認したいことができた」
センリは軽い笑顔を浮かべて立ち上がったが、その瞳は笑っていなかった。
上着を羽織る背中には、ウルリカやアレクセイに見せる保護者の顔ではなく、貴族の空気が纏わりついていた。
***
夜の街は、表通りを一歩外れれば別の顔を持つ。
センリが訪れたのは、会員制の高級クラブの奥にある、さらに奥まった一室だった。
紫煙の漂う部屋の主――情報屋の男が、センリの出したチップを数えもせずに懐に入れた。
「ハーコートの若様が直々にお出ましとはね。……例の男爵家の件ですか?」
「ああ。単刀直入に聞くよ。あの家は、何を隠していた?」
センリはソファに深く沈み込み、氷のような声で問うた。
情報屋はニヤリと笑い、一枚の書類をテーブルに滑らせた。それは闇ルートでの魔力抑制機と結界石の取引記録だった。
「見ての通りですよ。あそこのアーティファクトは、三ヶ月前から制御不能だった。振動、異臭、精神汚染……。男爵はそれを隠すために、屋敷の維持費の半分をこの手のグッズに注ぎ込んでいた」
「……つまり、いつ爆発してもおかしくない爆弾を抱えていたわけか」
「ええ。そこへ現れたのが怪盗アウレウスだ。奴は警備を破ったんじゃない。……結界の隙間から入り込み、爆弾を持ち去ったんです」
センリは溜息をついた。
やはり、ただの窃盗ではない。
男爵令嬢の安堵の理由はこれだ。彼女は家宝を盗まれたのではない。時限爆弾のスイッチを切ってもらったのだ。
「……金持ちの道楽にしちゃ、随分と命知らずな怪盗だ」
センリは席を立った。
アウレウスは腐りかけた貴族のプライドを切り捨て、その身代わりとして悪党の汚名を被っていることになる。
***
店を出ると、夜風が少し肌寒かった。
帰路につくセンリの足が、ふと止まる。
古い街区にある、今はもう動いていない時計塔。その頂上付近に、違和感があった。
月明かりの下、影が動いている。
(……まさか)
センリは人の目を避け、非常階段を使って塔の上層へと登った。
錆びついた巨大な歯車の隙間。吹きさらしの展望台に、その人物はいた。
黄金に輝く仮面。闇に溶けるような黒のマント。
怪盗アウレウスだ。
彼は、巨大な時計の振り子の前に佇んでいた。
その振り子は、黒いタールのような靄を纏い、不快な低周波を放っている。この時計塔が止まった原因なのだろう。これは、放置されて忘れ去られたアーティファクトだ。
「……今夜は予告状なしかい?」
センリが声をかけると、怪盗は驚く様子もなく、ゆっくりと振り返った。
仮面の奥の瞳が、月光を受けて冷たく光る。
「観客のいない舞台に、招待状は不要さ」
アウレウスの声は若いが、老人のような疲労感が滲んでいた。
彼は懐から、古めかしいランタンを取り出した。
火の入っていない、ガラスのくすんだランタンだ。
「それに、これは盗むようなものでもない。……ただのゴミ拾いだ」
アウレウスがランタンを振り子にかざす。
カチリ、と何かが外れる音がした。
次の瞬間、振り子に纏わりついていた黒い靄が、渦を巻いてランタンの中へと吸い込まれていく。
断末魔のような、あるいは安堵の吐息のような風が吹き抜けた。
全ての靄が吸い尽くされた時、ランタンの芯に、ポウッと青白い炎が灯った。
それは冷たく、けれどどこか優しい、鎮魂の光だった。
「……それが、君の戦利品か」
「いいや。これは墓標だよ。誰にも看取られず、管理もされず、ただ壊れていった道具たちのね」
アウレウスは灯りのともったランタンを掲げ、悲しげに目を細めた。
その姿は、華麗な怪盗というよりは、死にゆくものを看取る葬儀屋に見えた。
「貴族がその役割を忘れるなら、僕が引き受けるしかない。……たとえ、泥棒と呼ばれようともね」
アウレウスは一瞬だけセンリを見据え、そしてマントを翻した。
風が舞う。
センリが瞬きをした次の瞬間、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、浄化された振り子が、風に揺れて微かな音を立てているだけだった。
***
別邸に戻ると、リビングには温かなオレンジ色の明かりが灯っていた。
ウルリカとアレクセイが、テーブルで何かを広げて笑い合っている。ウルリカが笑っているなんて珍しいが……それはとても、平和な夜の光景だった。
だが、センリの胸には、あの青白いランタンの残像が焼き付いている。
「……おかえり、センリ。遅かったな」
「ただいま。……いい月夜だったから、少し散歩をね」
センリは軽薄な笑みを貼り付け、部屋に入った。
ポケットの中の手が、強く握りしめられる。
管理できなくなったアーティファクトは、ただの呪いとなる。それを終わらせる者が悪とされる世界で、自分たちは何を守っているのか。
地下でアレクセイが直しているハーコート家のアーティファクト達も、いつかあのランタンに灯される日が来るのだろうか。
「センリ、顔色が悪いぞ? 腹でも空いてるのか?」
「……まさか。君の作った夜食への期待で震えてるだけだよ」
センリは冗談でその場の空気を誤魔化し、二人の輪の中へと混ざっていった。
夜の帳の向こうにある真実は、まだ彼だけの胸の内にあった。




