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ブラッディー・ムーン ~最凶の悪役令嬢、かぐや姫に転生する~  作者: しんいち
弐ノ章③

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月下の獣⑩

 抜刀の構えを取る鬼一に対し、玄斎は静かに八相の構えを取った。

 

 鬼一の身体からは、抑えきれぬ闘気が噴き上がる。

 対する玄斎の刃には、凝縮された剣気が満ちていく。

 

 ――この一撃で終わる。

 

 その覚悟が、言葉ではなく“圧”となって私の肌を刺した。

 空気が張り詰め、呼吸すら許されない。

 二人は、動かない。

 一瞬の迷い。

 ほんのわずかな隙。

 それを見せた方が、斬られる。

 

 若様の肩が小刻みに震えている。

 圧倒的な存在感に押し潰され、声も出せず、ただ呆然と二人を見つめていた。

 

 私も同じだった。

 額から、冷たい汗が一筋、頬を伝い落ちる。

 

 ――そして。

 

 先に動いたのは、鬼一だった。

 半歩。

 踏み出す。

 

 次の瞬間、鬼一は地を蹴り、右足を大きく踏み込んだ。

 

 ――ドンッ!!

 

 踏み込みの衝撃で地面が抉れ、身体は低く沈み込む。

 左膝が地面すれすれまで落ちた、その姿勢から――

 

 鬼一は、抜いた。

 下段から放たれる、逆袈裟の一閃。

 鬼一直伝の抜刀術――

 『下弦の月』。

 

 高速の刃が月光を裂き、光の軌跡を引きながら玄斎へと迫る。

 

 だが。

 

 玄斎は、斬らなかった。

 振り下ろさない。

 避けもしない。

 

 ただ、その切っ先を――

 見ていた。

 

 見切られている。

 

 刹那、玄斎は半歩引き、さらに上体をのけ反らせる。

 鬼一の刃は空を切り、夜気を裂いた。

 腕を僅かに掠めただけ。

 致命傷には、程遠い。

 

 その瞬間――

 玄斎の口元が、歪んだ。

 

「……キェェェェェェ!」

 

 獣じみた気合と共に、八相の構えから刀が振り下ろされる。

 

 狙いは、鬼一の肩。

 ――負けた。

 私の脳裏に、その言葉が浮かんだ。

 

 だが。

 

 振り切ったはずの鬼一の刀が――

 あり得ない速度で、切り返された。

 

 空間を跳ね返るような、神速の一撃。

 踏み込んだ玄斎の懐へ、逆方向から刃が走る。

 

 ――燕返し。

 

 後の世でそう呼ばれることになる、必殺の切り返し。

 

「――ズバッ!」

 

 玄斎の刃が、鬼一の肩を捉えた。

 鮮血が夜に包括線を描いて飛び散る。

 

 だが。

 

 鬼一の身体は、断たれていない。

 刀は、そこで止まっていた。

 

 次の瞬間――

 

 玄斎の膝が、力なく折れた。

 崩れ落ちる身体。

 刀が、地に落ちる音。

 

 紙一重。

 本当に、紙一重の勝負だった。

 

 鬼一の『下弦の月』は、最初から囮。

 狙いは、切り返しの二の太刀。

 それでも、本来なら玄斎の方が有利だった。

 初撃を見切り、振り下ろす側が勝つはずだった。

 

 ――だが。

 

 玄斎は、笑った。

 

 あの瞬間、確かに。

 「勝った」と思ったのであろう。

 

 その一瞬の慢心。

 その一瞬の油断。

 それが、生死を分けた。

 

 月明かりの下、

 師と弟子の決着は、静かに――しかし確かに、幕を閉じた。



 鬼一は玄斎の傍らへ膝をつき、その顔を静かに覗き込んだ。

 私と若様もまた、張り詰めていた力を解くように立ち上がり、二人のもとへ歩み寄る。

 

「……やられたよ、鬼一。

 あそこから切り返してくるとはの……。ワシも、まだまだじゃった。」

 

 玄斎は口の端から血を滲ませ、息も絶え絶えに笑った。

 その声音には、悔しさよりもどこか清々しさすら混じっている。

 

「一瞬な、勝ったと思うてしもうた。

 ……油断じゃ。あれが、敗因よ。」

 

 その言葉に、鬼一は静かに首を振った。

 

「違ぇよ、師匠。

 あれは相討ち覚悟の一太刀だった。あんたがあそこで迷わなきゃ、俺の方がどうなってたか分かりゃしねぇ。」

 

 鬼一は、苦く笑う。

 

「……引き分けだ。」

 

「抜かせ!」

 

 玄斎は鼻で笑い、わずかに視線を逸らした。

 

「地べたに転がっとるのは、ワシじゃ。

 どう見ても、ワシの負けよ。」

 

 沈黙が、夜気に落ちる。

 やがて鬼一は、抑え込んでいた感情を吐き出すように問いかけた。

 

「なあ、師匠……。

 あんたに、何があった。

 それに、真白は……なんで、あんなことに……」

 

 玄斎は一度、大きく息を吸い、荒い呼吸の合間から言葉を絞り出した。

「ゼェ、ゼェ、ゼェ……呪いじゃ。」

 

「呪い?」

 

 思わず、私が問い返す。

 玄斎は一瞬こちらに視線を向けたが、すぐに鬼一へと目を戻し、遠い過去を見つめるように語り始めた。

 

「まだ……真白が生まれる直前のことじゃ。

 妻の身体を気遣い、ワシは難波に腰を落ち着けておってな……」

 

 玄斎の声は、次第にかすれていく。

 

「その折、妖怪退治の依頼を受けた。

 女の姿をした妖怪じゃ。

 名を――『梓の鬼姫』」

 

「妖怪……」

 

 私の呟きに、玄斎は小さく頷いた。

 

「妖艶な姿でな、難波を治める領主を誑かし、好き放題やっておった。

 見かねた家臣どもが、ワシに頭を下げてきたのよ。

 ――あれを、斬ってくれとな。」

 

 鬼一は、思わず声を荒げた。

 

「……それで?」

 

「ああ……斬ったとも。」

 

 玄斎の瞳が、かすかに揺れる。

 

「じゃがの、鬼姫は死に際に笑って、こう言いよった。

 『妾のようなおなごを手にかける犬畜生の侍よ。呪いをくれてやる』と」

 

 声が震えた。

 

「『お前の大事な者は皆、犬畜生に堕ちる。苦しむが良い』――とな」

 

 玄斎の目は、虚ろだった。

 

「……そして、生まれたのが真白じゃ。

 最初は、気付かなんだ。

 だが、あの子が七つになった夜……最初の犠牲者は、妻だった。」

 

 若様が息を呑む。

 

「噛まれただけじゃ。

 その時は、ワシが押さえ込んで事なきを得た……そう、思うておった。」

 

 玄斎は、唇を噛みしめる。

 

「だが、呪いは……伝染する。

 噛まれた者に移り、広がっていく呪いじゃった。」

 

 声が低く、重く沈む。

 

「妻は次第に変わっていった。

 光を恐れ、水を恐れ、月の夜には獣へと変わる……」

 

 一瞬、玄斎の呼吸が止まる。

 

「ワシは……妻を斬った。

 泣きながらな。

 死に際、妻は言ったよ。

 『真白を……頼む』とな。」

 

 玄斎は力なく、空虚な空を見上げた。


 「だが、どうすることも出来なんだ。

 呪術師にも、僧にも見せた。

 皆、首を横に振りよった……『この呪いは解けぬ』と」

 

 その言葉を聞いた若様の肩が震えて出した。

 怒りに震えているのか、涙をこらえているのか分からないが、私はそっと肩に手を触れた。

 

「真白が十になった頃からじゃ。

 あの子も……獣へと変わるようになった。

 人を襲い、血を啜る化け物になっていった。

 ……ワシはな、あの子に人殺しをさせたくなかった。

 殺し続ければいずれ本物の獣になってしまうと……」

 

 鬼一の拳が、震える。

 

「だから、ワシが代わりに斬った。

 血を与えれば、あの子は元に戻る。

 ……いつか、誰かが呪いを解いてくれると信じてな。」

 

 沈黙した。誰も言葉を発せなかった。

 

「だが……ワシにも、呪いは回った。

 いずれは、ワシも完全に獣になるじゃろう。」

 

 玄斎は、かすかに自嘲するように笑った。

 

「いや……もう、とっくになっておったのかも知れぬな。

 これだけの命を奪ったのじゃ。

 ……ワシは、もう人ではない。」

 

 月明かりの下、

 玄斎の言葉は、夜に溶けるように消えていった。


「時丸殿……」

 

 玄斎の声は、風に溶ける前の吐息のようにか細かった。

 呼ばれた若様は、はっとしてその名に応え、すぐさま玄斎の傍へ膝をついた。

 

「はい、ここにおります。」

 

 若様は、震える手で玄斎の手を強く握った。

 

「時丸殿……失望させて、誠に……申し訳ない。」

 

 絞り出すような言葉に、若様は力強く首を横に振った。

 

「そのようなことは……決して」

 

 だが玄斎は、かすかに口角を上げ、静かに続けた。

 

「……一つ、お願いがある。」

 

「……はい?」

 

「ワシに……止めを刺しては、もらえぬか。」

 

 その言葉に、若様の呼吸が止まった。

 反射的に鬼一の方を見る。

 

「止めなら、おいらが――」

 

 鬼一が一歩踏み出しかけた瞬間、玄斎は鼻で笑った。

 

「黙れ。お前など、弟子ではない。」

 

 その一言は、刃のように鋭かった。

 

「ワシが教えた剣を、お前は一つも使っておらぬではないか。

 それが答えじゃ。」

 

 鬼一は何も言い返せなかった。

 否定も肯定も出来ず、ただ唇を噛みしめる。

 玄斎は再び若様の手を取り、残る力を振り絞るように強く握った。

 その眼差しは真剣で、もはや命乞いでも懇願でもない。

 

「短い間とはいえ、剣を教えたのは……あなただ。

 あなたは強くなる。

 ワシの剣を継ぎ、必ずや……天才を越える剣を――ゴホ、ゴホ、ゴホ」

 

 言葉は咳に遮られた。

 

「……もう、時間がない。

 これは……ワシが最後に教えられること。

 人の命を断つ、その重みを……」

 

 玄斎の視線は、すでに若様を捉えていなかった。

 それでも、その願いだけは、確かにそこにあった。

 

 震える若様の背後から、鬼一が静かに歩み寄り、刀を差し出した。

 そして、何も言わず、小さく頷く。

 若様は、その刀を両手で受け取った。

 立ち上がると、深く一度息を吸い、玄斎の前に立つ。

 切っ先は、まっすぐ胸元へと向けられた。

 

「玄斎様……本当に、ありがとうございました。」

 

 一拍の静寂。若様は大きく息を吸い込んだ。

 

「――御免」

 

 刃が、玄斎の胸に沈んだ。

 その瞬間、若様の喉から、堪えきれぬ嗚咽が零れ落ちた。

 

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