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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第二章 忠犬の枷と自由の根

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第十五話 砕ける夢の音

「……狭い」


 センリは、自身の借りている1LDKのアパートの玄関で、心底うんざりした声を上げた。

 視線の先には、リビングのソファに小さくなって座る魔術師、アレクセイの姿がある。彼は膝を抱え、借りてきた猫のように――いや、叱られた大型犬のように縮こまっていた。

 

「悪かったよ、センリ。……僕はただ、宿舎の空気が乾いていて、かわいそうだったから」

「だからって、部屋の中に亜熱帯の生態系を再現する馬鹿がいるか!」


 怒鳴り声が飛ぶ。ウルリカがデリの袋を持って顔を出した。

 事の発端は数時間前だ。ユースティティアの天秤が所有する男性用宿舎の一室から、「植物が溢れ出している」という通報が入った。

 現場に駆けつけたセンリたちが目にしたのは、廊下まで侵食しかけている植物と、その中心で「呼吸がしやすくなったね」と満足げに微笑むアレクセイの姿だった。

 彼が良かれと思って行った、純粋な善意による環境改善である。それが一番タチが悪かった。植物の成長を早めるだけの第三種魔法でこれほどの被害が出る。魔術師が社会に馴染むのは、まだまだ難しそうだ。


「お前の部屋の修繕が終わるまで、センリの家に居候させてもらうんだ。感謝しろ」

「うん……ごめんなさい。センリ、迷惑だよね」

「迷惑っていうか……まあ、男二人だとむさ苦しいけど。追い出すわけにもいかないし」


 センリはネクタイを緩めながら溜息をついた。

 宿舎を追い出されたアレクセイを野放しにするわけにはいかない。ウルリカは女性用宿舎のため同居は不可能。消去法で、このアパートがアレクセイの仮住まいとなったわけだ。


「はあ……。とりあえず、壁にキノコを生やしたりしないでくれよ。敷金が戻らなくなる」

「分かったよ」


 その時、センリの懐で通信機が震えた。

 ディスプレイに表示された緊急の文字を見て、センリの纏う空気が一瞬で仕事用に切り替わる。


「……はい、こちら第三班センリ・ハーコート。――場所は? ……了解。すぐに向かう」


 通話を切ると、センリはソファの上の居候と、居候の口にサンドイッチを押しつける相棒を振り返った。


「休憩終了だ。……死体が出たよ。それも、とびきり奇妙なやつがね」


 ***


 現場は高級ホテルの一室だった。

 ベッドの上に横たわっていたのは、人間と言うよりは枯れ木に近い物体だった。皮膚は紙のように薄く張り付き、眼窩は深く窪んでいる。

 見た目では分からなかったが、身分証明書の顔には見覚えがあった。つい先日センリたちがパーティーで会った、不自然に若々しい老人だ。アレクセイが空っぽだと表現した男。センリが過剰なアンチ・エイジングの結果として見過ごした老人。その末路が、ここにある。


 「……寿命の前借りだ」


 検分を終えたアレクセイが、静かに呟いた。

 彼は死体に触れることなく、その周囲に漂う残滓を読み取っているようだった。


「魂ごと燃やして、時間を騙した代償だよ。酷いな、骨の髄まで空っぽだ。魔術の臭いはしないけど……」


 センリは死体の所持品から、一枚の黒いカードを見つけ出した。以前、ウィンダムが持っていた顧客リストにあった紋章と同じ――プロメテウス・テックのものだ。

 彼らは奇跡の売り先を選ばない。この老人も、金で買える奇跡に目が眩んだのだろう。

 センリはタブレットを取り出し、素早く情報を検索した。この男が最後に接触していた人物、そしてプロメテウス・テックが次に狙いを定めている、スポンサー候補。


「こいつら、スポンサーにはどれも綺麗な顔を選んでるな。よっぽど救世主面がしたいらしい。……次のターゲットは、恐らくシルヴィア・レイン。天才ピアニストだ」


 画面には、コンクールで優勝した際の華やかな写真と、その横に『原因不明の麻痺により活動休止』という見出しが躍っていた。


 ***


 シルヴィアの屋敷へ向かう社用車の中、重苦しい沈黙が流れていた。

 ハンドルを握るウルリカが、バックミラー越しに後部座席のアレクセイを見る。


「アレクセイ。もし交渉が決裂した場合……シルヴィアの記憶を消すことはできるのか?」


 アレクセイは困ったように眉を下げ、首を横に振った。


「……難しいよ。記憶は積み木みたいに繋がってるんだ。一つ嘘を混ぜると、全体のバランスが崩れて違和感として残る。そこから精神が壊れてしまうかもしれない」

「以前、私にやったようにはいかないのか?」


 ウルリカの問いに、アレクセイの顔が強張る。そして、彼はゆっくりと首を振った。


「あれは……事象編纂といって、星の巡りと希少な触媒、そして僕の寿命を削る儀式魔法だ。再現できるものじゃない。それに……」


 彼は膝の上で拳を握りしめた。


「心がしっかりしている人間に嘘の記憶を植え付けても、脳が拒絶する」


 つまり、穏便な解決策はないということだ。相手が騒ぎ立てれば、天秤にとって致命的になる。だが、口封じのために廃人にするわけにもいかない。


「……なら、綻びのないストーリーは俺が作る」


 助手席で資料を読んでいたセンリが、顔を上げずに言った。


「動揺させるのも俺がやる。アレクセイは、そこに脚本を焼き付けるだけでいい。彼女が信じたくなるような、完璧で優しい嘘の話を用意する」

「センリ、お前……」


 ウルリカが眉をひそめる。


「アレクセイを、便利な道具にする気か?」

「逆だよ、ウルリカ」


 センリは窓の外へ視線を投げた。流れる街並みが、彼の瞳に冷たく映り込む。


「アレクセイが奇跡の道具として世界に狩られないために、俺たちが隠すんだ」


 ***


  シルヴィア・レインの屋敷は、持ち主の心を反映するように暗く、静まり返っていた。

 広大なピアノ室の中央に、黒いグランドピアノが鎮座している。その前に座る女性はやつれ果てていたが、かつての美貌の面影を残していた。


「……お帰りください」


 シルヴィアはピアノに体を預けたまま、顔も上げずに言った。


「プロメテウス・テックの方でしょう? 招待状なら、もう受け取りました。必ず行きます」

「いいえ、我々はそれを止めに来たのです」


 センリが静かに告げる。


「あれは真っ当な技術ではない。あなたの命を燃料にする、悪魔の契約です」

「だから何!?」


 シルヴィアが叫び、鍵盤を叩いた。ガアン、と不協和音が響く。


「指が動くなら、悪魔に魂を売ったっていい! ピアノが弾けないなら、生きている意味なんてない! あなたたちに何が分かるの!」


 彼女の悲痛な叫びが、広い部屋に反響する。

 センリは一瞬だけ目を伏せ、そして覚悟を決めたようにアレクセイを見た。


「……アレクセイ。やるぞ」


 センリの首筋にある天秤の紋章が輝いた。


「承認コード『リブラ』。――限定解除、第二種」

「……うん」


 アレクセイがそっと手を伸ばす。

 その瞬間、部屋の空気が変わった。湿り気を帯びた森のような香りが漂い、目に見えない粒子がピアノ室を満たす。


 「え……?」


 シルヴィアが顔を上げた。

 彼女の強張っていた指先が、ふわりと軽くなった。動く。動かないはずの指が、意志に従って鍵盤の上を滑る。

 彼女は夢中で弾き始めた。ショパンの革命。かつて彼女が得意としていた曲だ。完璧な音色が、屋敷の中に響き渡る。


 「弾ける……! 弾けるわ! あなた、魔法使いなのね!?」


 曲が終わると同時に、シルヴィアはアレクセイにすがりついた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、懇願する。


 「お願い、治して! お金ならいくらでも払う! 何でもするわ!」


 アレクセイは困惑し、助けを求めるようにセンリを見た。

 センリは冷徹な表情で、シルヴィアの前に立ちはだかる。


「……治せません」

「どうして!? 今、できたじゃない!」

「治せば、あなたは説明のつかない奇跡のサンプルとして、一生モルモットになるからです」


 センリの言葉は、氷のように冷たかった。


「魔法という、過程のない結果は誰にも説明できない。世界中の機関があなたを解剖し、脳を調べ、二度とピアノに触れさせないでしょう。……我々は、あなたの人生を壊さないために、治さない」


 一瞬の沈黙。

 そして、シルヴィアの顔が絶望と怒りで歪んだ。


「……偽善者」

「シルヴィアさん」

「偽善者! あんたたちの方が悪魔よ! 治さないならなんで夢なんて見せたのよ!」


 彼女は招待状を強く握りしめた。


 「言いふらしてやる……! 魔術師がいるって、ユースティティアの天秤は奇跡を独占してるって、世界中に叫んでやる!」


 彼女の心が悲鳴をあげて砕け散った。ピアノを弾きたいという純粋な願いが、世界への憎悪に変わった瞬間だった。

 センリは悲しげに息を吐き、アレクセイに合図を送った。


 「今だ。カバーストーリーは、天秤による治療のための金銭支援」

「……ごめんね」


 アレクセイが、震える指先をシルヴィアの額に伸ばす。

 彼の緑色の瞳が、悲しげに揺れていた。


「君の絶望を、綺麗な思い出に書き換えてあげる」


 シルヴィアの瞳から光が消える。

 彼女の脳裏に、センリが作成した脚本が流し込まれていく。

 魔法使いなどいなかった。彼女は、親切な財団から高額な治療費の支援を受け、その代わりにプロメテウス・テックの招待状を譲ったのだ。

 矛盾する記憶は、アレクセイの魔力が優しく溶かし、繋ぎ合わせていく。シルヴィアの心が大きく揺さぶられ、砕けたからこそできる魔法。


 数分後。


 シルヴィアは穏やかな顔で、センリに招待状を手渡していた。


「ありがとう。この援助金があれば、最新の治療が受けられるわ。……本当に、感謝しています」


 彼女は深々と頭を下げた。その頬を、一筋の涙が伝う。


「……あれ? 私、どうして泣いているのかしら」


 彼女自身にも、その涙の理由は分からない。

 ただ、心の中に空いた大きな穴から、冷たい風が吹き抜けているような感覚だけがあった。

 屋敷を出た三人は、無言のまま車に向かった。夕闇が迫る空の下、アレクセイがぽつりと呟く。


「……僕は、ひどいことをした」


 二度とやらないと誓った、記憶を書き換える理不尽な暴力。それを振るってしまった事実に、彼は押し潰されそうになっていた。

 ウルリカが、その華奢な背中を強く叩いた。


「……だが、彼女は生きている。悪魔に魂を売ることもない。今は、それでいい」


 ぶっきらぼうだが、そこには確かな温度があった。センリは手の中にある招待状を見つめ、苦い表情で懐にしまう。

 これが、正義の天秤を保つための重さだ。


「さあ、行こうか。……悪夢の続きへ」


 センリは車のドアを開ける。その背中は、来る時よりも少しだけ小さく見えた。


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