第十九話 消えない光
季節が一つ、過ぎようとしていた。
郊外にある、長期療養型の専門病院。その広大な庭園に、穏やかな午後の陽射しが降り注いでいる。
生垣の陰に停めた車の中から、センリたちはその光景を見ていた。
庭園のベンチに、一人の女性が座っている。
シルヴィア・レインだ。
彼女の表情は、かつて屋敷で見た鬼気迫る絶望とは無縁の、穏やかなものだった。膝の上には楽譜が広げられている。
彼女は、右手の人差し指を、ゆっくりと動かした。
震える指先。何もない空中で、見えない鍵盤を叩く動作。
それは、あまりにも緩慢で、不格好だった。
「……遅いね」
後部座席のアレクセイが、ポツリと漏らした。
「魔法なら一瞬なのに。指の動きを取り戻すのに、彼女はこれから何年もかけなきゃいけない。……完全に治る保証だってない」
「ああ、そうだ」
センリはハンドルに肘をつき、遠くの彼女を見つめた。
ユースティティアの天秤が用意した支援金によって、彼女は世界最高峰の医療チームによる手術を受けた。だが、失われた機能が完全に戻るかは未知数だ。
リハビリは過酷を極めるだろう。再発の恐怖とも戦わなければならない。
それは、プロメテウス・テックが提示した奇跡に比べれば、あまりに泥臭く、非効率な道だ。
だが。
不自由に動く指を見つめるシルヴィアの瞳には、確かな光が宿っていた。
誰かに与えられたものではない。自分自身の意志で灯した、小さくとも消えることのない希望の火。
彼女は笑っていた。上手く動かない指を愛おしむように、何度も、何度も旋律を確かめている。
「……でも、消えない」
アレクセイが、窓ガラスにへばりつくようにして言った。
「彼女が自分で積み上げたものは、誰にも奪えないんだね」
「そういうことだ」
ウルリカが、アレクセイの頭を乱暴に、けれどどこか優しく撫でた。
「悪魔に魂を売れば、楽にはなれただろうさ。だが、彼女は人間として戦うことを選んだ。……私たちが選ばせたんだとしても、今の顔を見れば、間違いじゃなかったと思える」
シルヴィアがふと顔を上げ、風の吹いてきた方角――センリたちの車がある方を見た気がした。
もちろん、彼女には見えているはずもない。
彼女の記憶の中で、センリたちは親切な財団の職員に過ぎないのだから。
「……行こうか」
センリはエンジンをかけた。
プロメテウス・テックの野望は挫いた。だが、彼らが撒いた技術の種が完全に消えたわけではない。エレナ・ワイズマンは、今もどこかで研究を進め……ノア・フェルマーは、そのための手段を用意しようと虎視眈々と機会を狙っているだろう。
世界の均衡を保つ仕事に、終わりはない。
「センリ」
「ん?」
「……僕、少しだけ分かった気がする」
アレクセイが、遠ざかる病院を見つめながら言った。
「魔法で何でもできることが、幸せなわけじゃないんだね。……不便で、痛くて、面倒くさくても、逃げちゃいけないんだ」
センリはバックミラー越しに、少しだけ大人びた顔をした仲間を見て、口元を緩めた。
「ああ。生きるってのは、そういう厄介なものなんだよ」
車が走り出す。
窓から流れ込む風は、少しだけ秋の匂いがした。
本日は2話投稿です。




