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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第三章 仮面の舞台と銀の刃

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第二十二話 氷の門番

 ハーコート家別邸の車寄せに、音もなく一台の高級車が滑り込んできた。

 漆黒のボディは鏡のように磨き上げられ、夕日を冷ややかに反射している。運転席から降りてきた運転手が、恭しく後部座席のドアを開けた。


「センリ、ウルリカ……行ってくる」


 アレクセイが鞄を強く握りしめ、振り返った。

 その表情は、処刑台に向かう囚人のようにも、初めてのお使いに行く子どものようにも見えた。


「おい、アレクセイ」


 ウルリカが一歩踏み出し、彼の襟元をぐいと直した。


「向こうで何かあったら、すぐ連絡しろ。誰かに不当な扱いを受けたら我慢するな。壁をぶち抜いてでも迎えに行く」

「……ふふ、ありがとう」


 アレクセイは困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。


「大丈夫だよ。僕は仕事をしに行くだけだから」


 彼はウルリカの手をそっと握り返すと、視線をセンリに向けた。


「センリも。……喧嘩しないでね」

「善処するよ」


 センリが肩をすくめる。

 その時、開いたままの車の窓から、鋭い声が飛んだ。


「――お涙頂戴の別れは済んだかしら?」


 窓の奥、優雅に足を組んで座るシビル・ハーコートが、氷のような視線をこちらに向けている。

 彼女はアレクセイが乗り込むのを待って、最後にちらりとウルリカを見た。

 その視線が、頭のてっぺんからつま先までを、値踏みするように撫でる。


「……センリ。貴方、本気なの?」

「何がだよ、姉さん」

「その、泥棒猫のような歩き方の女性を、由緒ある令嬢として夜会に送り込むつもりかと言っているのよ」


 シビルは扇子で口元を隠し、冷ややかな溜息をついた。


「ドレスは一級品でも、中身が野良犬のままではね。……せいぜい、ハーコート家の名に泥を塗らないよう、壁の花に徹することをお勧めするわ」

「なっ……」


 ウルリカが眉を吊り上げ、一歩踏み出そうとする。

 だが、それより早く、黒い車は音もなく発進した。砂利を蹴る音さえ立てず、優雅に、そして拒絶するように門の向こうへと消えていく。

 残されたのは、排気ガスと沈黙だけ。


「……あの女、一度本気で叩き斬ってやりたい」


 ウルリカがギリギリと奥歯を鳴らす。

 だが、隣にいたセンリは、静かだった。


「……泥棒猫? 野良犬?」


 センリが低い声で呟く。

 その顔には、今まで見せたことのない種類の、暗く、熱い笑みが張り付いていた。


「上等だ……」

「おい、センリ?」


 センリはバッとウルリカを振り返った。その瞳には、奇妙な炎が宿っている。


「聞いたか、ウルリカ。あいつ、俺たちの仕事を無理だと決めつけた」

「あ、ああ。随分な言い草だったな」

「……許せない」


 ウルリカの手首を掴み、ぐいと引っ張った。普段のセンリからは考えられないほど強い力だ。


「予定変更だ。基礎練習は終わり。今から夜会までの時間、徹底的に仕上げるぞ」

「は? おい待て、心の準備が」

「あの氷の魔女が、二度見して腰を抜かすくらいの完璧な淑女にしてやる。覚悟しろ、ウルリカ!」

「離せ! これなら戦場の方がマシだ!」


 悲鳴に近い抗議と共に、二人は屋敷の奥へと消えていった。


***


 一方その頃。

 重苦しい静寂に包まれたハーコート本家の地下。


「……ここよ」


 シビルの案内でアレクセイは分厚い鉄扉の前へと辿り着いた。

 扉には幾重にも厳重な封印が施されているが、それでも隙間から肌を刺すような冷気と魔力が漏れ出している。


「管理番号H-04。『嘆きの銀時計』。半年前から内部の魔力循環が乱れ、定期的に周囲の時間を凍結させる誤作動を起こしているわ」


 シビルはアレクセイを見ずに、淡々と告げた。


「技術班が三人がかりで調整を試みたけれど、誰も核心には触れられなかった。……貴方にできる?」


 試すような視線。アレクセイは、怯えることなく扉に手を触れた。


「……できるよ」


 彼の指先から、淡い緑色の光が染み込んでいく。

 解錠の呪文など必要ない。彼の魔力は、鍵穴ではなく、扉そのものを透過して内部へと届く。


「壊れているんじゃない。……泣いているんだ」

「泣いている?」

「うん。寂しいって言ってる」


 アレクセイは静かに扉を開いた。

 中には、部屋全体を埋め尽くすような、巨大で複雑怪奇な銀色の時計が鎮座していた。歯車が悲鳴のような音を立てて軋んでいる。

 その圧倒的な質量と、暴走寸前のエネルギーを前にしても、アレクセイの瞳は穏やかだった。


「初めまして。……痛かったね、もう大丈夫だよ」


 彼はまるで、迷子の子供に話しかけるように歩み寄る。

 その背中を見て、シビルは息を呑んだ。

 マダムが彼を送り込んできた理由を、彼女は言葉ではなく肌で理解したのだ。

 そこにいるのは、ただの魔術師ではない。

 魔術という理そのものに愛された、規格外の存在だった。


***


 地下室での作業を終え、地上に戻った時、空は既に茜色から群青へと変わろうとしていた。


「……予定より早いわね」


 玄関ホールで待っていたシビルが、時計を一瞥して言った。

 その声には称賛の色はない。ただ、事実を確認するだけの冷徹な響きだ。だが、アレクセイには分かっていた。この効率的であるという評価こそが、彼女にとっての最大限の賛辞なのだと。


「『嘆きの銀時計』は眠りについたわ。……ご苦労様」

「ううん、あの子が素直だったから」


 アレクセイは少しだけ疲れたように笑った。

 魔力を大量に使ったわけではない。ただ、何十年もの間、誰にも理解されずに軋んでいたアーティファクトの「痛み」に同調したことで、少しだけ心がささくれていた。


「車で送らせるわ」

「あ……いいえ、大丈夫です」


 アレクセイは首を横に振った。


「歩いて帰ります。風に当たりたいから」

「そう。……好きになさい」


 シビルは引き止めなかった。彼女は踵を返し、屋敷の奥へと消えていく。その冷たい背中を、アレクセイはしばらく見送った。


***


 ハーコート本家の重厚な門を出ると、そこには見慣れない街並みが広がっていた。

 首都の高級住宅街。石畳の道に、ガス灯を模した街灯がポツポツと灯り始めている。


「……ふう」


 アレクセイは大きく息を吐いた。

 肺に入ってくるのは、結界で浄化された屋敷の空気ではなく、車の排気ガスや夕食の匂いが混じった、雑多な街の空気だ。

 けれど、それが心地よかった。

 自分が管理される危険物ではなく、ただの通行人の一人になれたような気がしたからだ。

 あてどなく歩く。

 センリの別邸までは、大人の足で三十分ほど。地図は頭に入っているが、アレクセイはあえて裏通りを選んだ。

 その時だった。

 ふと、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。

 古い紙と、インクと、埃の匂い。それはかつて彼がまだ森の奥にいた頃、唯一の友達だった書物たちの匂いによく似ていた。


(……あ)


 路地裏の角。煉瓦造りの建物の半地下に、ひっそりと灯る明かりがあった。

 看板には、剥げかけた金文字で『銀の栞』とある。

 ガラス戸の向こうには、乱雑に、けれど愛おしげに積み上げられた本の山が見える。

 それは、古書店だった。

 カランコロン、と乾いたベルの音が鳴る。

 アレクセイがおずおずと足を踏み入れてなお、店の中は静寂に満ちていた。

 カウンターの奥には、白髪の老人が一人。眼鏡の奥で活字を追っていた目を上げ、アレクセイを見た。


「いらっしゃい」 


 それだけだった。

 魔術師とも不審者とも呼ばれない。ただの客への、無愛想な挨拶。

 アレクセイは、ほう、と息をつき、書棚の間を歩き始めた。

 背表紙を指でなぞる。


 『帝国興亡史』、『初歩からの植物学』、『失われた詩篇』……。


 どれもが、ただの紙とインクの塊だ。開いても、呪いの霧が噴き出すこともなければ、精神を乗っ取られることもない。

 その無防備さが、アレクセイにはたまらなく愛おしかった。


(……僕は、何が読みたいんだろう)


 ふと、一冊の本が目に止まった。

 青い装丁の、少し古びたハードカバー。タイトルは『名もなき騎士の航海』。

 手に取って、パラパラとめくる。

 剣も魔法も使えない少年が、知恵と勇気だけで海を渡り、自分の名前を見つける物語のようだ。


「……それが気になるのかね?」


 いつの間にか、老人がカウンターから声をかけていた。


「あ、はい。……綺麗な、本で」

「ふん。それは初版だ。前の持ち主が大切にしていたらしくてな、状態がいい。……静かな夜に読むには、悪くない本だよ」


 静かな夜。

 それは、アレクセイがずっと求めていたものだ。

 怯えることも、誰かを傷つけることもない、穏やかな夜。


「……これ、えっと、このお金で買えますか」


 アレクセイはポケットからセンリに貰った財布を取り出した。慣れない手つきでありったけの紙幣を出す。老人はそれを確認し、お釣りを返してから丁寧に本を包んでくれた。


「ありがとう。またおいで、若いの」

「……はい」


 店を出ると、外はすっかり夜になっていた。

 小脇に抱えた本の重み。

 それは魔導書のずっしりとした重圧とは違う、温かな重みだった。


「寄り道しちゃった」


 アレクセイは包みを大事に抱き直すと、少し早足で歩き出した。

 あの屋敷には、今は二人の仲間がいる。

 きっと今頃、ウルリカはセンリに絞られて、不機嫌な顔をしているだろう。そんな日常へ帰ることが、今の彼には何よりも楽しみだった。

 空を見上げる。


 星が一つ、綺麗に瞬いていた。

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