第二十一話 剣士のステップ
翌朝。
ハーコート家が用意した別邸のキッチンは、不穏な空気ではなく、香ばしいパンの香りに包まれていた。
「……火力が強すぎる。火の精の活動を三割カット、水分量は維持」
キッチンでは、アレクセイがトースターの前で真剣な顔をしてブツブツと詠唱していた。
チン、と軽快な音が鳴る。飛び出してきたのは、芸術的な焼き目のついたトーストだ。
「おはよう、ウルリカ。今日は完璧だよ。焦げ目も均一だ」
「……ああ、おはよう」
ウルリカは重い足取りでダイニングに入ってきた。首をコキコキと鳴らし、不機嫌そうに眉を寄せている。
彼女は豪奢な天蓋付きベッドを使わず、シーツを引っ剥がして床で寝たのだ。沈み込むマットレスでは襲撃に対応できないという理由で。おかげで体はバキバキだった。
そこへ、優雅な足音が近づいてくる。
「おはよう、二人とも。良い朝だね」
現れたセンリは、既に完璧に整っていた。
普段のラフなスーツではなく、仕立ての良いシャツにベスト。髪も綺麗に撫で付けられている。その姿は、どこからどう見ても深窓の令嬢を迎えに来た貴公子そのものだった。
「うわ……」
ウルリカは露骨に顔をしかめた。
「何だその顔は。これから始まる特訓のために、雰囲気作りをしてあげてるんだよ」
センリは流れるような動作で席につき、アレクセイに向き直った。
「さて、アレクセイ。君は今回、技術顧問としてシビルの前に出る。魔法が使えるからといって不遜でもいけないし、卑屈すぎてもいけない。君は価値ある客人として振る舞うんだ」
センリはテーブルに並べられた銀食器を指差した。
「まず基本だ。ナイフとフォークは外側から使う」
「……これ、武器じゃないの?」
アレクセイが一番外側のナイフを手に取り、しげしげと眺める。
「先端に魔力を込めれば、貫通力が上がりそうだ」
「武器じゃない。食事用だ。刺すと死ぬのは魚だけにしてくれ」
センリの返答に、アレクセイは「むぅ」と納得いかない顔でナイフを置いた。
「大体、貴族というのは何でもかんでも手順が多すぎる」
トーストを無造作に齧りながら、ウルリカがぼやいた。
「言いたいことがあるなら口で言えばいい。欲しいものがあるなら買えばいい。なぜ、いちいち遠回しな言い方をして、無駄な食器を並べるんだ? 時間の無駄だ」
それが彼女の偽らざる本音だった。
過去任務で何度か貴族と関わったことがあるが、彼らは決してイエスともノーとも言わない。笑顔で相手を値踏みし、言葉の裏に毒を塗り、自分の要望が通って当然という顔で特権を振りかざす。
その相手が察して当然という傲慢さと、非合理的なルール。ウルリカは虫酸が走るほど嫌いだった。
「そうだね。ウルリカの言う通り、非合理的だ」
センリは意外にも肯定した。だが、紅茶を一口啜り、悪戯っぽく笑う。
「でもね、ウルリカ。これは鎧であり暗号なんだよ」
「暗号?」
「直接切り結べば血が流れる。だから彼らは、マナーという共通言語で殴り合う。どのナイフを使うか、どう挨拶するかで、相手が敵か味方か、利用できるか無能かを見極める。……ま、俺も嫌いだけどね」
センリは肩をすくめた。
「だけど、郷に入っては郷に従えだ。特に今回の敵は、その空気を乱す者を排除する。潜入するためには、君もその面倒な暗号を解読しなきゃならない」
「……チッ。分かった」
ウルリカは舌打ちをして、残りのパンを口に放り込んだ。
理屈は分かる。分かるが、納得はしていない。そんな顔だった。
***
夜。屋敷の広間は、青白い月光に満たされていた。
古めかしい蓄音機から、ゆったりとしたワルツが流れている。
「――痛っ」
ウルリカの足が、センリの革靴を容赦なく踏みつけた。
「すまん。わざとではない」
「分かってるよ。鋼鉄のブーツじゃないだけマシだ」
センリは苦笑しながら、一度距離を取った。
今夜の課題はダンスだ。ウルリカは仕立てられたドレスを――コルセットは少し緩めて――着ていたが、その動きはぎこちない。
敵の攻撃を避けるステップは完璧なのに、音楽に合わせて回るだけの動作が、彼女にはひどく難解な儀式のように思えた。
「肩の力を抜いて。敵はいないよ、ここには俺しかいない」
センリが再び近づき、ウルリカの手を取る。
その手つきは慣れたものだった。
腰に回される手、指先を絡める誘導。体重移動の一つ一つが、水が流れるようにスムーズだ。
(……ああ、こいつは)
至近距離でセンリの顔を見ながら、ウルリカはふと気づく。
この男は、まごうことなき貴族なのだ。
普段は軽薄で、組織のルールすら適当にいなし、年上にだってタメ口をきく。ウルリカが嫌う、権威を振りかざす貴族とは対極にいる。
けれどこうして型に嵌めれば、誰よりもその型を美しく演じてみせる。
所作の端々に染み付いた育ちの良さ。それは、彼が捨てたはずの家の記憶そのものだ。
「ウルリカ、足元を見ない」
耳元で、センリの声がした。
「俺を見ろ。敵の首筋を狙う時と同じだ。視線を逸らすな」
言われて、顔を上げる。
黒い瞳と視線が絡む。
月明かりの中、センリはふっと微笑んだ。それはいつもの軽薄な笑みではなく、どこか諦念を含んだ、穏やかなものだった。
「俺に任せればいい。君が転ばないように支えるのが、エスコート役の仕事だ」
「……へえ」
貴族は嫌いだ。回りくどくて、傲慢で。
だが目の前の男の貴族らしさは、不思議と不快ではなかった。
「なら、しっかり支えろよ。私の体重は、普通の令嬢より重いぞ」
「望むところだね」
センリがリードを強める。
今度は、踏まなかった。ドレスの裾がふわりと翻り、二人の影が月光の下で一つに重なる。
その様子を、部屋の隅からアレクセイが見ていた。
膝の上には、マナー教本が置かれている。
まるで絵画のように美しい二人を見ながら、彼はふと、視線を窓の外へと向けた。
「……?」
屋敷の周囲には、手ずから強力な結界を張った。その結界を乗り越えて届く、奇妙なノイズ。
風の音に混じって、何かが擦れるような音。あるいは、無数の小さな足音のような。
「……やっぱり、少し騒がしい」
アレクセイは窓ガラスに手を当て、呟く。
「空気が、さざなみ立ってるみたいだ」
それはただの勘ではなく、静かで、確実な予兆だった。




