第十八話 天秤の裁定
「チッ、軽すぎる! 爪楊枝かこれは!」
ウルリカが悪態をつきながら切っ先を返した。
彼女の手にあるのは護身用の短剣だ。普段、身の丈ほどある大剣を振るう彼女にとって、その刃はあまりに頼りなく、そして短い。
一方で、会場はパニックに陥っていた。
悲鳴と怒号。先ほどまで優雅に談笑していた紳士淑女たちが、我先にと出口へ殺到する。
車椅子のエドワードが、逃げ惑う人波に押されてバランスを崩しかけていた。
「ひ、ひぃ……! 怪物が!」
彼は恐怖に引きつった顔で、アレクセイを指差して叫んだ。
ついさっきまで、孫と遊びたいと微笑みかけてくれた老人だ。その彼が今、アレクセイをこの世で最も忌まわしいものを見る目で見ている。
アレクセイが息を呑み、手を伸ばしかけて――力なく下ろした。今の自分は、彼らにとって悪夢そのものだ。
「お客様を避難させろ! 我々が盾になる!」
警備会社の強化兵たちが叫び、一糸乱れぬ連携でウルリカを壁際へと追い詰めていく。彼らの目的は、スポンサーたちを悪魔から遠ざけることだ。
彼らの動きは研ぎ澄まされており、何より重い。
「社長の夢を汚すな!」
兵士の一人が、人間離れした跳躍でウルリカの頭上を取る。
殺すわけにはいかない。だが、この数と速度を、手加減しながら制圧するのは至難の業だ。
そのうえ下手に暴れれば、逃げ遅れているスポンサーたちに流れ弾が飛びかねない。ウルリカは舌打ちし、あえて目立つように大仰に動いた。
「……ジリ貧だな」
後方で戦況を見ていたセンリが、冷静に判断を下した。
「アレクセイ。彼女に重さを貸してやれ。殺さない程度の、とびきりのやつを」
ウルリカの戦闘能力でも短剣での戦闘はもう限界だ。スポンサーが全員会場を出たことを確認し、センリはネクタイを緩めた。首筋にある天秤の紋章が赤く明滅する。
「承認コード『リブラ』。――限定解除、第二種。物理干渉を許可する」
「……分かった」
アレクセイが指を振る。
その指先から、目に見えない風の塊が、矢のようにウルリカへと飛んだ。
「ウルリカ、そのまま振って!」
「加減はできてるんだろうな!」
ウルリカは叫びながらも、反射的に短剣を横薙ぎにした。
本来なら、敵の鼻先数センチを空振るだけの間合い。
だが。
巨大な質量が空気を叩き潰すような、重低音が響き渡った。
短剣の延長線上に圧縮された気圧の塊が、見えざる大剣となって顕現したのだ。
襲いかかっていた兵士たちが、ボウリングのピンのようにまとめて吹き飛んだ。壁に叩きつけられ、強化された肉体が軋みを上げる。
「……なるほど」
ウルリカは短剣を見つめ、ニヤリと口角を上げた。
「悪くない重さだ」
彼女は再び剣を振るう。
そこにあるのは刃ではない。空気のハンマーだ。
斬るのではなく、叩き伏せる。ウルリカの最も得意とする大剣の間合いが、この狭いホールを支配した。
次々と壁に張り付けられ、沈黙していく英雄志願者たち。
数分と経たずに、立っているのはセンリたち三人だけになった。
センリは、倒れた兵士たちを一瞥し、ステージへと歩み寄った。
そこには、まだ二人の男女が立っている。
エレナ・ワイズマンは、逃げる素振りすら見せていなかった。彼女は手元の端末を操作し、今の戦闘データを食い入るように見つめている。
「人類の進化が、魔術に汚されている……私たちが、技術で辿り着かないといけないのに」
「君の研究には意味と理想があるんだな、エレナ」
センリは壇上に上がり、彼女と対峙した。
「だが、売り方が間違っている。未完成品を完成と偽って市場に流し、他人の命を実験の薪にするのは科学への冒涜だ。……人間への冒涜でもある」
「彼らは望んで買ったんだ!」
ノアがエレナを庇うように前に立ち、血を吐くような声を上げた。
そこに先ほどまでの洗練されたカリスマの面影はない。
「見ただろう! 彼らは自分の人生を賭けてでも、力を欲した! エドワードだってそうだ、孫と遊べるなら寿命なんていらないと言ったのは彼自身だ! ……全てを投げ打つ覚悟があったんだ!」
「ああ。だが君たちは、賭け金の正確な額を明示しなかった」
センリは静かに告げる。
「それは商売じゃない。合意を装った詐欺だ」
センリはノアが持っていた制御端末を取り上げると、迷わずそれを床に叩きつけ、革靴の踵で粉砕した。
さらに、演台にあるメインコンソールへ歩み寄る。
そこには、プロメテウス・テックの顧客データと、エレナの研究データが収められている。
センリはキーボードを叩き、顧客リスト、銀行口座、裏社会の流通ルート――ノアが築き上げたビジネスの全てを消去していく。
「や、やめろ……!」
ノアが顔面蒼白で叫ぶ。ウルリカが構えていなければ、今にも飛びかかってきそうなほど必死な形相だった。
「金が……スポンサーが消えたら、加速器も回せない! サーバーの維持費はどうする! 研究が止まる!」
「……」
センリの手が、最後のフォルダ――『研究中枢』――の上で止まる。
エレナが初めて端末から顔を上げ、息を呑んだ。
これを消せば、プロメテウス・テックの技術は数十年後退する。
だが、センリはそのフォルダには触れず、エンターキーを押した。
消えたのは、金と顧客だけ。研究データは残された。
「……消さないの?」
エレナが怪訝そうに問う。その冷たい瞳の奥に、初めて人間らしい動揺が走っていた。
センリはコンソールから手を離し、エレナを見た。
「君の研究は続けていい」
それだけ言って、センリは背を向けた。エレナは何か言おうとして、口を閉じた。
エレナの人生から研究を奪う資格はない。ここまで己の肉体を削って積み上げた彼女の執念を、全て無に帰す気にはなれなかった。
「これからはユースティティアの天秤が監査を行う。未完成品が世に出ることは二度とない」
「……そんな」
ノアが膝から崩れ落ちた。
「それではエレナの才能が、人類の進化が、数十年遅れてしまう……! エレナ、エレナ! その間に君の体も……!」
金が惜しいのではない。彼の絶望は、崇拝するエレナが引きずり下ろされたことへ、そして彼女を救うための時間が失われたことへの嘆きだった。
エレナは、泣き崩れるノアを見つめ――彼の肩にそっと触れた。
「……泣かないで、ノア。厳しいパトロンがついたけれど、ゼロに戻ったわけじゃないわ」
彼女はセンリに、皮肉とも敬意とも取れる視線を送った。
彼女の手元には研究の火が残った。だが、それを燃え上がらせるための薪はもうくべられない。
会場では、気絶していた兵士たちが呻き声を上げ始めていた。
夢から覚めた彼らは、強化された肉体がもたらす激痛と、夢の終わりの現実に直面することになるだろう。
「行こう」
センリは背を向けた。
その背中は、勝者と呼ぶにはあまりに苦々しかった。
「……僕たちが、壊したんだね」
アレクセイが、壊れはてた会場の残骸を見つめて呟く。
老人と、孫のささやかな夢。それを守るはずだったシステム。すべてが瓦解した。
ウルリカは短剣を鞘に納め、乱れた髪をかき上げた。
「いいや。彼らが進むはずだった崖の手前で止めただけだ」
ぶっきらぼうな彼女の言葉だけが、静まり返ったホールに響いた。
センリたちは歩き出す。
正義の天秤は、今日もまた、誰かの希望を削り取ることで水平を保っている。




