月下の獣③
玄斎は自らを「教え方が下手」と評していたが、実際に稽古を見ていて、私はその言葉に首を傾げざるを得なかった。
なるほど、確かに多弁ではない。 無駄な説明を重ねることもなく、理屈を並べ立てることもない。 おそらく玄斎の言う“下手”とは、口下手という意味なのだろう。
だが、剣を通して示すことに関して言えば、これほど分かりやすい教え方はなかった。
玄斎は一人ひとりの動きをよく見ていた。 あきこやあずみのような女子であっても、手加減することなく、しかし決して乱暴にならず、今何が足りないのか、どこを直せば良いのかを的確に指摘する。
その指導は実に丁寧で、押し付けがましさもない。 出来ていないことを責めるのではなく、「次はここを意識してみよ」と静かに導く。 剣に対する誠実さが、そのまま人への接し方に表れているようだった。
そして――。
玄斎が最も熱心に教えていたのは、若様だった。
「時丸殿、刀の握り方じゃが……もう少し、深く握られるとよろしいですぞ。」
「こ、こうで御座いますか?」
若様は少し不安そうに問い返しながら、言われた通りに柄を握り直す。
「さよう。その握りでよろしい。 道場での稽古では、いつもの握りでも構いませぬが……」
玄斎は一度、若様の姿勢をじっと見つめてから、続けた。
「時丸殿は、まだ身体が完全に出来上がってはおらぬ。 ゆえに、力が刃へ伝わりにくい。 この握りの方が、無駄なく力が乗り、実戦では有効かと存じます。」
「……なるほど」
若様は素直に頷き、何度か刀を振って感触を確かめている。
その様子を見ながら、私は内心で納得していた。
玄斎の剣と、若様の剣。 この二つは、驚くほど相性が良い。
派手さはない。 一撃必殺の剣でもない。 だが、基礎を積み重ね、間合いを守り、確実に相手を削っていく――その在り方は、驚くほどよく似ていた。
若様が今歩いている道の先。 その到達点に、玄斎の剣術があるのではないか。
そう思ってしまうほどに。
……なるほど。 鬼一が、わざわざ師匠に私達の稽古を頼んだ理由が、少し分かった気がした。
その一方で、娘である真白との距離も、少しずつではあるが縮まっていった。
玄斎は道場へ来る際、必ず真白を伴っていた。
それは無理もない話だ。目に持病を抱える娘を、一人で家に残しておくわけにはいかないし、何より心配なのだろう。
二人はいつも朝早くにやって来て、日が落ちてから帰っていく。
その生活を、来てからずっと繰り返していた。
真白は昼間、基本的に客間で休んでいることが多い。
強い光を避けるため、どうやら昼夜逆転に近い生活を送っているようだった。
それでも、たまに昼間に起きていることがあり、その際はあきこやあずみと話している姿を見かける。
雨戸をきっちりと閉め切った薄暗い部屋の中から、楽しげな声だけが廊下まで響いてくるのだ。
あきこもあずみも、真白の病のことは知っている。
だからこそ、暗さについて何か言うこともなく、自然体で彼女と接していた。
私も、二人に混ざって笑顔で真白と会話をする。
――けれど、心のどこかで線は引いたままだ。
私は、この少女に気を許してはいなかった。
理由は単純だ。
あの時の、バケの様子がどうしても引っかかっている。
怯えではない。
明確な警戒――いや、敵意に近い、落ち着かない挙動。
万が一に備え、私はバケを道場へは連れて来ていない。
あきこやあずみには、
「最近、母様がバケを可愛がってしまって、なかなか離してくれないのですの。」
と説明して誤魔化している。
実際、母様がバケを子供のように抱いて離さないのは事実なのだけれど……。
それにしても、原因が分からない以上、バケを連れて来るのは得策ではない。
そう判断していた。
私は折に触れて、真白を探ってみてもいる。
妖気。
魔力。
血の魔法による身体の内部探査。
だが、どれも特に異常は見つからない。
会話をしても、少し大人しい、控えめな少女にしか見えなかった。
もちろん、光過敏以外にも違和感はある。
まず、目だ。
玄斎の言う通り、真白の目は見えていないわけではない。
夕方、日が落ちる頃になると黒い布を外しているし、部屋であきこ達と話す時も同様だ。
ただし――色がおかしい。
真白の瞳は、赤い。
充血ではない。
黒目そのものが、ほんのりと赤黒いのだ。
光の加減によっては、わずかに赤く光ることもある。
病気の影響……そう言い切るには、やはり違和感が拭えなかった。
そして、もう一つ。
真白には、妙な能力がある。
それに気付いたのは、つい最近のことだった。
「ねぇ、かぐや。真白ちゃんが今日、雨が降るって言ってたんだけどさ。こんなに晴れてるのに、本当に降るのかな?」
あずみが、そんなことを言ってきた日があった。
結果は――真白の言った通りだ。
私たちが道場を出る前に、空は急に曇り、雨が降り出した。
しかも、その時。
真白は、その雨をひどく恐れていた。
耳を塞ぎ、「怖い、怖い」と繰り返しながら、玄斎にしがみつくように抱きついていたのだ。
今のところ、真白について分かっているのは、この程度。
だが――
それらがどう繋がるのか。
予想はいくつかある。
けれど、それが正しいのかどうかは確かめられてはいなかった。
胸の奥に、小さな違和感だけを残したまま――
私は今日も、真白に微笑みを向けている。
それを聞かされたのは、稽古が終わり、夕暮れの気配が道場に忍び込み始めた頃だった。
若様が珍しく、どこか落ち着かない様子で私の元へやって来た。
「かぐや殿……少し、よろしいで御座るか。」
その声音だけで、ただ事ではないと分かる。 私は頷き、皆から少し離れた縁側へと腰を下ろした。
「実は……最近、この辺りで妙な事件が起きておりましてな。」
若様は言葉を選ぶように、一度小さく息を吐いた。
「夜中、街道を通っていた旅人が襲われるのです。 すでに二人……いや、三人目で御座る。」
「襲われる、とは?」
私が問うと、若様は苦い顔をした。
「最初は、熊の仕業だろうと考えられておりました。 遺体には、まるで巨大な獣に引き裂かれたような……四本の深い爪跡。 胴や背を大きく裂かれ、地面には血が飛び散っていたそうです。」
熊。 確かに、この辺りなら不思議ではない。
――だが。
「ただし」
若様は、そこで声を潜めた。
「おかしな点が、いくつもありましてな。」
私は黙って続きを促す。
「……誰一人として、食われていないのです。」
「食われていない?」
「はい。 腹も、太腿も、肉はそのまま。 まるで殺すこと自体が目的であったかのように……」
嫌な沈黙が落ちた。
「それに……首元には、噛み跡が残っていたそうで御座る。」
「噛み跡で御座いますか?」
「犬……いえ、狼のような歯形だと聞きました。 熊のものにしては、小さすぎると。」
私は、無意識に膝の上で指を組み替えた。
「さらに、遺体の周囲には足跡が残っていたそうで……」
「熊の?」
「……いえ、犬のような足跡です。 それも、四本足ではなく、二つ足で歩いたもの。」
熊でも、狼でもない。 だが、どちらの特徴も併せ持つ何か。
私は、ふと脳裏に浮かんだ影を、すぐに打ち消した。
「その件は、すでに検非違使も動いております。 ですが……正直、皆、手に余っている様子で」
若様は困ったように眉を下げた。
「街では『化け物の仕業ではないか』などと噂も立ち始めており、夜は外を歩く者も減っております。」
なるほど。 噂が立つには、十分すぎる材料だ。
「かぐや殿には、まだ直接何かを頼むつもりは御座らぬ。 ただ……念のため、耳に入れておいた方が良いと思いましてな。」
「……ありがとうございます、若様。」
私はそう答えながら、胸の奥に沈む違和感を拭えずにいた。
四本の爪痕。 噛み跡。 犬のような足跡。 夜にだけ現れる何か。
そして――
昼の光を避け、
雨を恐れ、
赤い瞳を持つ少女。
「……嫌な予感がするわね。」
私は、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
まだ、何も繋がってはいない。 だが確実に――
点と点は、ゆっくりと近づき始めていた。




