第二十五話 檻の中と外
「……いいかい、ウルリカ。ここから先は俺も守ってやれない」
白亜の豪邸、その重厚な鉄扉の前で、センリは神妙な顔をして立ち止まった。
今日から本格的に潜入することになった白鳥のサロン。
そこは貴族の女性たちだけが入室を許された、完全なる男子禁制の聖域だ。
「サロンという名の密室だ。そこでは扇子一つで相手の家格を切り裂き、紅茶の温度でマウントを取り合う、血の流れない戦争が行われていると聞く。……もし耐えられなくなったら、すぐに合図を」
「大袈裟だな。改造兵士と斬り合うよりはマシだろう」
ウルリカは呆れたように肩をすくめ、招待状であるカードを提示して門番に頷いた。
「俺は近くのカフェで待機してる。……生きて戻れよ」
「誰に向かって言っている」
悲壮感を漂わせるセンリを門の外に残し、ウルリカは一人、手入れされた庭園の砂利道を踏みしめた。
戦場へ向かう足取りだ。だが扉の向こうに広がっていたのは、センリが恐れていたような、嫉妬と愛憎の渦巻く世界ではなかった。
***
通されたサンルームは、柔らかな陽光と、極上の紅茶の香りに満ちている。
だが、漂っている空気は優雅とは程遠い。
張り詰めた緊張感と、互いの無事を確認し合うような、野戦病院にも似た連帯感がそこにはあった。
「……あら、シュミット様。よくいらっしゃいました」
迎えてくれたのは、先日助け舟を出してくれた老婦人だった。
彼女が手招きすると、部屋にいた二十人ほどの貴婦人たちが一斉にウルリカに注目する。その視線に敵意はない。あるのは生存者を見るような敬意だ。
「皆様。彼女が例の、見えている方ですわ」
その紹介だけで、ウルリカの席は決まった。隣に座った夫人が、世間話のような口調で囁く。
「……西の森の鳴き声が最近うるさいの。夜も眠れないほどよ」
「壁に滲むシミが人の顔に見えるようになったら、すぐに塩水で拭きなさい。あれは初期症状よ」
「最近主人の影が色濃くて……。そろそろ交代の時期かもしれないわ」
交わされているのは、流行のドレスの話でも恋の話でもない。
アーティファクトという呪いを抱えながら、家を、そして自分自身をどう維持するかという、切実な生存戦略だった。
ここは社交場ではない。同じ塹壕に潜む兵士たちの作戦会議室なのだ。
その時、静かなベルの音が鳴り、会話が止まった。
部屋の中央に、一人の若い令嬢が進み出る。彼女は旅支度のような、飾り気のないシンプルなドレスを着ていた。
「皆様。……わたくし、今日でお別れのご挨拶に参りました」
令嬢は深く、深く頭を下げた。
その顔には見覚えがあった。先日、怪盗アウレウスの被害に遭った男爵家の娘だ。
家宝であるアーティファクトを盗まれた家は、貴族としての資格を失う。それは社交界からの追放――つまり、没落を意味する。
「あの怪盗に奪われたあの日、全てが終わったと思いました。……父は激怒し、母は泣き崩れましたわ」
令嬢の声は震えていた。
だが、顔を上げた彼女の瞳には、奇妙な明るさが宿っていた。
「でも、不思議なのです。……昨日の夜、わたくし、十年ぶりに朝まで一度も起きずに眠れました」
サロンの空気が揺れた。
同情、憐憫。そして、隠しきれない羨望。
守り神を失った彼女は、同時に看守からも解放されたのだ。
「シュミット様」
不意に、令嬢がウルリカの前に立った。
「貴女は長い間、貴族の身分を離れて生きてこられたのですよね?」
「……ああ、そうだな」
ウルリカは設定通りに重々しく頷いた。
四十年前の大災厄で家は没落したが、貴族の証明であるアーティファクトだけはハーコート家が保護していた。それが先日、正当な継承者である彼女に返還された――。
それが、ユースティティアの天秤とハーコート家が用意した、彼女の表向きの経歴だ。
「教えてくださいませ。……壁の外は、寒くありませんか? 私たちは、守られることなしに生きていけるのでしょうか」
それは、ここにいる全ての女性たちの問いでもあった。
アーティファクトの加護と引き換えに、地位と富を約束された籠の鳥たち。
ウルリカは、少しだけ考えるように視線を窓の外へ向けた。
思い出すのは、剣を取る前。土にまみれ、太陽の下で汗を流していた家での日々だ。
「……寒いが、空は広いぞ」
ウルリカは短く答えた。
貴族としてではなく、一人の人間としての実感を込めて。
「土は正直だ。耕せば実るし、サボれば枯れる。……そこには、身を削るような代償はない。ただ、自分の足で立つだけだ」
令嬢は息を呑み、それから憑き物が落ちたように微笑んだ。その笑顔はどこまでも透き通っていて、美しかった。
「……ありがとうございます。わたくし、行ってみますわ。広い空の下へ」
令嬢は軽やかな足取りでサロンを去っていく。残された貴婦人たちは、沈黙の中で彼女の背中を見送った。
***
「……おーい、ウルリカ。生きてるか?」
カフェのテラス席で待っていたセンリは、戻ってきたウルリカを見るなり、大袈裟に手を振った。
ウルリカはどかりと向かいの席に座り、出された水を一気に飲み干す。
「どうだった? ドレスは裂かれてない? 紅茶に下剤は?」
「……馬鹿を言え。そんな暇な連中じゃない」
ウルリカはグラスを置き、遠くの空を見上げた。
「ただ……重い場所だった」
「重い?」
「ああ。だが、悪くない」
センリは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
ウルリカの横顔が、戦場から帰還した兵士のように、どこか静かで優しかったからだ。
没落していく令嬢の、あの安堵の表情。
そして、まだ檻の中に残ることを選んだ貴婦人たちの、覚悟を決めた横顔。
堅牢に見えた貴族の世界が、音を立てて軋み始めている……そんな予兆が、肌を掠めた気がした。




