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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第二章 忠犬の枷と自由の根

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幕間 三つ目の席

 センリ・ハーコートのアパートに漂う朝の空気は、コーヒーの香りと微かな魔力の残滓が混ざり合っていた。

 食卓には、いつものように三人が座っている。センリ、ウルリカ、そしてアレクセイだ。

 朝食を食べ終え、食器を片付けている最中、センリはシンクに並んだ器を見てふと手を止めた。

 見慣れた青い陶器のマグカップ。それはセンリのものだ。

 その隣には、少し大ぶりな赤いマグカップ。よく入り浸るウルリカが勝手に置いていったものだ。

 そして――その横にポツンと置かれているのは、何の変哲もない、ただの透明なガラスのコップだった。


「……アレクセイ」

「ん? 何、センリ。結界の微調整ならさっき終わらせたけど」


 ソファの上で、自分の黒いローブの裾を所在なげにいじっていたアレクセイが顔を上げる。

 センリは少し考える素振りを見せた後、リビングの棚から薄い茶封筒を取り出し、アレクセイに向かって軽く投げた。


「わっ」


 アレクセイが慌てて両手でキャッチする。

 中には、数枚の紙幣が入っていた。


「これ、お金……だよね」

「そう。アレクセイ、この間俺に預けただろ。……これでさ。自分のマグカップを買ってきなよ。ずっと俺たちの予備のグラスを使わせてるのも悪いし」

「僕の、マグカップ」

「そう。商店街の角にある雑貨屋なら、色々と置いてあるはずだ。支払い方は前に教えた通り。いいかい? 魔力で店員を誤魔化したり、空間転移で商品を勝手に持ち出したりするのは絶対禁止だからね」


 センリが念を押すと、アレクセイは少し緊張した面持ちで、こくりと頷いた。


「わかった。等価交換の法則だね。行ってくる」


 彼が真剣な顔で玄関を出て行くのを見送った後、センリはふう、と息を吐いた。


「……おい、センリ」


 それまで黙って新聞を読んでいたウルリカが、ジロリと彼を睨みつける。


「なんだい、ウルリカ」

「あいつ、一人で買い物なんてできるのか? この前は信号機の光の点滅を初歩的な幻惑魔法だと勘違いして、交差点のど真ん中で解析を始めようとしたんだぞ」

「だからこその練習だよ。……まあ、俺もかなり心配だけどね」


 センリはハンガーにかかっていた薄手のコートを手に取り、悪戯っぽく笑った。


「というわけで、ちょっと散歩に行かない? 天気がいいし」

「……保護者か」


 呆れ果てたようにため息をつきながらも、ウルリカは愛用のトレンチコートを羽織り、迷わずセンリの後を追った。


***


 商店街は、休日の穏やかな活気に満ちていた。

 少し離れた電柱の陰から、センリとウルリカは息を潜めて前方を窺っている。


「あっ、おい。あいつ、入り口で立ち止まったぞ」

「シーッ、声が大きいよウルリカ。……ああ、自動ドアか」


 雑貨屋のガラス張りの入り口前で、アレクセイは硬直していた。

 人が近づくと勝手に開くガラス扉。彼はそれをじっと見つめ、何かを警戒するように一歩下がる。


「微弱な波長を感じる……いや、何のセンサーだろう。空間を捻じ曲げるトラップじゃないよね……?」


 ブツブツと呟きながら、アレクセイは恐る恐る手を伸ばし、パッと引っ込める。扉が開く。閉まる。開く。閉まる。


「……何回ドアを開け閉めしてるんだ。不審者すぎるだろう」


 ウルリカがボソリと言うと、それが聞こえたかのようにアレクセイは意を決して店へと足を踏み入れた。


「センリ、あいつ陳列棚のグラスに魔力流して強度確かめようとしてないか? 店ごと吹き飛ぶぞ」

「落ち着いてウルリカ」


 店内には、色とりどりの日用品が所狭しと並んでいる。

 アレクセイは食器コーナーに辿り着くと、棚に並んだ無数のマグカップを前に、真剣な眼差しで腕を組んだ。


(どれがいいんだろう……。魔力伝導率が高そうなのはこれだけど、重いな。こっちは軽いけど、熱に弱そう……)


 ひとつずつ手にとって品定めをしていた彼の目に、ふとあるものが留まった。

 それは、温かみのある深緑色のマグカップだった。


(センリの青、ウルリカの赤……)


 アレクセイの脳裏に、アパートの食卓の風景が浮かぶ。

 あの並びに、この緑色を置いたなら。

 きっと、しっくりくる。


「……これだ」


 アレクセイは宝物でも見つけたかのように、その深緑のマグカップを両手で包み込んだ。

 底に貼られた小さな値札の数字を確認し、しっかりとした足取りでレジへと向かう。


「いらっしゃいませ!」


 エプロン姿の店員が明るい声で迎える。

 アレクセイは緊張で少し指先を震わせながら、カップをレジカウンターに置いた。

 ピッ、という電子音と共に、レジの小さな画面に数字が表示される。

 アレクセイはポケットから支給された封筒を取り出し、真新しい紙幣を一枚抜き出した。センリに教わった通り、一番小さな額面の札だ。

 それを、祈るような手つきで青いトレーに置く。


「はい、お預かりいたします」


 店員が手際よく札をしまい、チャリンと数枚の硬貨を返してきた。

 どうやら、等価交換の法則は無事に成立したらしい。アレクセイはほっと息を吐いた。


「ご自宅用ですか? それともプレゼント用にお包みしましょうか」


 店員の何気ない問いかけに、アレクセイは目を丸くした。

 一瞬、自分がどこに帰るべきなのか、その言葉の意味を咀嚼するように黙り込む。

 そして、少し照れくさそうに、けれどはっきりと頷いた。


「……僕たちの、家用です」


***


 ガチャリとアパートのドアが開く。


「ただいま」

「おかえり、アレクセイ。早かったね」


 リビングでは、センリが何食わぬ顔でコーヒーを淹れており、ウルリカがソファで雑誌をめくっていた。先回りして息を切らしながら帰ってきたことなど、微塵も感じさせない。


「うん、無事に買えたよ。等価交換、ちゃんとできた」


 アレクセイは誇らしげに紙袋を掲げ、キッチンカウンターへ向かった。

 袋から取り出したのは、深緑色のマグカップ。

 彼はそれを、センリの青いカップと、ウルリカの赤いカップの隣に、そっと並べて置いた。

 青、赤、そして緑。

 三つの色が、そこにあるのが当たり前のように並んでいる。


「どうかな。……変じゃない?」


 少し不安そうに振り返るアレクセイに、センリは優しく微笑んだ。


「ああ。すごく似合ってるよ。君の瞳と同じ色だね」

「悪くない」


 ウルリカも短く同意し、口元をわずかに緩める。

 並んだ三つのカップを見て、アレクセイはふわりと無邪気な笑顔を見せた。

 森で孤独に生きていた青年が、本当の意味で人間らしい居場所を手に入れた瞬間だった。


本日と明日は2話連続更新になります。

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