月下の獣⑥
真白の部屋を辞したあと、私は若様に声をかけた。
「若様、少しご相談がございます。」
「はあ……?」
気の抜けた返事とともに、若様は怪訝そうな顔を向けてくる。
私はその腕を取り、返事を待たずに人目の少ない場所へと引き寄せた。
周囲に人の気配がないことを確かめ、声を落として告げる。
「今宵、参りますわ。」
「えっ!? ですが、先ほどは明日と……」
驚く若様に、私は視線だけで口を噤むよう促した。
「少し考えがございますの。
あきこやあずみはもちろん、このことは内密にお願いいたします。」
「……はい」
睨みを利かせて念を押すと、若様もただならぬ空気を感じ取ったのか、同じく声を潜めて頷いた。
「それと若様。今宵は、できる限り軽装で」
「軽装、ですか?」
「この前のように鎧など身に着けて来てはなりませんわ。あれはうるさすぎます。 最小限の装備で――得意の弓と、刀。それだけで十分です。」
そう言って、私は懐から小さな袋を取り出し、若様の手に握らせた。
「それから、これを必ずお持ちくださいませ。」
「これは……?」
「これは''匂い袋''で御座います。
中に潰した香木を入れ匂いを発するもので御座いますわ。
これで我らの“匂い”を誤魔化します。」
若様は目を瞬かせた。
「相手は熊、あるいは犬。
彼らは匂いにとても敏感な生き物です。人の匂いを残したままでは、こちらの居場所を知らせるようなもの。」
「なるほど……分かりもうした。」
若様は小袋を大切そうに懐へしまい、真剣な面持ちで問いかけてくる。
「では、何刻までに仕度を整えておけば?」
私は小さく微笑み、答えを告げた。
こうして、誰にも知られることなく――
私たちは、静かに、だが着実に準備を進めていった。
夜の帳が下りた頃、私は若様を迎えに向かった。
約束の場所に立っていた若様は、忍びと思しき黒装束を身に纏い、私に言われた通り腰には刀、背には弓を負って静かに佇んでいた。
私はその姿を一瞥し、小声で問いかける。
「誰にも気付かれておりませんね?」
「ああ、勿論で御座る。鬼一様にも、一切話しておりませぬ。」
短くそう答える若様に、私は満足げに頷いた。
「では、参りましょう。」
目的地は一つ――玄斎と真白が住まう家。
無言で歩みを進めるうち、若様は次第に不安げな表情を浮かべ始める。
「かぐや殿……一体、どちらへ向かわれるのですか?」
私はその問いに答えぬまま歩き続け、やがて一軒の家の近くで足を止めた。
「……ここは、玄斎様の家では御座らぬか。 ご助力を願いに参られたのですか?」
戸惑いを隠せぬ若様に、私はようやく口を開いた。
「落ち着いてくださいませ。
ここからは、黙って私の話を聞いて頂きます。」
そして、胸の内に秘めていた疑念を、一つずつ明かしていく。
――バケが見せた異様な警戒。
――真白の病と、その不可解な能力。
――玄斎と真白が竹取の郷へ来てから、事件が始まったという事実。
言葉を重ねるごとに、若様の表情はみるみる険しさを増していった。
「かぐや殿……それは、流石に無理があるのではありませんか? 確かに筋は通っているように聞こえまするが、真白殿は私と同い年。
身体も細く、病弱な身で御座います。人を襲うなど、到底考えられませぬ。
それに、玄斎様には武芸を教えて頂いた恩もあります。 このような疑いを向けるのは……いささか、気が引けまする。」
「若様、身体の強弱は関係ありませんわ。」
私は即座に言葉を返した。
「海の向こう、異国の地には『ライカンスロープ』――
簡単に申せば『狼男』と呼ばれる妖怪の伝承が御座います。 月の出る夜にのみ現れ、人を襲う獣人……。 今宵のような満ちた月の夜に、です。」
若様の喉が小さく鳴るのが分かった。
「もし、私の推測が誤りであれば、それで良いのです。 真白さんの疑いが晴れる、それだけのこと。 ですが……もし当たっていたなら……」
私は若様を見据え、静かに続けた。
「気が引けるようでしたら、ここでお帰りになっても構いませんわ。」
本心を言えば、若様は戦力として連れてきたわけではない。
必要だったのは“証人”だった。
西洋の怪物などという荒唐無稽な話を、私一人が語っても信じる者はいない。
だが――二人で見たと言えば、その重みは違ってくる。
「……『ら、らいかんすろぷ?』、狼男、で御座るか。」
若様は小さく息を吐き、苦笑した。
「かぐや殿は、相変わらず博識で御座いますな。 正直、気乗りは致しませぬが……。 これで真白殿の疑いが晴れるのであれば、お付き合いいたしましょう。」
どこか納得しきれぬ表情ではあったが、それで十分だった。
さて――
私の予想は、果たして当たっているのかしら?
私たちは家から距離を取り、月明かりの下で玄斎の家を静かに見張った。
二刻ほどが過ぎた頃だった。
夜はすっかり深まり、虫の音すら途切れがちになっていた。
雲一つない空に浮かぶ月は、やけに白く、冷たい光を地上へと注いでいる。
その時――。
ギィ……と、微かな音が闇に溶けた。
玄斎の家の戸が、音を殺すように開いたのだ。
「……出てきましたわ。」
私が囁くと、若様は息を詰めた。
月明かりの中、姿を現したのは――真白だった。
いつもの目隠しは外されている。
白い着物を纏った小柄な身体は、夜の闇の中でひどく頼りなく見えた。
しかし、その歩みは確かだった。
ふらつくこともなく、迷うこともなく、まるで“行き先を知っている”かのように、真白は静かに家を離れていく。
「……一人、で?どこに。」
若様の声が、わずかに震える。
「ええ。……ついて参りましょう。」
私たちは距離を保ち、物音を立てぬよう後を追った。
真白は村外れへと向かっていた。
人家が途切れ、木々が濃くなる場所――昼間でも薄暗いその一帯に差し込む月光は、異様なほど明るく、地面に長い影を落としている。
やがて、真白はぽつりと開けた場所で足を止めた。
周囲には誰もいない。
風が梢を揺らし、草がざわりと鳴る。
「……真白、殿?」
若様が思わず名を呼びかけそうになるのを、私は素早く手で制した。
その直後だった。
真白の肩が、びくりと跳ねた。
次の瞬間――
「……あ……あ゛……」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
それは痛みに耐える声にも、呻きにも似ていたが、人のそれとはどこか違っていた。
真白は両腕で自分の身体を抱きしめるようにし、背を丸める。
月光が、彼女の顔を照らした。
――赤い。
昼間に見た時とは比べものにならぬほど、彼女の瞳は赤黒く染まり、獣のそれのように光を反射していた。
ぱき、と。
不自然な音が、静寂を裂く。
真白の指が――曲がった。
関節が、あり得ぬ方向へと歪み、皮膚の内側で何かが蠢くのがはっきりと分かる。
「っ……!」
若様が息を呑む。
真白の爪が、ずるり、と伸びた。
いや、伸びたというより――押し出された。
皮膚を突き破ることなく、内側から無理やり形を変え、黒く、鋭い爪へと変貌していく。
腕が太くなる。
骨格が、音を立てて組み替わっていく。
ぼき、ぼき、と鈍い音が続き、背骨が不自然に盛り上がった。
「……あ゛あ゛あ゛あ゛……ッ!」
悲鳴とも咆哮ともつかぬ声。
白い着物が、内側から裂ける。
布の隙間から覗いたのは、人の肌ではなかった。
――毛。
黒と灰色が混じった獣毛が、月光を受けて濡れたように光っている。
首が引き伸ばされ、顎が前へと突き出る。
歯が増え、尖り、口元から涎が糸を引いた。
最後に、真白だった“それ”が顔を上げた。
そこにあったのは――
人の面影を残したまま、完全に獣へと堕ちた存在。
赤く光る双眸が、月を映し、次いで――
闇の中に潜む、私たちの方へと向けられた。
「……っ!」
若様の身体が強張るのが分かった。
――当たりだ。
私の背筋を、冷たいものが走る。
月明かりの下に立つその影は、疑いようもなかった。
狼男――
ライカンスロープ。
そして、それは、低く唸り声を上げながら、一歩、闇の中へと踏み出した。




