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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第二章 忠犬の枷と自由の根

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第十七話 新世界への福音

 音が、耳からではなく、脳髄から直接響いた。


『ようこそ。進化の特等席へ』


 会場の空気が一変する。

 マイクを通した震える空気の波ではない。骨伝導か、あるいはもっと直接的な神経への干渉か。頭蓋骨の内側を撫でられるような、甘く、冷ややかな声だった。

 スポットライトがステージを切り裂く。

 そこに立っていたのは二人の男女だった。

 一人は、完璧な仕立てのスーツを着こなした男、ノア・フェルマー。その表情は聖職者のように穏やかで、同時に革命家のような情熱を湛えている。

 もう一人は、白衣を纏った女、エレナ・ワイズマン。彼女は感情の読めない瞳で、会場に集まった選ばれし者たちを見下ろしていた。

 しかし、ノアが演台に立った瞬間だけ、その目に微かな安堵が過り――すぐに消えた。本人も気づいていないような、ほんの一瞬の揺らぎだった。


『私の声が聞こえていますか? これは我々が開発した聴覚補助デバイスの応用です。鼓膜が破れていようと、聴神経が死滅していようと、脳が生きている限り私の言葉は届く』


 エレナが淡々と語りかける。その声はどこまでもクリアで無機質だ。


『不公平だとは思いませんか。この世には、生まれながらにして奇跡を行使できる魔術師という特権階級が存在する。魔術師の遺したアーティファクトを利用する貴族がいる』


 彼女の視線が、ふと虚空を睨んだ。その奥に、抑えきれない怨嗟の炎が揺らぐのを、センリは見逃さなかった。


『彼らは努力も過程も必要としない。ただ血筋という宝くじに当たっただけ。それだけで物理法則を無視して空を飛び、傷を癒やす。……どれほど手を伸ばしても届かない、理不尽な壁。それは人類に対する冒涜です。私は証明したい。人間は、生まれ持った限界という理不尽な壁を、技術によって超えられるのだと』


 彼女は白衣のポケットから、小さなチップを取り出した。チップを掲げた彼女の指先には、生々しい火傷の痕と、それを補うような極小の機械部品が埋め込まれている。それは彼女自身が、技術によって限界を繋ぎ止めている証左だった。


『過程の圧縮。それが我々の提供する技術です。五年かかる肉体の鍛錬を、十年かかるピアノの練習を、二十年かかるリハビリを、ショートカットする。それは怠惰ではありません。人生という限られたリソースの最適化であり、進化です』


 会場から感嘆の溜息が漏れる。

 センリもまた、その論理の美しさに舌を巻いた。

 正論だ。魔術師の理不尽さを誰よりも知るセンリにとって、彼女の言葉が痛いほどに真理を突いているのが分かった。だが、その正しさはどこか決定的に欠落している。


『皆様は選ばれたのです!』


 エレナの冷徹な理論を、ノアが熱狂的な扇動へと変換する。彼は隣に立つエレナの細い背中を、まるで壊れ物を慈しむような視線で一瞥し――そして、会場全体を見渡しながら語り始めた。


『誰よりも早く、彼女の導き出した人類の到達点に触れる権利を得たのです。エドワード様、才能あるお孫さんとのチェス、楽しみですね。あなたの脳と指先を直結させれば、往年の名棋士のような思考速度と精密動作が可能になる』


 名前を呼ばれた老人が、涙を流して頷く。


『ロダン様。あなたの部下が痛みも恐怖も感じない最強の盾となれば、依頼人はどれほど安心するか。……プロメテウス・テックなら、叶えられます。我々は、あなた方の人生の続きを用意しました』


 救世主のようなノアの語り口に、会場の熱気が最高潮に達する。

 だが、センリの背筋には冷たい汗が伝っていた。

 ノアは、リスクの説明をしていない。

 いや、違う。センリの脳裏に、あのホテルのベッドで枯れ木のように死んでいた男の姿がよぎる。魂ごと燃え尽きていた、あの老人。

 ――彼らは、知っているのだ。

 この奇跡の燃料が、自分自身の魂であることを。それでも、ノアの言葉は代償を払ってでも叶えたい夢を巧みに刺激する。

 孫と遊びたい。最強の警備会社を作りたい。その願いの前では、破滅さえも必要経費として処理されてしまう。

 これは詐欺ではない。合意の上での心中だ。だからこそ、タチが悪い。

 その時だった。

 手元のタブレットを見ていたエレナが、ぴくりと眉をひそめた。


『……ノア。会場のノイズが異常値を示しているわ』


 冷ややかに告げるその声が、微かに震えていた。エレナの視線は、タブレットに表示された規格外の数値……自分たちが人生を賭けても届かない、圧倒的な才能の質量に釘付けになっている。

 ノアは演説を中断し、わざとらしく残念そうに首を振った。だがその口元には、エレナの技術が本物の魔術師を暴き出したことへの歓喜が張り付いていた。


『おや……どうやら、進歩を恐れる古い時代の遺物が紛れ込んでいるようだ』


 会場がざわめく。

 ノアの視線が、正確にセンリたちの方角を射抜いた。


『歓迎しよう。――魔術による奇跡の代行者たちよ』


 背後の巨大スクリーンに、会場の映像が映し出される。

 サーモグラフィーのような映像だ。だが、そこに映っていたのは体温ではない。

 シルヴィア・レインの姿をしていたはずのアレクセイが、そこではどす黒い魔力の渦として表示されていた。

 科学による、魔術の解剖。

 変装が解けたわけではない。だが、その正体は白日の下に晒された。


「……あ」


 アレクセイが小さく声を上げる。

 周囲の視線が、畏敬から疑念へ、そして敵意へと変わるのを肌で感じたのだろう。動揺から彼の変身が崩れ、シルヴィアの合間にアレクセイが顔を出す。


「……ごめん、センリ。見つかった」

「偽物だ!」


 誰かが叫んだ。

 先ほどまでシルヴィアの手を握っていたエドワードだった。彼は裏切られた悲しみと怒りで顔を歪めている。


「シルヴィア君をどこへやった! お前たちは、また私の希望を奪うのか!」

「排除しろ! この技術を守るんだ!」


 ロダンと呼ばれた警備会社の社長が吠えた。

 それに応えるように、会場の四方から黒服の男たちが現れる。

 彼らは一様に、鍛え上げられた肉体を持つ精悍な男たちだった。その動きはアスリートのように洗練されている。

 だが、センリはその目に宿る光を見て、背筋が凍る思いがした。


「……あれは、やらされてるんじゃないな」


 ウルリカがスカートの裾をまくり上げ、短剣を抜く。

 男たちの瞳には、恐怖も迷いもない。あるのは、自分たちが最強の盾であるという強烈な自負と、その力をくれたプロメテウス・テックへの狂信的な感謝だ。

 彼らは知っているのだ。自分たちの筋肉が人工繊維で補強され、神経伝達速度が常人の数倍に加速されていることを。

 そして、それを誇りに思っている。


「邪魔をするな! 我々の力が、クライアントを完璧に守るんだ!」


 先頭の男が叫び、床を蹴った。

 石造りの床が蜘蛛の巣状に砕ける。人間離れした踏み込み。

 彼らは怪物ではない。夢を叶えるために、人間であることを辞める覚悟を決めた英雄志願者たちだ。

 善意ゆえの殺意。誇りゆえの暴力。

 それが、幾重もの包囲網となって三人に迫っていた。


「……センリ、どうする?」

「……最悪だ」


 センリは唇を噛んだ。

 目の前にいるのは、操り人形ではない。自分の意志でここに立っている人間たちだ。

 だが、その身体能力は、確実に彼らの寿命を削っている。


「強行突破だ。――ウルリカ、殺すなよ。彼らはまだ人間だ」

「無茶を言う!」


 ウルリカが叫ぶと同時に、英雄を夢見る男たちが、弾丸のような速度で飛びかかってきた。


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