第十五話 砕ける夢の音
「……狭い」
センリは、自身の借りている1LDKのアパートの玄関で、心底うんざりした声を上げた。
視線の先には、リビングのソファに小さくなって座る魔術師、アレクセイの姿がある。彼は膝を抱え、借りてきた猫のように――いや、叱られた大型犬のように縮こまっていた。
「悪かったよ、センリ。……僕はただ、宿舎の空気が乾いていて、かわいそうだったから」
「だからって、部屋の中に亜熱帯の生態系を再現する馬鹿がいるか!」
怒鳴り声が飛ぶ。ウルリカがデリの袋を持って顔を出した。
事の発端は数時間前だ。ユースティティアの天秤が所有する男性用宿舎の一室から、「植物が溢れ出している」という通報が入った。
現場に駆けつけたセンリたちが目にしたのは、廊下まで侵食しかけている植物と、その中心で「呼吸がしやすくなったね」と満足げに微笑むアレクセイの姿だった。
彼が良かれと思って行った、純粋な善意による環境改善である。それが一番タチが悪かった。植物の成長を早めるだけの第三種魔法でこれほどの被害が出る。魔術師が社会に馴染むのは、まだまだ難しそうだ。
「お前の部屋の修繕が終わるまで、センリの家に居候させてもらうんだ。感謝しろ」
「うん……ごめんなさい。センリ、迷惑だよね」
「迷惑っていうか……まあ、男二人だとむさ苦しいけど。追い出すわけにもいかないし」
センリはネクタイを緩めながら溜息をついた。
宿舎を追い出されたアレクセイを野放しにするわけにはいかない。ウルリカは女性用宿舎のため同居は不可能。消去法で、このアパートがアレクセイの仮住まいとなったわけだ。
「はあ……。とりあえず、壁にキノコを生やしたりしないでくれよ。敷金が戻らなくなる」
「分かったよ」
その時、センリの懐で通信機が震えた。
ディスプレイに表示された緊急の文字を見て、センリの纏う空気が一瞬で仕事用に切り替わる。
「……はい、こちら第三班センリ・ハーコート。――場所は? ……了解。すぐに向かう」
通話を切ると、センリはソファの上の居候と、居候の口にサンドイッチを押しつける相棒を振り返った。
「休憩終了だ。……死体が出たよ。それも、とびきり奇妙なやつがね」
***
現場は高級ホテルの一室だった。
ベッドの上に横たわっていたのは、人間と言うよりは枯れ木に近い物体だった。皮膚は紙のように薄く張り付き、眼窩は深く窪んでいる。
見た目では分からなかったが、身分証明書の顔には見覚えがあった。つい先日センリたちがパーティーで会った、不自然に若々しい老人だ。アレクセイが空っぽだと表現した男。センリが過剰なアンチ・エイジングの結果として見過ごした老人。その末路が、ここにある。
「……寿命の前借りだ」
検分を終えたアレクセイが、静かに呟いた。
彼は死体に触れることなく、その周囲に漂う残滓を読み取っているようだった。
「魂ごと燃やして、時間を騙した代償だよ。酷いな、骨の髄まで空っぽだ。魔術の臭いはしないけど……」
センリは死体の所持品から、一枚の黒いカードを見つけ出した。以前、ウィンダムが持っていた顧客リストにあった紋章と同じ――プロメテウス・テックのものだ。
彼らは奇跡の売り先を選ばない。この老人も、金で買える奇跡に目が眩んだのだろう。
センリはタブレットを取り出し、素早く情報を検索した。この男が最後に接触していた人物、そしてプロメテウス・テックが次に狙いを定めている、スポンサー候補。
「こいつら、スポンサーにはどれも綺麗な顔を選んでるな。よっぽど救世主面がしたいらしい。……次のターゲットは、恐らくシルヴィア・レイン。天才ピアニストだ」
画面には、コンクールで優勝した際の華やかな写真と、その横に『原因不明の麻痺により活動休止』という見出しが躍っていた。
***
シルヴィアの屋敷へ向かう社用車の中、重苦しい沈黙が流れていた。
ハンドルを握るウルリカが、バックミラー越しに後部座席のアレクセイを見る。
「アレクセイ。もし交渉が決裂した場合……シルヴィアの記憶を消すことはできるのか?」
アレクセイは困ったように眉を下げ、首を横に振った。
「……難しいよ。記憶は積み木みたいに繋がってるんだ。一つ嘘を混ぜると、全体のバランスが崩れて違和感として残る。そこから精神が壊れてしまうかもしれない」
「以前、私にやったようにはいかないのか?」
ウルリカの問いに、アレクセイの顔が強張る。そして、彼はゆっくりと首を振った。
「あれは……事象編纂といって、星の巡りと希少な触媒、そして僕の寿命を削る儀式魔法だ。再現できるものじゃない。それに……」
彼は膝の上で拳を握りしめた。
「心がしっかりしている人間に嘘の記憶を植え付けても、脳が拒絶する」
つまり、穏便な解決策はないということだ。相手が騒ぎ立てれば、天秤にとって致命的になる。だが、口封じのために廃人にするわけにもいかない。
「……なら、綻びのないストーリーは俺が作る」
助手席で資料を読んでいたセンリが、顔を上げずに言った。
「動揺させるのも俺がやる。アレクセイは、そこに脚本を焼き付けるだけでいい。彼女が信じたくなるような、完璧で優しい嘘の話を用意する」
「センリ、お前……」
ウルリカが眉をひそめる。
「アレクセイを、便利な道具にする気か?」
「逆だよ、ウルリカ」
センリは窓の外へ視線を投げた。流れる街並みが、彼の瞳に冷たく映り込む。
「アレクセイが奇跡の道具として世界に狩られないために、俺たちが隠すんだ」
***
シルヴィア・レインの屋敷は、持ち主の心を反映するように暗く、静まり返っていた。
広大なピアノ室の中央に、黒いグランドピアノが鎮座している。その前に座る女性はやつれ果てていたが、かつての美貌の面影を残していた。
「……お帰りください」
シルヴィアはピアノに体を預けたまま、顔も上げずに言った。
「プロメテウス・テックの方でしょう? 招待状なら、もう受け取りました。必ず行きます」
「いいえ、我々はそれを止めに来たのです」
センリが静かに告げる。
「あれは真っ当な技術ではない。あなたの命を燃料にする、悪魔の契約です」
「だから何!?」
シルヴィアが叫び、鍵盤を叩いた。ガアン、と不協和音が響く。
「指が動くなら、悪魔に魂を売ったっていい! ピアノが弾けないなら、生きている意味なんてない! あなたたちに何が分かるの!」
彼女の悲痛な叫びが、広い部屋に反響する。
センリは一瞬だけ目を伏せ、そして覚悟を決めたようにアレクセイを見た。
「……アレクセイ。やるぞ」
センリの首筋にある天秤の紋章が輝いた。
「承認コード『リブラ』。――限定解除、第二種」
「……うん」
アレクセイがそっと手を伸ばす。
その瞬間、部屋の空気が変わった。湿り気を帯びた森のような香りが漂い、目に見えない粒子がピアノ室を満たす。
「え……?」
シルヴィアが顔を上げた。
彼女の強張っていた指先が、ふわりと軽くなった。動く。動かないはずの指が、意志に従って鍵盤の上を滑る。
彼女は夢中で弾き始めた。ショパンの革命。かつて彼女が得意としていた曲だ。完璧な音色が、屋敷の中に響き渡る。
「弾ける……! 弾けるわ! あなた、魔法使いなのね!?」
曲が終わると同時に、シルヴィアはアレクセイにすがりついた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、懇願する。
「お願い、治して! お金ならいくらでも払う! 何でもするわ!」
アレクセイは困惑し、助けを求めるようにセンリを見た。
センリは冷徹な表情で、シルヴィアの前に立ちはだかる。
「……治せません」
「どうして!? 今、できたじゃない!」
「治せば、あなたは説明のつかない奇跡のサンプルとして、一生モルモットになるからです」
センリの言葉は、氷のように冷たかった。
「魔法という、過程のない結果は誰にも説明できない。世界中の機関があなたを解剖し、脳を調べ、二度とピアノに触れさせないでしょう。……我々は、あなたの人生を壊さないために、治さない」
一瞬の沈黙。
そして、シルヴィアの顔が絶望と怒りで歪んだ。
「……偽善者」
「シルヴィアさん」
「偽善者! あんたたちの方が悪魔よ! 治さないならなんで夢なんて見せたのよ!」
彼女は招待状を強く握りしめた。
「言いふらしてやる……! 魔術師がいるって、ユースティティアの天秤は奇跡を独占してるって、世界中に叫んでやる!」
彼女の心が悲鳴をあげて砕け散った。ピアノを弾きたいという純粋な願いが、世界への憎悪に変わった瞬間だった。
センリは悲しげに息を吐き、アレクセイに合図を送った。
「今だ。カバーストーリーは、天秤による治療のための金銭支援」
「……ごめんね」
アレクセイが、震える指先をシルヴィアの額に伸ばす。
彼の緑色の瞳が、悲しげに揺れていた。
「君の絶望を、綺麗な思い出に書き換えてあげる」
シルヴィアの瞳から光が消える。
彼女の脳裏に、センリが作成した脚本が流し込まれていく。
魔法使いなどいなかった。彼女は、親切な財団から高額な治療費の支援を受け、その代わりにプロメテウス・テックの招待状を譲ったのだ。
矛盾する記憶は、アレクセイの魔力が優しく溶かし、繋ぎ合わせていく。シルヴィアの心が大きく揺さぶられ、砕けたからこそできる魔法。
数分後。
シルヴィアは穏やかな顔で、センリに招待状を手渡していた。
「ありがとう。この援助金があれば、最新の治療が受けられるわ。……本当に、感謝しています」
彼女は深々と頭を下げた。その頬を、一筋の涙が伝う。
「……あれ? 私、どうして泣いているのかしら」
彼女自身にも、その涙の理由は分からない。
ただ、心の中に空いた大きな穴から、冷たい風が吹き抜けているような感覚だけがあった。
屋敷を出た三人は、無言のまま車に向かった。夕闇が迫る空の下、アレクセイがぽつりと呟く。
「……僕は、ひどいことをした」
二度とやらないと誓った、記憶を書き換える理不尽な暴力。それを振るってしまった事実に、彼は押し潰されそうになっていた。
ウルリカが、その華奢な背中を強く叩いた。
「……だが、彼女は生きている。悪魔に魂を売ることもない。今は、それでいい」
ぶっきらぼうだが、そこには確かな温度があった。センリは手の中にある招待状を見つめ、苦い表情で懐にしまう。
これが、正義の天秤を保つための重さだ。
「さあ、行こうか。……悪夢の続きへ」
センリは車のドアを開ける。その背中は、来る時よりも少しだけ小さく見えた。




