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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第三章 仮面の舞台と銀の刃

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第二十三話 野薔薇のデビュタント

 それから数日後。会場となるカニング子爵邸のホールは、洗練された静寂と、さざめくような会話音のバランスで保たれていた。


「……いいかい、ウルリカ」


 ホールの入り口で、センリが小声で囁いた。


「基本は微笑んで沈黙だ。相手の言葉を真に受けるな。ここでの会話は、三枚のオブラートに包んだ毒針の投げ合いだと思えばいい」

「ああ。要するに、敵の太刀筋を見極めて、最小限の動きで受け流せばいいのだろう?」

「……まあ、当たらずとも遠からずだ」


 センリの胃痛をよそに、二人はホールへと足を踏み入れた。


***


 驚くべきことに、ウルリカの立ち振る舞いは完璧だった。


「初めまして、シュミット様。そのドレス、とても斬新な色使いですこと」

「お褒めにあずかり光栄です。夜空の色を模しました」


 近づいてくる貴婦人たちの、値踏みするような視線や、遠回しな嫌味。

 かつてのウルリカなら眉をひそめていただろう言葉の数々を、彼女は涼しい顔で、扇子一つでいなしていた。

 背筋は剣のように真っ直ぐで、歩き方には一切の迷いがない。その凛とした姿は、むしろ周囲の貴族たちを圧倒し始めていた。


(……やるな)


 少し離れた場所で飲み物を手にしていたセンリは、感嘆の息を漏らした。

 ウルリカは器用ではない。だが、一度これは任務だと認識した時の集中力は凄まじい。彼女は今、社交界という戦場で、教えられた通りの型を忠実に遂行しているのだ。


「……センリ」


 ふと、ウルリカが戻ってきた。完璧な微笑みを崩さぬまま、声だけを低くして告げる。


「妙な匂いがする」

「え? 料理の失敗じゃないかな」

「違う。……何かが焦げているような、嫌な気配だ」


 ウルリカは油断なく周囲を見渡した。

 彼女の勘は正しかった。

 ここにいる女性たちは皆、美しい。だがその美しさは、薄氷の上に立つような危うさと、それを必死に隠す鉄のような意志で成り立っていた。


***


 事態が動いたのは、宴も半ばを過ぎた頃だった。

 ホールの中央。一人の令嬢が、ふらりと体勢を崩した。

 ガシャン!

 手から滑り落ちたクリスタルグラスが床で砕け散り、赤いワインがドレスの裾を毒々しく染め上げる。


「――っ、申し訳、ありません……」


 令嬢は青ざめ、ガタガタと震えている。呼吸は荒く、まるで全力疾走した直後のようだ。

 一瞬、周囲の空気が凍る。だが、すぐに何事もなかったかのように会話が再開されようとした。見て見ぬふりをするのが、この場のマナーだからだ。


「おいおい、またか」


 隣にいた婚約者らしき青年貴族だけが、露骨に顔をしかめた。


「君はいつもそうだ。少し立っていただけで貧血か? これだから、古い家の娘は体が弱くて困る」


 青年は膝をつこうとする彼女を支えようともせず、汚れたドレスを見て舌打ちをした。


「まったく、だらしない。せっかくの夜会が台無しだ。……おい、誰か彼女を控え室へ」


 青年が背を向ける。令嬢の身体が、糸が切れたように傾いた。

 ――その時。

 ドン、と床を蹴る音がして、青年の前に影が走った。

 教わったワルツのステップではない。最短距離で間合いを詰める、戦士の踏み込みだ。


「……どけ」


 青年が振り返るより早く、ウルリカが令嬢の身体を滑り込ませるように受け止めていた。

 ぐたりと重い身体。触れた肌が、異常に熱い。


「……っ」


 ウルリカは息を呑んだ。

 令嬢の首元。大粒の青い宝石がついたネックレスの周りの皮膚が酷く熱を持っている。宝石はドクン、ドクンと心臓のように脈打ち、令嬢の肌から何かを貪るように明滅していた。


(……第二種指定か。いや、もっと悪い)


 ウルリカの直感が警鐘を鳴らす。

 これは「蓋」だ。この石の奥には、都市一つを汚染しかねない災厄が渦巻いている。この令嬢は、それを自らの生命力を燃料にして、必死に抑え込んでいるのだ。

 センリに教わったマナー。微笑んで沈黙。

 ――そんなものは、ここではクソの役にも立たない。


「おい。彼女は貧血でも、だらしないわけでもない」


 ウルリカは令嬢を抱きかかえたまま青年に告げた。


「は? 誰だ君は。……見ろ、現に立っていられないじゃないか」

「立っていられるわけがない!」


 ウルリカの怒声が、ホールを震わせた。

 首元を隠すように、自分のショールを令嬢にかけてやる。


「その目玉は飾りか? 彼女は今、戦っているんだぞ」

「た、戦う?」

「見えないのか、血を流しながら立っているのが」


 青年がたじろぐ。ウルリカの瞳には、純粋な敬意と、無理解への激しい怒りが混じっていた。


「それをだらしないだと? 代わってみろ。貴様なら三秒で灰になる」


 会場は静まり返っていた。

 センリが額に手を当て、「あーあ」と天を仰いでいるのが見えた。完全に想定外の事態だ。

 

 だが、空気は侮蔑には傾かなかった。


「……ふふ」


 静寂を破ったのは、低く、落ち着いた笑い声だった。

 一人の老婦人が、人垣を割って進み出てきた。

 その首にもまた、古めかしい、禍々しい気配を放つチョーカーが巻かれている。


「……お行儀の悪い子ね」


 老婦人は扇子を閉じて、ウルリカを見上げた。その瞳は、値踏みするように細められている。


「淑女の化粧を公衆の面前で剥がすなんてマナー違反よ」


 一瞬、緊張が走る。

 だが、老婦人はふっと口元を緩め、ウルリカが抱える令嬢の汗ばんだ額を、自らのハンカチで優しく拭った。


「――でも、貴女には化粧の下が見えるのね。……そこの、殿方とは違って」


 老婦人の視線が、氷の礫となって青年を貫いた。

 青年は「ひっ」と短い音を漏らし、逃げるように群衆の中へ消えていった。

 老婦人は再びウルリカに向き直る。

 その瞳にあったのは、咎める色ではない。共犯者に向けるような、静かな親愛だった。


「貴女、お名前は?」

「……シュミットだ。ウルリカ・シュミット」

「そう。良い目ね。痛みが分かる目だわ」


 老婦人は懐から、一枚のカードを取り出した。白鳥の刻印がされた、厚みのある招待状だ。

 それを、ウルリカのドレスの胸元に、悪戯っぽく差し込む。


「表の社交界は、私たちには少し退屈すぎるでしょう? ……『裏』で、本当の話をしましょうか」


 周囲の女性たちが、一斉に扇を下ろした。

 その視線は、もはや余所者を見るものではない。

 同じ塹壕で戦う、戦友を迎える目だった。


***


 ガチャリ、と重厚な扉がロックされる音がした瞬間だった。


「――ああもう、限界だ!」


 ウルリカが叫び、ハイヒールから足を引っこ抜いた。そのまま玄関の段差に座り込み、ドレスの背中に手を回す。


「おいセンリ、これ外せ。今すぐだ。窒息する」

「はいはい。……暴れるなよ、生地が裂ける」


 センリは苦笑しながら、ウルリカの背後に回り、コルセットの紐を緩めてやった。

 プハァッ、とウルリカが深海から浮上したような息を吐く。


「……生き返った。二度と着ないぞ、こんな拷問器具」

「お疲れ様。でも、評判は上々だったよ」


 センリ自身も、首元のタイを緩め、第一ボタンを外した。

 完璧だった貴公子の仮面が剥がれ、いつもの少し疲れた、けれど気安い青年の顔に戻る。


「評判? 他人を怒鳴りつけたのがか?」

「いいや。あの会場で、君だけが本質を見ていた。……それが彼女たちに響いたんだ」


 センリはウルリカの手を取り、立たせた。

 ペタペタと廊下を歩く彼女の背中には、もう夜会での張り詰めた緊張感はない。


 リビングに入ると、温かなオレンジ色の照明が灯っていた。

 ソファには、膝にブランケットをかけたアレクセイが座っている。

 彼は手元の本――今日買ったばかりの『名もなき騎士の航海』から顔を上げ、ふわりと笑った。


「おかえり、二人とも」


 その声を聞いた瞬間、屋敷の空気が変わった気がした。

 冷たい貴族の別邸が、ただの家になった音だ。


「ただいま、アレクセイ。……いい子にしてたか?」


 ウルリカがドカッとソファの反対側に身を投げ出す。行儀悪く足を組み、テーブルにあった水を一気に飲み干した。


「うん。……あ、すごい。ウルリカ、全然乱れてない。戦ってきたんでしょう?」

「ああ。だが、剣は振るわなかった」


 ウルリカは自嘲気味に笑い、自分の掌を見つめた。


「女性が倒れたんだ。アーティファクトの起動をその身ひとつで抑えていた」

「……すごいね」

「ああ。理解のない男には噛みついてやった」

「そしたら、ご婦人方に囲まれちゃってね」


 センリがキッチンから人数分のグラスと、琥珀色の液体が入ったボトルを持ってきた。アレクセイには、ホットミルクを。


「ウルリカのやったことはサロンの奥様方の琴線に触れたらしい。……説教を食らうかと思ったけど、逆だったよ」

「……ふん。私はただ、気に入らなかっただけだ」


 ウルリカはぶっきらぼうに言い、渡されたグラスを傾けた。

 アルコールが喉を焼き、冷え切った胃の腑に熱が戻ってくる。

 

「それで、そっちはどうだったんだ? シビルにいじめられなかったか?」

「大丈夫だよ。シビルさんは、怖かったけど……アーティファクトのことは、ちゃんと心配してたから」


 アレクセイはホットミルクを両手で包み込み、少しだけ誇らしげに言った。


「それにね、帰りに本屋を見つけたんだ。『銀の栞』っていうお店。……店主のおじいさん、良い人だったよ。僕をただの客として扱ってくれた」


 アレクセイの言葉に、センリとウルリカは顔を見合わせた。二人の表情が自然と緩む。


「そうか。……それは、いい一日だったな」


 ウルリカの声は柔らかく、優しかった。

 

「ああ、そうだ。お土産がある」


 彼女は思い出したように渡されたカードを取り出した。

 白鳥の刻印がされた招待状。

 それをテーブルの中央、アレクセイの本の隣に置く。


「白鳥のサロンへの切符だ。……どうやら、私の乱暴が、奥様方の閉ざされた扉をこじ開けたらしい」

「せめて騎士道と言ってくれ」


 センリが苦笑し、自分のグラスを掲げた。


「さて、乾杯しようか。新しい戦場に立った剣士と、初めてのお使いを成功させた魔法使いと……二人の保護者である、しがない貴族に」

「長い」

「乾杯」


 グラスとマグカップが軽く触れ合う。カチン、と澄んだ音が、静かなリビングに溶けていった。

 窓の外は闇だが、ここには確かな灯りがある。

 明日からは、その闇の奥――貴族社会の裏側にあるサロンへと踏み込むことになる。

 だが、今夜だけは。

 鎧を脱いで、泥のように眠る権利が彼らにはあった。


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