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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第三章 仮面の舞台と銀の刃

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第二十五話 檻の中と外


「……いいかい、ウルリカ。ここから先は俺も守ってやれない」


 白亜の豪邸、その重厚な鉄扉の前で、センリは神妙な顔をして立ち止まった。

 今日から本格的に潜入することになった白鳥のサロン。

 そこは貴族の女性たちだけが入室を許された、完全なる男子禁制の聖域だ。


「サロンという名の密室だ。そこでは扇子一つで相手の家格を切り裂き、紅茶の温度でマウントを取り合う、血の流れない戦争が行われていると聞く。……もし耐えられなくなったら、すぐに合図を」

「大袈裟だな。改造兵士と斬り合うよりはマシだろう」


 ウルリカは呆れたように肩をすくめ、招待状であるカードを提示して門番に頷いた。


「俺は近くのカフェで待機してる。……生きて戻れよ」

「誰に向かって言っている」


 悲壮感を漂わせるセンリを門の外に残し、ウルリカは一人、手入れされた庭園の砂利道を踏みしめた。

 戦場へ向かう足取りだ。だが扉の向こうに広がっていたのは、センリが恐れていたような、嫉妬と愛憎の渦巻く世界ではなかった。


***


 通されたサンルームは、柔らかな陽光と、極上の紅茶の香りに満ちている。

 だが、漂っている空気は優雅とは程遠い。

 張り詰めた緊張感と、互いの無事を確認し合うような、野戦病院にも似た連帯感がそこにはあった。


「……あら、シュミット様。よくいらっしゃいました」


 迎えてくれたのは、先日助け舟を出してくれた老婦人だった。

 彼女が手招きすると、部屋にいた二十人ほどの貴婦人たちが一斉にウルリカに注目する。その視線に敵意はない。あるのは生存者を見るような敬意だ。


「皆様。彼女が例の、見えている方ですわ」


 その紹介だけで、ウルリカの席は決まった。隣に座った夫人が、世間話のような口調で囁く。


「……西の森の鳴き声が最近うるさいの。夜も眠れないほどよ」

「壁に滲むシミが人の顔に見えるようになったら、すぐに塩水で拭きなさい。あれは初期症状よ」

「最近主人の影が色濃くて……。そろそろ交代の時期かもしれないわ」


 交わされているのは、流行のドレスの話でも恋の話でもない。

 アーティファクトという呪いを抱えながら、家を、そして自分自身をどう維持するかという、切実な生存戦略だった。

 ここは社交場ではない。同じ塹壕に潜む兵士たちの作戦会議室なのだ。

 その時、静かなベルの音が鳴り、会話が止まった。

 部屋の中央に、一人の若い令嬢が進み出る。彼女は旅支度のような、飾り気のないシンプルなドレスを着ていた。


「皆様。……わたくし、今日でお別れのご挨拶に参りました」


 令嬢は深く、深く頭を下げた。

 その顔には見覚えがあった。先日、怪盗アウレウスの被害に遭った男爵家の娘だ。

 家宝であるアーティファクトを盗まれた家は、貴族としての資格を失う。それは社交界からの追放――つまり、没落を意味する。


「あの怪盗に奪われたあの日、全てが終わったと思いました。……父は激怒し、母は泣き崩れましたわ」


 令嬢の声は震えていた。

 だが、顔を上げた彼女の瞳には、奇妙な明るさが宿っていた。


「でも、不思議なのです。……昨日の夜、わたくし、十年ぶりに朝まで一度も起きずに眠れました」


 サロンの空気が揺れた。

 同情、憐憫。そして、隠しきれない羨望。

 守り神を失った彼女は、同時に看守からも解放されたのだ。


「シュミット様」


 不意に、令嬢がウルリカの前に立った。


「貴女は長い間、貴族の身分を離れて生きてこられたのですよね?」

「……ああ、そうだな」


 ウルリカは設定通りに重々しく頷いた。

 四十年前の大災厄で家は没落したが、貴族の証明であるアーティファクトだけはハーコート家が保護していた。それが先日、正当な継承者である彼女に返還された――。

 それが、ユースティティアの天秤とハーコート家が用意した、彼女の表向きの経歴(カバーストーリー)だ。


「教えてくださいませ。……壁の外は、寒くありませんか? 私たちは、守られることなしに生きていけるのでしょうか」


 それは、ここにいる全ての女性たちの問いでもあった。

 アーティファクトの加護と引き換えに、地位と富を約束された籠の鳥たち。

 ウルリカは、少しだけ考えるように視線を窓の外へ向けた。

 思い出すのは、剣を取る前。土にまみれ、太陽の下で汗を流していた家での日々だ。


「……寒いが、空は広いぞ」


 ウルリカは短く答えた。

 貴族としてではなく、一人の人間としての実感を込めて。


「土は正直だ。耕せば実るし、サボれば枯れる。……そこには、身を削るような代償はない。ただ、自分の足で立つだけだ」


 令嬢は息を呑み、それから憑き物が落ちたように微笑んだ。その笑顔はどこまでも透き通っていて、美しかった。


「……ありがとうございます。わたくし、行ってみますわ。広い空の下へ」


 令嬢は軽やかな足取りでサロンを去っていく。残された貴婦人たちは、沈黙の中で彼女の背中を見送った。


***


「……おーい、ウルリカ。生きてるか?」


 カフェのテラス席で待っていたセンリは、戻ってきたウルリカを見るなり、大袈裟に手を振った。

 ウルリカはどかりと向かいの席に座り、出された水を一気に飲み干す。


「どうだった? ドレスは裂かれてない? 紅茶に下剤は?」

「……馬鹿を言え。そんな暇な連中じゃない」


 ウルリカはグラスを置き、遠くの空を見上げた。


「ただ……重い場所だった」

「重い?」

「ああ。だが、悪くない」


 センリは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 ウルリカの横顔が、戦場から帰還した兵士のように、どこか静かで優しかったからだ。

 没落していく令嬢の、あの安堵の表情。

 そして、まだ檻の中に残ることを選んだ貴婦人たちの、覚悟を決めた横顔。


 堅牢に見えた貴族の世界が、音を立てて軋み始めている……そんな予兆が、肌を掠めた気がした。


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