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パリへ

厳しい冬の天候に春の訪れを心待ちにする頃、9月に向けてのパリ留学の準備や 優の上京に伴う金銭的な事などが少しづつ前進し始めていた。



未来への心配事が尽きないながらも 美香は幾分か精神的に強くなっていった。



回りの目や言葉に 人一倍敏感で傷つきやすく 泣いてばかりだった少女は もう、そこにいない。



優の魂を注いだとも言える受験勉強は結果を結び、東大の経済学部の門を叩く運びとなった。



恭子は、優のアパートの保証人となり 「あやめ」というクラブでのアルバイトをあてがった。夜の世界でアルバイトをする事は、金銭面だけでなくて もっと大きなものを優にもたらす。そのチャンスを、彼に与えてあげたかったのだ。



優はこれから始まる生活が 間違いなく人生の分岐点になると確信していたし、自分の力で切り開いてゆく未来に興奮すら覚えていた。



俺は、自分のやりたいことをやり遂げるだろうし、欲しいものを思いのままに手に入れてみせる。




大阪のアパートを出てゆく日、優は一人で家中を見回した。




ここで、姉弟だけで生活する間に 芽生えたのは父親への軽蔑心と怒り。




優は父親が許せなかったし、男の弱さを見せつけられた気がして それが腹立たしくてたまらない。




ある時はその怒りをバレーに注いだし、勉強にも注いだ。




だけど、そういう思いとは今日で決別しよう。父親を許すとか、そういう気持ちにはなれないけれど 東京で新しい生活を始めるのだ。これまでの自分を手放さなくてはいけない。大阪のアパートからは何一つ持たないで出た。何も持っていきたい物がなかったからだ。




都内のアパートの扉を開けると、ベッドやシンプルなデスク、小さなソファーなど 基本的な生活雑貨が全て整えられていた。




ふとコーヒーテーブルを見ると「祝御入学」と書かれた水引封筒が置かれている。それは、恭子からで現金とともに 




「あなたの未来が大いに輝きますように」と清らかな文字でつづられた一文があった。




優はその文字に、なぜか一瞬 自分の母親を重ね合わせてしまう…。母親の書く文字など全く記憶に残ってもいないのに…。






週末の昼に、美香が泊まっているホテルで姉弟だけで これからの事について話し合った。






美香がパリへ留学する間は、彼女の親しい友達にアパートの管理を頼む事、廣川氏にいくらずつお金を返していけるのか?




久しぶりに二人だけで話をするうちに、やっぱり優が時々、達也のように見えた。




「結局、自分の人生は自分で切り開いていかなくてはあかんねん!俺はこれから ここで頑張る。美香ちゃんはパリで頑張る。パリできっと新しいものが見えてくるねん。それから、自分を見失わないようにせなあかんな…。」




優が無事に状況を済ませた頃、やっとのことで美香は祐介に 1年間のパリ留学が確定している事を告げた。




「僕、待ってるからさ。頑張って。」




祐介はそう言うのがやっとだった。




美香が離れたところに行ってしまうのが何よりも寂しいし、不安でしょうがないという気持ちしか湧いてこないのに それを伝えられなかったし、 きっと伝えるべきではないのだと 思った。




教授の推薦状や高成績を取るために、去年から大忙しだった美香は、留学が確定してからもフランス語の勉強に余念がなかった。銀座でのアルバイトもあり、当然 ものすごく忙しい。




そんな日々があっという間に過ぎてゆき、8月の初めに 祐介と夜の江の島へ来ていた。




少し日にちが早いが、付き合って1年の記念日にとレストランで食事を楽しんだ。




思いの他、夜の浜辺を散歩する人は少なく 二人は浜辺を少し散歩して 砂の上に腰を下ろした。




「祐介さん、ホンマにありがとう。」美香がそう言うと




祐介はポケットから何かを取り出した。




「帰ってきたら僕と結婚して下さい。」「美香ちゃんが帰ってくる頃には、僕は就職しているはずだし、家も出ている。お互いの親に会う必要だってないと思うし。沢山働いて、絶対に幸せにします。」




美香は想像もしていなかった事に驚きながらも、指輪を受け取る前に 祐介に抱き付いた。




「ホンマにうちでええの?」




「美香ちゃんしかいない。」こんなに愛しくて、それなのに この人に愛されたくてしょうがない自分がいる。




あなたを知らなければ、僕はやぐざの息子という被害者面の上に もう一つ仮面をつけて、当たり障りなく学生生活を送っていたのだろうか?




僕は、マーメイドと一緒にいられる為ならば、どんな事でもします。




絶望という、どす黒い湯の中に長年つかったままの僕に そこから出る気力をくれたのは あなた。




美香は肩を揺らしながら泣いていた。




結婚という魔法の言葉。それは、家族がバラバラになってしまった時から ずっと空いていた美香の心の隙間を暖かく埋める。ずっとずっと寂しかったし、変わらずに、止むことなく 自分に降り注がれる愛が欲しかったのだ。




波の音と潮の香。湿った空気と海岸からの涼しい風。




不思議な色をした夜空の下で、祐介は美香の左手の薬指に 一粒ダイヤモンドの指輪をはめた。




こんなにも安心できて、幸せな気持ちになった事が あっただろうか?




二人はそんな事を考えながら一夜をともにした。




不安があっても、それよりも大きな安心感に包まれた時、




人はゆっくりと眠りに落ちる事が出来る。




そして、不安が絶えなくても 人はそれを一つずつ解決しながら 前に進むのだ。






8月の終わりに美香は日本を出た。







パリ 現地時間8月26日、天候 晴れ 気温21度。


本便はまもなく着陸態勢に入ります。シートベルトをお締めください。




(完)





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