第二十話 鋼鉄の乙女
「――きつい」
その低く、地を這うような呻き声は、敵の急所を的確に貫く際のものではなく、もっと原始的な苦痛に満ちていた。
「息ができない。肋骨が軋んでいる。これは何の拷問だ」
「コルセットです、お嬢様。今は肺ではなく、背中で呼吸をするのですよ」
「背中……? 人間はエラ呼吸などできないだろう」
目の前には、シルクとレース、そして地獄のような量のフリルが積み上げられている。
ここは戦場ではない。ハーコート家の所有する別邸――もとい、豪奢な洋館の一室だ。
鏡の中に映っているのは、歴戦の剣士ウルリカ・シュミットではない。顔面蒼白で、今にも噛みつきそうな形相をした、見知らぬドレス姿の女だった。
「おい、センリ。笑うな」
ソファで紅茶を飲んでいた相棒に、ウルリカは殺気のこもった視線を投げる。だが、センリ・ハーコートは優雅にカップを置き、楽しげに肩を震わせた。
「いや、ごめん。いつもの防弾スーツより防御力が高そうに見えてさ。今の君なら、ドラゴンの一撃もその腹筋……じゃなくてコルセットで弾き返せそうだ」
「あとで斬るからな」
「怖い怖い。でも諦めてよ、ウルリカ。これはマダムの至上命令なんだから」
センリの言葉に、ウルリカはがっくりと項垂れた。
その脳裏に、数日前の悪夢のような「指令」が蘇る。
***
「ウルリカちゃん、貴族になってちょうだい」
本部の執務室。マダム・マーガレットは、いつものように優雅な手つきで一枚の招待状をテーブルに滑らせた。
そこには金色の箔押しで、『白鳥のサロン』と記されている。
「最近、上流階級の奥様方から、非公式な相談が増えているの。曰く、アーティファクトが騒がしいとね。けれど、彼女たちは我々のような制服組には口を閉ざす。だから、身内を送り込むことにしたわ」
「それで、俺たちですか」
センリが呆れたように眉を上げた。
「マダム、適材適所という言葉をご存じで? うちのウルリカは、社交辞令より先に手が出るタイプですよ。サロンでお茶会なんてさせたら、三秒で血の雨が降ります」
「あら、失礼ね。私はできると言っているのよ」
マダムは不敵に微笑むと、視線を部屋の隅に向けた。そこには、興味なさそうに古書を読んでいたアレクセイがいる。
「今回の潜入には、ハーコート家の全面協力を取りつけたわ。ウルリカちゃんには、ハーコート家が身元を保証する、没落した名家の令嬢という肩書きを用意したの」
「……家の、協力?」
センリの表情から、すっと笑みが消えた。
ハーコート家。強大なアーティファクトを複数管理している貴族の家系。そして、センリが捨てたはずの場所だ。
「あの人――シビルが、タダでそんな面倒を引き受けるはずがない」
「ええ。だから、対価を用意したわ」
マダムの視線が、再びアレクセイに注がれる。
センリは息を呑んだ。
「アレクセイを、貸し出すと?」
「貸し出すというと人聞きが悪いわね。シビルちゃんは今、領地にあるアーティファクトの管理に難儀している。以前、一つが暴走してダメになったでしょう? アレクセイちゃんには、他のアーティファクトをメンテナンスする技術顧問になってもらうの」
センリの脳裏に、苦い記憶がフラッシュバックする。
数年前、実家で管理していたアーティファクトが暴走した日。屋敷の扉を蹴破り、それを物理的に粉砕しに現れたのが、他ならぬウルリカだった。
因果なものだ。かつて屋敷を破壊しに来た女が、今度はその家の加護を受けて貴族を演じる。そしてそのために魔術師が使われるとは。
「……僕は」
それまで黙っていたアレクセイが、顔を上げた。
彼は不安げにセンリとウルリカを見比べ、それからマダムに向かっておずおずと尋ねる。
「僕も、ドレスを着るの……?」
「ぷっ」
センリが吹き出し、重苦しい空気が霧散した。マダムも口元を扇子で隠して笑う。
「いいえ、アレクセイ。貴方はそのままでいいわ。ただ、ウルリカちゃんがお姫様になるために、貴方の魔法の腕を少しだけシビルに貸してあげて」
アレクセイはほっとしたように胸を撫で下ろし、それからセンリを見た。
その緑色の瞳は、どこまでも澄んでいる。
「いいよ、センリ。僕にできることならやる。……トーストを焼くよりは、多分、得意だから」
その言葉に、センリは眉間の皺を解いた。
相変わらず、この魔術師は自分の価値を分かっていない。だが、それが今の彼なりのチームへの貢献なのだろう。
「……分かったよ。引き受けよう」
***
「――終わりましたわ!」
仕立て屋の甲高い声で、センリは現実に引き戻された。
試着室のカーテンが、シャッと音を立てて開かれる。
「……どうだ」
不機嫌そうな声と共に、ウルリカが姿を現した。
センリは一瞬、軽口を叩くのを忘れた。
彼女が纏っていたのは、深い夜空のような濃紺のドレスだった。露出は控えめだが、身体のラインに沿ったデザインが、鍛え上げられた肢体の美しさを際立たせている。銀色の髪は複雑に編み込まれ、首元には家紋が入ったチョーカーが光っていた。
そこにいるのは、血に塗れた戦士ではない。冷たく、気高く、そして触れれば斬れそうなほど鋭い貴婦人だった。
「……わあ」
部屋の隅で、道具の手入れをしていたアレクセイが、ぽかんと口を開けた。
「すごい。ウルリカ、すごく強そう」
「褒め言葉として受け取っておく」
ウルリカはドレスの裾を邪魔そうに蹴り上げ、センリを睨んだ。
「おい、センリ。黙ってないで何とか言え。どこにナイフを隠せばいいか、今のうちに指示をくれ」
その物騒な発言にセンリはようやく我に返り、いつもの笑みを貼り付けた。
「ナイフなんて隠したら、その綺麗なラインが台無しだよ。武器は俺が持つから、君はその美しい顔で微笑んでいればいい」
センリは立ち上がり、うやうやしく手を差し出した。
「さあ、行こうかお嬢様。地獄の社交界デビューだ」
ウルリカは大きなため息をつき、その無骨な手のひらをセンリの手に重ねる。
その手は震えてはいなかったが、剣を握る時よりもずっと強く、緊張で強張っていた。
こうして、奇妙な三人組の新しい生活――潜入任務が幕を開けたのだった。
舞台を変えて第三章開始です。応援よろしくお願いします!




