幕間 凪の日の訪問者
チン、と軽快な音が鳴った。
キッチンから漂ってくるのは、焦げ臭さではなく、小麦の芳醇な香りだ。
「センリ、見て。今度は完璧だよ」
エプロンをつけたアレクセイが、トースターから焼きたての食パンを取り出し、得意げに掲げて見せた。
表面は狐色。焼きムラはゼロ。外はサクッと、中はフワッと。
それは、ただのトーストではない。アレクセイが火加減と水分量をミクロ単位で魔力制御し、理想の食感を物理的に固定した、奇跡の一枚だった。
「……アレクセイ、その無駄に繊細な技を戦闘で使えないのか?」
リビングのソファで新聞を広げていたウルリカが呆れたように呟く。彼女の前には先ほどアレクセイがうっかり作り出した、蛍光色に発光するバターが置かれていた。
「すごいよね、光るバター。深海魚みたいだ」
「……食えるのか、これ」
「無害だよ。ちょっと口の中が明るくなるだけ」
センリは欠伸を噛み殺しながら、コーヒーを啜った。
平和だ。
魔術師がトーストを焼き、剣士が発光するバターに挑もうとしている。
ユースティティアの天秤が管理する危険物を含んだ日常としては、あまりに牧歌的すぎる朝だった。
その時、窓の外で重厚なエンジンの音が止まった。
センリは眉をひそめ、カーテンの隙間から外を覗く。
アパートの前に停まったのは、場違いな高級車だ。ボンネットには、貴族院の紋章である茨と百合が輝いている。
後部座席から降りてきたのは、仕立ての良いスーツを纏った女性。
そして助手席からは、天秤の制服を着た男が、揉み手をしながら慌てて彼女のためにドアを開けている姿が見えた。
「……げっ」
センリはマグカップを持ったまま露骨に嫌な顔をした。
「視察なら来週って言ったじゃないか。……よりによって、一番会いたくないのが来た」
チャイムが鳴り、狭い玄関に三人の人間がひしめき合った。
「やあ、シビル姉さん。本家のお勤めご苦労様。……ここは埃っぽいから、綺麗なお靴が汚れるよ?」
センリが貼り付けた笑みで出迎える。
シビル・ハーコート。
センリの従姉であり、ハーコート家の次期当主候補の一人。
彼女は冷ややかな目でセンリのアパートを見回し、ハンカチで口元を押さえた。
「相変わらず、犬小屋のような場所ね。……よくこんな劣悪な環境で息ができるわ」
「住めば都ですよ。それに、俺は犬じゃなくて飼い主だからね」
「……失礼します」
シビルの後ろから、天秤の監査官が入ってきた。中年の、神経質そうな男だ。彼はセンリに目礼しつつ、シビルの機嫌を伺うように背中を丸めている。
「本日は、貴族院からの特別視察ということで、シビル様に同行願いました。対象者アレクセイ・イズマイロフの管理状況について、天秤と貴族院の合同監査を行います」
監査官の声は硬い。
ユースティティアの天秤は国際的な独立機関だが、その設立と運営には各国の貴族院――アーティファクトを管理する旧家たち――が深く関わっている。
現場の実行部隊であるセンリたちにとって、彼らは口うるさいスポンサーであり、無視できない権力者だった。
「どうぞ。お茶くらい出しますよ」
センリがソファを勧める。
シビルはアレクセイを一瞥した。
アレクセイは、シビルの纏う冷たい空気に怯え、ウルリカの背中に隠れている。
「……これが、世界を脅かす災厄?」
シビルは鼻で笑った。
「ただの臆病者じゃない。ハーコートの『星読みの秤』の方が、よほど威厳があるわ」
「ええ、左様でございますね」
監査官が追従して笑いを浮かべる。
「ですが、計測データ上では極めて危険な数値を……」
「私が知りたいのは、この道具がハーコートの名を汚さないよう、正しく躾けられているかだけよ」
彼女の言葉には、アレクセイを人間として扱わない傲慢さがあった。ウルリカが不快げに眉を寄せ、口を開きかけたその時。
窓の外から、甲高い悲鳴が聞こえた。アパートの共用庭だ。センリたちの目が一瞬で鋭くなる。
「……行くぞ」
ウルリカが窓枠を飛び越える。センリとアレクセイが続く。
シビルと監査官も、顔を見合わせて慌てて外へ出た。
庭では、近所の子供が尻餅をついて泣いていた。
その足元に、黒い石が転がっている。
ただの石ではない。子供の影が、まるで意思を持ったように立ち上がり、子供の足首を掴もうと蠢いているのだ。
「三種になりかけのアーティファクトってところだな」
センリが瞬時に判断する。
どこかから紛れ込んだ、呪いの石。殺傷能力はないが、放っておけば子供の精神を蝕む。
監査官が青ざめて叫んだ。
「い、一大事だ! すぐに封鎖班を! シビル様、お下がりください!」
彼は懐から通信機を取り出し、大げさに騒ぎ立てようとした。
だが、センリたちは動じない。
「ウルリカ、子供を確保。影を踏むなよ」
「分かってる」
ウルリカが疾風のように駆け寄り、影の隙間を縫って子供を抱き上げる。
「アレクセイ、鎮静化を。優しくな」
「うん」
アレクセイが、蠢く影の前にしゃがみ込む。
彼は石に向かって、怯えるでもなく、支配するでもなく、ただ友人に話しかけるように囁いた。
「……驚いたんだね。大丈夫、もうおやすみ」
彼が指先で石に触れる。
パチン。
静電気のような音がして、立ち上がっていた影が、ふっと地面に戻った。
ただの、静かな石ころに戻る。
一連の動作に、十秒もかかっていない。
「……よし。怪我はないな?」
センリが子供の頭を撫でる。シビルは、その光景を無言で見つめていた。
手続きも、詠唱も、生贄も必要としない。まるで呼吸をするように異常を処理する三人の姿。
それは、貴族たちが血を吐きながら維持している管理とは、決定的に違うものだった。
「……報告書にはどう書けば?」
呆然とする監査官に、シビルは冷たく言い放った。
「小火騒ぎよ。……私の目の前で不手際はなかった。それでいいわ」
帰り際。
シビルは車の前で足を止め、センリだけを手招きした。
「……相変わらずね、センリ。天秤の自由を満喫しているようで何よりだわ」
「皮肉かい?」
「羨望よ」
シビルはふと、手袋を嵌めた自分の左手を庇うように撫でた。
「……気をつけて。ハーコートのアーティファクトが次に求めるのは、あなたの分家筋の娘かもしれないわ。今、本家は血を繋ぐことに躍起になっているから」
センリの背筋に冷たいものが走る。
「……どういうことだ?」
「言葉通りの意味よ。……貴族たちは今、かつてないほど血の劣化を恐れている。アーティファクトの飢えを満たすためなら、何をしてでも輝きを維持しようとするでしょうね」
シビルはそれ以上語らず、車に乗り込んだ。
走り去る高級車を見送りながら、センリは深い溜息をついた。
アパートの入り口では、アレクセイが不思議そうに首を傾げている。
「センリ、どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
「あの女の人……怖かった」
アレクセイが自分の指先を見つめる。
「ずっと手袋をしてたけど、指先が黒くなってた。……あれは、アーティファクトの管理の代償だね」
センリは目を見開いた。
シビルの手袋の下。自分が背負うはずだった、あるいは逃げ出した重みが、彼女の肉体を蝕んでいる。
ウルリカがセンリの肩を叩いた。
「……来るなら来ればいい。私が斬る」
「頼もしいね。でも、次は物理攻撃じゃ済まないかもしれないよ」
センリはアパートの入り口を振り返った。三つのマグカップが、窓越しに見える。
「……面倒なことになりそうだ」
独り言のような声が、風に紛れた。
これにて第二章は完結です!本日20時10分より第三章開始。ぜひご覧ください。感想などお待ちしております!




