月下の獣⑧
――若様では、玄斎には勝てない。
その結論が、冷たい刃のように胸を貫いた。
私が加勢に入ろうと一歩踏み出した、その瞬間だった。
背後から突き刺すような殺気を感じ、反射的に身を翻す。
風を裂く音。
真白が腕を大きく振りかぶり、私に向かって叩きつけてきていた。
「……しつこいわね。」
低く吐き捨て、私はその大振りの一撃を紙一重でかわす。
不思議なことに、胸の奥がざわついていた。
苛立ちとも、焦燥ともつかぬ感情が、じわりと広がってくる。
真白そのものは、決して強敵ではない。
このなまくらな刀でも、十分に押し切れる相手だ。
だが――無視できない。
真白の回復力は異常だった。
斬り裂いても、殴りつけても、傷は瞬く間に塞がり、何事もなかったかのように再び襲いかかってくる。
そのタフさだけなら、バケ以上だ。
だからこそ、若様に近づけるわけにはいかない。
距離を保ち、牽制しながら削るしかない――だが、それでは若様の援護に入れない。
歯噛みする思いが胸に渦巻いた。
――かつての私なら、違った。
ゲームの世界にいた頃の私は、若様など迷いなく切り捨てていただろう。
弱い者など、弾除けになればそれでいい。
死ぬのが当然の存在。
真白を倒すまでの、ほんのわずかな時間稼ぎ。
そのあとで玄斎を仕留めれば、それで済む話だった。
……そう考えて然るべきだった。
なのに。
今の私には、それができない。
胸の奥に、はっきりとした答えがあった。
――この苛立ちは、焦りだ。
若様を殺されたくない。
その感情が、私の判断を鈍らせ、心を乱している。
そんな「余計な感情」に、私は腹を立てていた。
同時に――
その感情を、否定しきれない自分自身にも。
――とにかく、若様には踏ん張ってもらうしかない。
そのためにも、先ず片付けるべき相手がいる。
目の前で牙を剥く、この“女”だ。
一瞬、思考が魔法へと傾いた。
血を操り、即死に至らせる魔術――。
……否。
脳裏で即座に却下する。
上位魔法を発動すれば、掌に光の魔方陣が浮かび上がる。
それは致命的だった。
今はまだ、私が魔法を使えることを、誰にも知られてはならない。
完全に仕留めるには時間がかかる。
ならば、倒すのではなく――拘束。
麻痺魔法。
拘束できるのは、長く見積もっても三分。
三分では、玄斎を討つことは不可能だ。
時間が足りない。
ならば――選択肢は一つ。
あの技しかない。
身体の動きを封じる。
さらに《バルジー》を重ねれば、かなりの時間を稼げるはずだ。
だが、代償は大きい。
あれは大技。
一歩間違えれば、武器を失う――最悪、さらに時間がかかり若様は死ぬ。
失敗は許されない。
私は静かに息を整え、真白の動きを見据えた。
――先ずは、隙を作る。
全ては、その一瞬のために。
私は躊躇なく、刀で自らの掌を切り裂いた。
滴り落ちる血を、そのまま刃へとなすりつける。
「――血よ、すべてを切り裂く刃となれ……」
低く呟いた瞬間、血が脈打つように蠢いた。
――《ブラッディ・ソード》。
血は刃に絡みつき、赤黒い光を帯びながら魔剣へと姿を変える。
だが、以前バケに振るったそれとは違う。
私は意図的に“硬度”を上げ、刃をより鋭く、より頑丈に練り上げた。
さらに、もう一つ――見えぬ仕掛けを忍ばせる。
これでいい。
私は真白の爪撃を受け流し、時に刃で受け、時に体術でいなしながら、わずかずつ立ち位置をずらしていく。
焦らせず、悟らせず。
あくまで自然に、だが確実に。
間合いを測り、呼吸を読み、無意識の癖を利用して――
真白を、ある一点へと追い込んでいった。
そして。
背後の大木と、真白の身体が一直線に並んだのを見た瞬間。
――今。
振りかぶって襲いかかる爪を、私は正面から刀で受け止める。
金属音が夜気を裂いた刹那、溝内を狙って渾身の拳を叩き込んだ。
衝撃に、真白の身体が前のめりに吹き飛ぶ。
私は止まらない。
追いすがるように踏み込み、跳躍。
突き出た顎を狙い、右脚を叩き上げる。
――脳が揺れた。
真白はよろめき、大木にもたれかかるように頭を振った。
……好機。
私は一息に踏み込み、心臓を狙って抜き突きを放つ。
本来なら鍔元で柄をずらし、長さを変えて止める技。
だが――
止めない。
私は柄頭で制止せず、そのまま刀を“射出”した。
「グサッ」
鈍く、生々しい音。
刃は胸を貫き、真白の背中へ突き抜ける。
終わりではない。
私は即座に跳び、突き刺さった刀の柄頭へ――飛び蹴り。
衝撃で刃はさらに押し込まれ、背後の大木へと突き刺さり、鍔元で止まった。
鬼八流――
「《影縫い》」
「ウギャァァァァァァァッ!!」
絶叫と共に、真白は胸の刀を引き抜こうともがく。
だが、刃は微動だにしない。
当然だ。
抜けぬよう、細工を施してある。
大木に刺さった瞬間、私の血は根のように木へと食い込み、刀を絡め取っている。
硬度を高めた刃は、そう容易く折れもしない。
逃げたいのなら――
木を折るか、根こそぎ引き抜くしかない。
……無論、そんな時間は与えない。
私は静かに詠唱した。
――血潮の奔流よ、今、鎮まれ。
「《バルジー》」
麻痺の魔法が発動した瞬間、真白の身体が跳ねる。
口をあんぐりと開いたまま、全身が痙攣し――やがて、動きを止めた。
……取りあえず、これでいい。
私は一瞬も無駄にせず、踵を返す。
「さて……」
次の相手は、一人しかいない。
私は即座に、若様の方へと視線を向けた。
若様は、わずかな時間にもかかわらず満身創痍だった。
荒い息が夜気を裂き、衣の隙間からは幾筋もの血が滲んでいる。
浅くはない。だが――致命にも至らぬ。
玄斎の剣術。
若様が相手であろうと、一切の油断を見せず、確実に削り取っていく。
派手さはない。ただ、生き残るためだけに洗練された剣。
……それでも。
おかしい。
本来なら、もう止めを刺せたはずだ。
それなのに玄斎は、なおも慎重に、若様へと刃を送っていた。
「時丸殿、諦めてはなりませぬぞ。」
低く、諭すような声。
「相手をよく見て、捌き、呼吸、間合い、太刀筋を読む。
先ほどの捌きは見事でしたが……今は諦めが太刀筋に出ております。
それでは――生き残れませぬ。」
その光景に、私は息を呑んだ。
道場で、幾度となく目にした光景。
玄斎が若様に剣を教えていた、あの稽古と――まるで同じ。
……違う。
これは稽古ではない。
だが、玄斎は――
実戦の最中ですら、“教えて”いるのではないか?
その既視感が、一瞬だけ私の足を止めた。
そして玄斎は、ちらりとこちらへ視線を向ける。
「そろそろ終わりにいたそう。」
声に、温度はなかった。
「真白を助けねばならぬ故な。
時丸殿――ご覚悟を。」
玄斎は八相に構える。
切っ先に、はっきりと殺気が宿った。
――しまった。
一瞬の躊躇い。
私は舌打ちし、地を蹴って駆け出す。
だが、すでに玄斎は踏み込もうとしていた。
間に合わない……!
「若様!」
叫びは夜に溶け、虚しく消える。
若様は必死に受けの構えを取る。
だが、その手は――震えていた。
……無理だ。
あれでは玄斎の必殺の剣は防ぎきれない。
私がそう悟った、その瞬間。
玄斎の背後から、音もなく白刃が迫った。
「……誰だ?」
気配を察した玄斎は即座に攻撃を止め、転がるように身を伏せる。
白刃はわずかに肩口を裂いた。
だが、玄斎はそれを意にも介さず、闇へと切っ先を向ける。
「……やはり、お主か」
闇の中から、浮かび上がるように現れた影。
鬼一だった。
鋭い眼光。
全身から立ち昇る、剥き出しの殺気。
刀を肩に担ぎ、静かに前へ出る。
「流石だね。あの気配を消した一撃を躱すとは……やっぱり俺の師匠だ。」
だが、その声は低く、冷えていた。
「――けどな」
鬼一は、若様の前に立つ。
「俺の弟子は、殺させねぇよ。」
玄斎は驚かなかった。
むしろ――
不敵に、口角を吊り上げた。




