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少女、付き添う。 8

「…………あ。私の馬鹿」

 カンタレッラの家から十歩ほど進んだところで、私は思い出した。その場で立ち止まり、鞄の奥に手を突っ込む。取り出した柔らかな白いハンカチには、完全には落ちなかった血の跡が薄らとした茶色になって残っていた。

 土曜日、カンタレッラに殴られて口の中を切った私が彼から借りたハンカチ。今日返そうと思っていたのに忘れていた。私は踵を返し、インターホンを押そうと手を伸ばした。

「!」

 人差し指がインターホンに触れる寸前で、動きを止めた。

 ガラスが砕けるような音が扉の向こうから聞こえた、気がする。何かあったのだろうかとインターホンを鳴らしたが、誰も出てこない。続けて三回鳴らし、それでも応答がないためノブを捻った。鍵を閉めていなかったらしく何の抵抗もなく開いた。

「カンタレッラ?」

 玄関に足を踏み入れて声をかけると、リビングの方から悲痛な叫び声がイタリア語で聞こえてきた。

「ごめんなさいっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 許してパパ!」

 思わず靴を脱ぎ捨て、私は真っ直ぐリビングに向かって廊下を駆けた。だんっ、という大きな音がリビングから聞こえた。飛び込むような勢いで中に入ると、今起きたばかりなのか髪に寝癖をつけたカンタレッラの父親が、床に押し倒した息子の首を両手で絞めていた。すぐ近くに私達が飲んでいた炭酸水のグラスが二つとも割れて、破片が雫と一緒に散っていた。色白の肌が赤く怒りに染まっているその顔は、以前見た美丈夫のそれではなく、恐ろしい天狗や赤鬼の面みたいだった。

「な、何やってるんですか!」

 一瞬呆然としてしまった私は慌てて二人のもとに駆け寄った。カンタレッラの父親は私の存在に気づいていないのか無視しているのか、大きく瞳孔が開いた目に自分の息子だけを映している。両手で彼の腕を掴んで引き剥がそうとするがとても大人の力には敵わない。

「か、はっ……ぁ、つ……ぃ」

 酸素を求めて必死に喘ぐカンタレッラの瞳は、涙に潤みながら私を捉えていた。助けたい。どうにかして助けたいのに私の力ではカンタレッラの父親に敵わない。呼吸が止まるより先に首の骨が折れてしまうのではないかとすら思うほど、白い首に形のいい指が食い込んでいる。ぎちぎち、ぎちぎちと。

 このままだと、カンタレッラが殺される。

「っ、あ――――」

 気づけば私は右手を拳にして、目の前の男に振るっていた。左頬に勢いよく当たり、がつっ、と音がして拳に痛みが走る。けれども痛みを堪え、私はもう一度力を込めて拳を振るった。その瞬間カンタレッラの父親は両手を離し、よろけ、床の上に転がった。あれほどびくともしなかった大人の身体は私が二回殴っただけで簡単に倒れた。

「げほっ! げほげほっ、かはっ!」

 笛のような音を喉から鳴らした直後、カンタレッラは激しく咳き込みながら酸素を貪った。そのことにほっとするも、私は倒れたカンタレッラの父親が左頬を押さえながら起き上がろうとしていることに気づいた。

「逃げて!」

「え……」

「逃げろって言ってるの! 早く外へ行って!」

 頭で考えるより先に、私はそう早口で捲し立てていた。

「――――」

 口から糸を引く涎をそのままに、カンタレッラは一瞬の躊躇いを見せた後リビングを飛び出していった。

「どうして…………」

 私は床にぺたりと座り込み、カンタレッラの父親と向き合った。私が殴った左頬に薄く痣を作っていたが、天狗や赤鬼みたいだったさっきよりはずっとましになっているようだった。どこか憔悴した表情で、私を見つめている。

「シニョーレ・カンタレッラ。どうして、自分の息子を……」

「………………」

「実の子供でしょう? 愛して、守る存在じゃないんですか?」

「………………」

「なんで息子を殺そうとしたんですか?」

「………………」

 普通の父親は自分の子供を殺そうとはしない。

 私の父さんは私が幼い頃から仕事のせいでなかなか家に帰ってこれない人だ。けれども、たまに会うときは私や母さんの我が儘を聞いてくれる。イタリア語の勉強に付き合ってくれるし、面白いお土産を買ってきてくれるし、落ち込んだときは慰めてくれるし、風邪をひいたときや怪我を負ったときはひどく心配してくれた。父親は子供にとって、優しい存在でなければならないはずだ。

 子供が大人になるため生き残るには、見本となる大人が傍にいなければいけない。

「少なくとも彼はあなたを本心から愛しているのに」

「…………僕だって、愛しているさ」

 ようやく口を開いたカンタレッラの父親は、今にも泣き出しそうな表情になった。まるで女性のように両手で顔を覆う彼のその仕草に、何故だか無性に苛々とした思いが溢れ出てくる。

「アザミは、僕のたった一人の息子だ。好きだ。好きで好きで、別れた妻よりも愛している」

「じゃあ、どうして――」

「ありがとう。つゆり」

「え?」

 顔を隠していた両手をするっと下ろしたかと思うと、カンタレッラの父親はさっきまでの鬼みたいな顔や泣きそうな顔が全て嘘だったかのように美しい微笑を浮かべていた。まるで、悪い憑き物が取れたかのようだ。それを見た私は、何も言えなくなる。何を言ったらいいのか、わからない。

「アザミを捜してきてくれるかい」

「……はい?」

「この寒空の下、上着を着ていない状態で出たんだ。ずっと外に出ていれば風邪をひいてしまうよ」

「…………わかりました」

 私はついさっき投げ捨てた自分の鞄を肩にかけ、カンタレッラのブレザーを拾い上げると再び外へ出た。いつの間にか雪が降り始めていた。

 

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