月下の獣⑩
抜刀の構えを取る鬼一に対し、玄斎は静かに八相の構えを取った。
鬼一の身体からは、抑えきれぬ闘気が噴き上がる。
対する玄斎の刃には、凝縮された剣気が満ちていく。
――この一撃で終わる。
その覚悟が、言葉ではなく“圧”となって私の肌を刺した。
空気が張り詰め、呼吸すら許されない。
二人は、動かない。
一瞬の迷い。
ほんのわずかな隙。
それを見せた方が、斬られる。
若様の肩が小刻みに震えている。
圧倒的な存在感に押し潰され、声も出せず、ただ呆然と二人を見つめていた。
私も同じだった。
額から、冷たい汗が一筋、頬を伝い落ちる。
――そして。
先に動いたのは、鬼一だった。
半歩。
踏み出す。
次の瞬間、鬼一は地を蹴り、右足を大きく踏み込んだ。
――ドンッ!!
踏み込みの衝撃で地面が抉れ、身体は低く沈み込む。
左膝が地面すれすれまで落ちた、その姿勢から――
鬼一は、抜いた。
下段から放たれる、逆袈裟の一閃。
鬼一直伝の抜刀術――
『下弦の月』。
高速の刃が月光を裂き、光の軌跡を引きながら玄斎へと迫る。
だが。
玄斎は、斬らなかった。
振り下ろさない。
避けもしない。
ただ、その切っ先を――
見ていた。
見切られている。
刹那、玄斎は半歩引き、さらに上体をのけ反らせる。
鬼一の刃は空を切り、夜気を裂いた。
腕を僅かに掠めただけ。
致命傷には、程遠い。
その瞬間――
玄斎の口元が、歪んだ。
「……キェェェェェェ!」
獣じみた気合と共に、八相の構えから刀が振り下ろされる。
狙いは、鬼一の肩。
――負けた。
私の脳裏に、その言葉が浮かんだ。
だが。
振り切ったはずの鬼一の刀が――
あり得ない速度で、切り返された。
空間を跳ね返るような、神速の一撃。
踏み込んだ玄斎の懐へ、逆方向から刃が走る。
――燕返し。
後の世でそう呼ばれることになる、必殺の切り返し。
「――ズバッ!」
玄斎の刃が、鬼一の肩を捉えた。
鮮血が夜に包括線を描いて飛び散る。
だが。
鬼一の身体は、断たれていない。
刀は、そこで止まっていた。
次の瞬間――
玄斎の膝が、力なく折れた。
崩れ落ちる身体。
刀が、地に落ちる音。
紙一重。
本当に、紙一重の勝負だった。
鬼一の『下弦の月』は、最初から囮。
狙いは、切り返しの二の太刀。
それでも、本来なら玄斎の方が有利だった。
初撃を見切り、振り下ろす側が勝つはずだった。
――だが。
玄斎は、笑った。
あの瞬間、確かに。
「勝った」と思ったのであろう。
その一瞬の慢心。
その一瞬の油断。
それが、生死を分けた。
月明かりの下、
師と弟子の決着は、静かに――しかし確かに、幕を閉じた。
鬼一は玄斎の傍らへ膝をつき、その顔を静かに覗き込んだ。
私と若様もまた、張り詰めていた力を解くように立ち上がり、二人のもとへ歩み寄る。
「……やられたよ、鬼一。
あそこから切り返してくるとはの……。ワシも、まだまだじゃった。」
玄斎は口の端から血を滲ませ、息も絶え絶えに笑った。
その声音には、悔しさよりもどこか清々しさすら混じっている。
「一瞬な、勝ったと思うてしもうた。
……油断じゃ。あれが、敗因よ。」
その言葉に、鬼一は静かに首を振った。
「違ぇよ、師匠。
あれは相討ち覚悟の一太刀だった。あんたがあそこで迷わなきゃ、俺の方がどうなってたか分かりゃしねぇ。」
鬼一は、苦く笑う。
「……引き分けだ。」
「抜かせ!」
玄斎は鼻で笑い、わずかに視線を逸らした。
「地べたに転がっとるのは、ワシじゃ。
どう見ても、ワシの負けよ。」
沈黙が、夜気に落ちる。
やがて鬼一は、抑え込んでいた感情を吐き出すように問いかけた。
「なあ、師匠……。
あんたに、何があった。
それに、真白は……なんで、あんなことに……」
玄斎は一度、大きく息を吸い、荒い呼吸の合間から言葉を絞り出した。
「ゼェ、ゼェ、ゼェ……呪いじゃ。」
「呪い?」
思わず、私が問い返す。
玄斎は一瞬こちらに視線を向けたが、すぐに鬼一へと目を戻し、遠い過去を見つめるように語り始めた。
「まだ……真白が生まれる直前のことじゃ。
妻の身体を気遣い、ワシは難波に腰を落ち着けておってな……」
玄斎の声は、次第にかすれていく。
「その折、妖怪退治の依頼を受けた。
女の姿をした妖怪じゃ。
名を――『梓の鬼姫』」
「妖怪……」
私の呟きに、玄斎は小さく頷いた。
「妖艶な姿でな、難波を治める領主を誑かし、好き放題やっておった。
見かねた家臣どもが、ワシに頭を下げてきたのよ。
――あれを、斬ってくれとな。」
鬼一は、思わず声を荒げた。
「……それで?」
「ああ……斬ったとも。」
玄斎の瞳が、かすかに揺れる。
「じゃがの、鬼姫は死に際に笑って、こう言いよった。
『妾のようなおなごを手にかける犬畜生の侍よ。呪いをくれてやる』と」
声が震えた。
「『お前の大事な者は皆、犬畜生に堕ちる。苦しむが良い』――とな」
玄斎の目は、虚ろだった。
「……そして、生まれたのが真白じゃ。
最初は、気付かなんだ。
だが、あの子が七つになった夜……最初の犠牲者は、妻だった。」
若様が息を呑む。
「噛まれただけじゃ。
その時は、ワシが押さえ込んで事なきを得た……そう、思うておった。」
玄斎は、唇を噛みしめる。
「だが、呪いは……伝染する。
噛まれた者に移り、広がっていく呪いじゃった。」
声が低く、重く沈む。
「妻は次第に変わっていった。
光を恐れ、水を恐れ、月の夜には獣へと変わる……」
一瞬、玄斎の呼吸が止まる。
「ワシは……妻を斬った。
泣きながらな。
死に際、妻は言ったよ。
『真白を……頼む』とな。」
玄斎は力なく、空虚な空を見上げた。
「だが、どうすることも出来なんだ。
呪術師にも、僧にも見せた。
皆、首を横に振りよった……『この呪いは解けぬ』と」
その言葉を聞いた若様の肩が震えて出した。
怒りに震えているのか、涙をこらえているのか分からないが、私はそっと肩に手を触れた。
「真白が十になった頃からじゃ。
あの子も……獣へと変わるようになった。
人を襲い、血を啜る化け物になっていった。
……ワシはな、あの子に人殺しをさせたくなかった。
殺し続ければいずれ本物の獣になってしまうと……」
鬼一の拳が、震える。
「だから、ワシが代わりに斬った。
血を与えれば、あの子は元に戻る。
……いつか、誰かが呪いを解いてくれると信じてな。」
沈黙した。誰も言葉を発せなかった。
「だが……ワシにも、呪いは回った。
いずれは、ワシも完全に獣になるじゃろう。」
玄斎は、かすかに自嘲するように笑った。
「いや……もう、とっくになっておったのかも知れぬな。
これだけの命を奪ったのじゃ。
……ワシは、もう人ではない。」
月明かりの下、
玄斎の言葉は、夜に溶けるように消えていった。
「時丸殿……」
玄斎の声は、風に溶ける前の吐息のようにか細かった。
呼ばれた若様は、はっとしてその名に応え、すぐさま玄斎の傍へ膝をついた。
「はい、ここにおります。」
若様は、震える手で玄斎の手を強く握った。
「時丸殿……失望させて、誠に……申し訳ない。」
絞り出すような言葉に、若様は力強く首を横に振った。
「そのようなことは……決して」
だが玄斎は、かすかに口角を上げ、静かに続けた。
「……一つ、お願いがある。」
「……はい?」
「ワシに……止めを刺しては、もらえぬか。」
その言葉に、若様の呼吸が止まった。
反射的に鬼一の方を見る。
「止めなら、おいらが――」
鬼一が一歩踏み出しかけた瞬間、玄斎は鼻で笑った。
「黙れ。お前など、弟子ではない。」
その一言は、刃のように鋭かった。
「ワシが教えた剣を、お前は一つも使っておらぬではないか。
それが答えじゃ。」
鬼一は何も言い返せなかった。
否定も肯定も出来ず、ただ唇を噛みしめる。
玄斎は再び若様の手を取り、残る力を振り絞るように強く握った。
その眼差しは真剣で、もはや命乞いでも懇願でもない。
「短い間とはいえ、剣を教えたのは……あなただ。
あなたは強くなる。
ワシの剣を継ぎ、必ずや……天才を越える剣を――ゴホ、ゴホ、ゴホ」
言葉は咳に遮られた。
「……もう、時間がない。
これは……ワシが最後に教えられること。
人の命を断つ、その重みを……」
玄斎の視線は、すでに若様を捉えていなかった。
それでも、その願いだけは、確かにそこにあった。
震える若様の背後から、鬼一が静かに歩み寄り、刀を差し出した。
そして、何も言わず、小さく頷く。
若様は、その刀を両手で受け取った。
立ち上がると、深く一度息を吸い、玄斎の前に立つ。
切っ先は、まっすぐ胸元へと向けられた。
「玄斎様……本当に、ありがとうございました。」
一拍の静寂。若様は大きく息を吸い込んだ。
「――御免」
刃が、玄斎の胸に沈んだ。
その瞬間、若様の喉から、堪えきれぬ嗚咽が零れ落ちた。




