第二十二話 氷の門番
ハーコート家別邸の車寄せに、音もなく一台の高級車が滑り込んできた。
漆黒のボディは鏡のように磨き上げられ、夕日を冷ややかに反射している。運転席から降りてきた運転手が、恭しく後部座席のドアを開けた。
「センリ、ウルリカ……行ってくる」
アレクセイが鞄を強く握りしめ、振り返った。
その表情は、処刑台に向かう囚人のようにも、初めてのお使いに行く子どものようにも見えた。
「おい、アレクセイ」
ウルリカが一歩踏み出し、彼の襟元をぐいと直した。
「向こうで何かあったら、すぐ連絡しろ。誰かに不当な扱いを受けたら我慢するな。壁をぶち抜いてでも迎えに行く」
「……ふふ、ありがとう」
アレクセイは困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「大丈夫だよ。僕は仕事をしに行くだけだから」
彼はウルリカの手をそっと握り返すと、視線をセンリに向けた。
「センリも。……喧嘩しないでね」
「善処するよ」
センリが肩をすくめる。
その時、開いたままの車の窓から、鋭い声が飛んだ。
「――お涙頂戴の別れは済んだかしら?」
窓の奥、優雅に足を組んで座るシビル・ハーコートが、氷のような視線をこちらに向けている。
彼女はアレクセイが乗り込むのを待って、最後にちらりとウルリカを見た。
その視線が、頭のてっぺんからつま先までを、値踏みするように撫でる。
「……センリ。貴方、本気なの?」
「何がだよ、姉さん」
「その、泥棒猫のような歩き方の女性を、由緒ある令嬢として夜会に送り込むつもりかと言っているのよ」
シビルは扇子で口元を隠し、冷ややかな溜息をついた。
「ドレスは一級品でも、中身が野良犬のままではね。……せいぜい、ハーコート家の名に泥を塗らないよう、壁の花に徹することをお勧めするわ」
「なっ……」
ウルリカが眉を吊り上げ、一歩踏み出そうとする。
だが、それより早く、黒い車は音もなく発進した。砂利を蹴る音さえ立てず、優雅に、そして拒絶するように門の向こうへと消えていく。
残されたのは、排気ガスと沈黙だけ。
「……あの女、一度本気で叩き斬ってやりたい」
ウルリカがギリギリと奥歯を鳴らす。
だが、隣にいたセンリは、静かだった。
「……泥棒猫? 野良犬?」
センリが低い声で呟く。
その顔には、今まで見せたことのない種類の、暗く、熱い笑みが張り付いていた。
「上等だ……」
「おい、センリ?」
センリはバッとウルリカを振り返った。その瞳には、奇妙な炎が宿っている。
「聞いたか、ウルリカ。あいつ、俺たちの仕事を無理だと決めつけた」
「あ、ああ。随分な言い草だったな」
「……許せない」
ウルリカの手首を掴み、ぐいと引っ張った。普段のセンリからは考えられないほど強い力だ。
「予定変更だ。基礎練習は終わり。今から夜会までの時間、徹底的に仕上げるぞ」
「は? おい待て、心の準備が」
「あの氷の魔女が、二度見して腰を抜かすくらいの完璧な淑女にしてやる。覚悟しろ、ウルリカ!」
「離せ! これなら戦場の方がマシだ!」
悲鳴に近い抗議と共に、二人は屋敷の奥へと消えていった。
***
一方その頃。
重苦しい静寂に包まれたハーコート本家の地下。
「……ここよ」
シビルの案内でアレクセイは分厚い鉄扉の前へと辿り着いた。
扉には幾重にも厳重な封印が施されているが、それでも隙間から肌を刺すような冷気と魔力が漏れ出している。
「管理番号H-04。『嘆きの銀時計』。半年前から内部の魔力循環が乱れ、定期的に周囲の時間を凍結させる誤作動を起こしているわ」
シビルはアレクセイを見ずに、淡々と告げた。
「技術班が三人がかりで調整を試みたけれど、誰も核心には触れられなかった。……貴方にできる?」
試すような視線。アレクセイは、怯えることなく扉に手を触れた。
「……できるよ」
彼の指先から、淡い緑色の光が染み込んでいく。
解錠の呪文など必要ない。彼の魔力は、鍵穴ではなく、扉そのものを透過して内部へと届く。
「壊れているんじゃない。……泣いているんだ」
「泣いている?」
「うん。寂しいって言ってる」
アレクセイは静かに扉を開いた。
中には、部屋全体を埋め尽くすような、巨大で複雑怪奇な銀色の時計が鎮座していた。歯車が悲鳴のような音を立てて軋んでいる。
その圧倒的な質量と、暴走寸前のエネルギーを前にしても、アレクセイの瞳は穏やかだった。
「初めまして。……痛かったね、もう大丈夫だよ」
彼はまるで、迷子の子供に話しかけるように歩み寄る。
その背中を見て、シビルは息を呑んだ。
マダムが彼を送り込んできた理由を、彼女は言葉ではなく肌で理解したのだ。
そこにいるのは、ただの魔術師ではない。
魔術という理そのものに愛された、規格外の存在だった。
***
地下室での作業を終え、地上に戻った時、空は既に茜色から群青へと変わろうとしていた。
「……予定より早いわね」
玄関ホールで待っていたシビルが、時計を一瞥して言った。
その声には称賛の色はない。ただ、事実を確認するだけの冷徹な響きだ。だが、アレクセイには分かっていた。この効率的であるという評価こそが、彼女にとっての最大限の賛辞なのだと。
「『嘆きの銀時計』は眠りについたわ。……ご苦労様」
「ううん、あの子が素直だったから」
アレクセイは少しだけ疲れたように笑った。
魔力を大量に使ったわけではない。ただ、何十年もの間、誰にも理解されずに軋んでいたアーティファクトの「痛み」に同調したことで、少しだけ心がささくれていた。
「車で送らせるわ」
「あ……いいえ、大丈夫です」
アレクセイは首を横に振った。
「歩いて帰ります。風に当たりたいから」
「そう。……好きになさい」
シビルは引き止めなかった。彼女は踵を返し、屋敷の奥へと消えていく。その冷たい背中を、アレクセイはしばらく見送った。
***
ハーコート本家の重厚な門を出ると、そこには見慣れない街並みが広がっていた。
首都の高級住宅街。石畳の道に、ガス灯を模した街灯がポツポツと灯り始めている。
「……ふう」
アレクセイは大きく息を吐いた。
肺に入ってくるのは、結界で浄化された屋敷の空気ではなく、車の排気ガスや夕食の匂いが混じった、雑多な街の空気だ。
けれど、それが心地よかった。
自分が管理される危険物ではなく、ただの通行人の一人になれたような気がしたからだ。
あてどなく歩く。
センリの別邸までは、大人の足で三十分ほど。地図は頭に入っているが、アレクセイはあえて裏通りを選んだ。
その時だった。
ふと、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。
古い紙と、インクと、埃の匂い。それはかつて彼がまだ森の奥にいた頃、唯一の友達だった書物たちの匂いによく似ていた。
(……あ)
路地裏の角。煉瓦造りの建物の半地下に、ひっそりと灯る明かりがあった。
看板には、剥げかけた金文字で『銀の栞』とある。
ガラス戸の向こうには、乱雑に、けれど愛おしげに積み上げられた本の山が見える。
それは、古書店だった。
カランコロン、と乾いたベルの音が鳴る。
アレクセイがおずおずと足を踏み入れてなお、店の中は静寂に満ちていた。
カウンターの奥には、白髪の老人が一人。眼鏡の奥で活字を追っていた目を上げ、アレクセイを見た。
「いらっしゃい」
それだけだった。
魔術師とも不審者とも呼ばれない。ただの客への、無愛想な挨拶。
アレクセイは、ほう、と息をつき、書棚の間を歩き始めた。
背表紙を指でなぞる。
『帝国興亡史』、『初歩からの植物学』、『失われた詩篇』……。
どれもが、ただの紙とインクの塊だ。開いても、呪いの霧が噴き出すこともなければ、精神を乗っ取られることもない。
その無防備さが、アレクセイにはたまらなく愛おしかった。
(……僕は、何が読みたいんだろう)
ふと、一冊の本が目に止まった。
青い装丁の、少し古びたハードカバー。タイトルは『名もなき騎士の航海』。
手に取って、パラパラとめくる。
剣も魔法も使えない少年が、知恵と勇気だけで海を渡り、自分の名前を見つける物語のようだ。
「……それが気になるのかね?」
いつの間にか、老人がカウンターから声をかけていた。
「あ、はい。……綺麗な、本で」
「ふん。それは初版だ。前の持ち主が大切にしていたらしくてな、状態がいい。……静かな夜に読むには、悪くない本だよ」
静かな夜。
それは、アレクセイがずっと求めていたものだ。
怯えることも、誰かを傷つけることもない、穏やかな夜。
「……これ、えっと、このお金で買えますか」
アレクセイはポケットからセンリに貰った財布を取り出した。慣れない手つきでありったけの紙幣を出す。老人はそれを確認し、お釣りを返してから丁寧に本を包んでくれた。
「ありがとう。またおいで、若いの」
「……はい」
店を出ると、外はすっかり夜になっていた。
小脇に抱えた本の重み。
それは魔導書のずっしりとした重圧とは違う、温かな重みだった。
「寄り道しちゃった」
アレクセイは包みを大事に抱き直すと、少し早足で歩き出した。
あの屋敷には、今は二人の仲間がいる。
きっと今頃、ウルリカはセンリに絞られて、不機嫌な顔をしているだろう。そんな日常へ帰ることが、今の彼には何よりも楽しみだった。
空を見上げる。
星が一つ、綺麗に瞬いていた。




