第十六話 鏡の中の異邦人
メキ、メキメキ、と。
湿った薪が爆ぜるような、あるいは生木を無理やりねじ切るような音が、狭いリビングに響いていた。
「……気持ち悪い音をさせるなよ」
「ごめん、センリ。骨格をいじる音はどうしても消せなくて」
ソファに座ったアレクセイが、申し訳なさそうに言った。
だが、その声は既に彼のものではない。透き通るようなソプラノ。つい数時間前、絶望の淵で泣き叫んでいたシルヴィア・レインの声だ。
彼――いや、彼女は鏡を覗き込みながら、自身のアゴのラインに指を滑らせる。粘土細工をこねるような手つきで撫でるたび、皮膚の下で骨が移動し、筋肉が収縮し、顔立ちが変わっていく。
ガラス細工のように繊細だった青年の顔が憂いを帯びた美女のそれへと塗り替えられていく様は、一種のホラーだった。
「……嫌な感じだ」
完全にシルヴィアの姿になったアレクセイが、自分の頬に触れながら呟く。
「自分以外の誰かになるのは。その人の人生の重さを、断りもなく盗むような気がして」
「実際、盗人だよ。俺たちはこれから、彼女の名を騙ってペテンを働くんだ」
センリは吐き捨てるように言い、鏡に映るシルヴィアを睨んだ。
完璧だ。声紋、骨格、纏う雰囲気まで、本物と寸分違わない。
シルヴィア・レインが二十年以上かけて積み上げてきたアイデンティティ。血の滲むようなピアノのレッスンも、苦悩も、栄光も、すべてが魔法という暴力によって数分で模造された。
これだから魔法は嫌いなんだ、とセンリは思う。過程がない。代償がない。ただ結果だけを理不尽に掠め取る。
「次は俺だ。……あまり変な顔にしないでくれよ?」
「分かってる。センリは信頼できそうな、やり手のマネージャーだね」
アレクセイがセンリの顔にかざした指先を振る。
一瞬、顔の表面が熱湯をかけられたように熱くなり――次の瞬間には、鏡の中に、口髭を蓄えた初老の男が立っていた。
センリは自分の顔をぺたぺたと触る。感触は本物だ。
「鏡を見るのが怖くなるな。……嘘を吐くには最高の仮面だけど」
「私は髪だけでいい。顔までいじられたら、剣の間合いが狂う」
背後で不機嫌な声がした。
振り返ると、そこには窮屈そうなスーツに身を包んだ、金髪の長身女性が立っていた。ウルリカだ。
彼女のトレードマークである銀髪は、認識阻害の魔法でブロンドに変えられている。着慣れないスーツに落ち着かない様子で、太腿のあたりをごそごそと触っていた。
「……まさかスカートの下に武器でも隠しているのか?」
「当たり前だ。丸腰で敵地に飛び込む馬鹿がどこにいる」
どうやら彼女はシルヴィアのボディーガードという役回りを、物理的な意味で全うするつもりらしい。
「よし。役者は揃った」
センリは髭の生えた口元を歪め、マネージャーの顔を作った。
「行こうか。奇跡のバーゲンセールへ」
***
プロメテウス・テックの主催する秘密集会の会場は、都会の喧騒から切り離された、歴史ある洋館だった。
石造りの重厚な門をくぐると、手入れの行き届いた庭園が広がり、その奥で館が柔らかい光を放っている。
もっと禍々しい場所――例えば地下の実験施設や、廃墟のような場所を想像していたセンリは、少し拍子抜けした。
流れているのはバッハ。控えめな談笑に、グラスが触れ合う音。
そこにいるのは、裏社会の人間ではない。著名な資産家、引退した政治家、文化人。誰もが知る名士たちだ。
だが、彼らには共通点があった。
車椅子に乗っている者。酸素ボンベを引いている者。あるいは、付き添いに支えられなければ歩けない者。
ここは、金や権力ですべてを手に入れた人々が、最後にすがりつく場所なのだ。
「……ようこそ、シルヴィア様」
受付の男が、アレクセイの差し出した招待状を確認し、恭しく頭を下げた。
「お待ちしておりました。どうぞ、奥のサロンへ」
会場に入ると、温かい空気に包まれた。
アレクセイは少し緊張した面持ちで、慣れないヒールで床を踏みしめている。センリとウルリカは、その左右を固めるように歩いた。
その時だった。
「おお……! シルヴィア君じゃないか!」
上品な白髪の老紳士が、車椅子を進めて近づいてきた。
アレクセイがびくりと肩を震わせる。
「あ……」
「私だ、エドワードだ。以前スポンサーをしていた」
エドワードと呼ばれた老人は、涙ぐんだ瞳でアレクセイの手を取った。
アレクセイは助けを求めるようにセンリを見たが、センリはマネージャーとして静かに控えることしかできない。
「久しぶりだね。君が病気で引退したと聞いて、どれほど心を痛めたか……。でも、もう大丈夫だ」
エドワードは、アレクセイの手を――シルヴィアの手を、両手で包み込んだ。
その手は温かく、少し震えていた。
「ここなら、きっと君の指も治してくれる。プロメテウス・テックは本物だよ。私のような老い先短い人間にも、希望をくれたんだ」
「希望……ですか?」
アレクセイが、シルヴィアの声で問い返す。
「ああ。来週、孫の誕生日なんだ。でも、この体ではチェスの駒ひとつ動かすのすら重労働で……だが、彼らの技術があれば、あの子と対等に遊んでやれると」
老人は少年のように無邪気に笑った。
「ただ、孫とチェスがしたい。私の望みはそれだけなんだよ。そのためなら、財産の半分を投げうったって惜しくはない」
アレクセイが息を呑むのが分かった。
彼の手が、老人の温もりから逃れるように微かに引かれる。
「……よかったですね」
絞り出すような声だった。
「君も、きっと治る。またあの素晴らしいピアノを聞かせておくれ」
老人は満足げに頷くと、付き人に車椅子を押されて去っていった。
残されたのは、煌びやかなシャンデリアの下で立ち尽くす偽物の三人だけだ。
「……センリ」
アレクセイが、泣きそうな顔で振り返った。シルヴィアの美しい顔が歪んでいる。
「僕、なんだか苦しいよ……」
彼は自分の手を握りしめた。老人の体温が残っているのだろう。
「あのおじいさんは、ただお孫さんと遊びたいだけなんだ。悪い人じゃない」
センリは答えに詰まった。
タブレットに届いた組織からの制圧命令書が鉛のように重く感じる。
ここには、悪意がない。
怪物も、悪党もいない。いるのは、ただ切実に『生きたい』『取り戻したい』と願う、善良な弱者たちだ。
寿命の前借り。魂の燃焼。それが破滅への道だと知っていても、彼らにとっては、それが唯一の光なのだ。
「……迷うな」
低い声がした。ウルリカだ。
彼女は周囲を警戒しながら、けれどその瞳は珍しく揺れていた。
「斬りにくいな。敵が怪物なら迷いはないが……守るべき市民が、自ら破滅を望んでいる時は」
「……ああ。全くだ」
センリは溜息をつき、シャンパングラスを手に取った。正義の天秤。両皿を釣り合わせるのが仕事。
だが、今夜の天秤は、どちらに傾けば正解なのか。
老人のささやかな願いを守ることは、世界の均衡を崩すことなのか。
その時、会場の照明がふっと落ちた。
ざわめきが止む。
暗闇の中、正面のステージに一本のスポットライトが降り注いだ。
「皆様。人類の夜明けにようこそ」
よく通る、自信に満ちた男の声。
そして、その隣に立つ、白衣の女性のスラリとしたシルエット。
福音の仮面を被った、新しい時代の支配者たちが、そこに立っていた。




