真夏の夜
隅田川の件以来、美香の中で祐介の存在が少しずつ少しずつ大きくなっていた。
きりっとした顔立ちに落ちついた声と優しい言葉の数々。滑らかな標準語。いつも清潔感のある服装、そしてすらりと高い身長。
祐介のことを考えれば考えるほど好きになりかける。でもそれと同時にあることが思い出されるのだ。
純と一夜を共にしてしまったことである…。
最後までした訳ではないけれど、あんな風になってしまったのが悔やまれて仕方ない。自分の取った軽はずみな行動を美香は大きく後悔していた。あれから純から連絡が来ないのが唯一の救い。
そんなことがあったのに祐介を好きになってもいいのだろうか?迷いが生じてそこから先の感情へはなかなか発展しなかった。
学校の方は前期の試験も無事に済み長い長い夏休みに入っていた。美香は夏の集中講義をいくつか取り、銀座でのアルバイトはなるべく金土のみに抑えていた。恭子は出勤できるなら毎晩でも出て欲しいと言うのだが、平日まで のこのこと出勤すると本職で働いているお姉さま方に余計に煙たがれるのが目に見えているので なんだかんだ理由を付けては大阪に留まろうとするのだ。
その間に、優が受験対策の補習のクラスへほぼ毎日行くので弁当を用意したり、一人になる時間を使ってようやく押入れの洋服の整理を完了させた。
あの日、達也と別れてから 今まで彼にもらったアクセサリーや時計などの貴金属やマリモの瓶までを全て一つの箱にまとめて押入れの天袋にしまい込んだ。
手付かずだった洋服の方も 達也に買ってもらったものは全てダンボールに詰め込む。こっちの方も恨みを込めて一気に捨ててやる!なんてことは出来ずにガムテープで封をして押し入れの奥に押しやる。
すっかりカサの減ってしまったプラスチックの引き出しを見つめながら、新しい自分になれる洋服を少しずつ買いたいわ。そんな風に思った。
8月に入り祐介の誘いで美香は寿司屋にいた。目の前で握ってもらえる寿司屋でシャリがまだほんのり暖かい。新鮮で美味しいネタに笑顔がこぼれる。
土曜日なので美香はお店に出勤しなければならなかった。一旦別れて、お店が終わった後にホテルのラウンジで会う約束をした。
「お疲れ様。今夜も忙しかった?疲れてるかな?」
「ぼちぼち。うちは元気よ、美味しいお寿司を食べに連れて行ってもらったから」
「そっか(笑)良かった」
深夜のラウンジで祐介は間近に座る仕事帰りの美香の姿に見とれていた。柔らかいライトに照らされてなめらかに見える細い指先、華奢な腕…。彼女を形作っている全てがきれいで 触れたい気持ちが募るばかりだ。
美香の方はある事を裕介に言おうか言うまいか考えていた。
それは純のことだ…。純と祐介は友達のようだから隠しておけることではない。言ってしまえば祐介とはもう疎遠になるかも知れない。それでも美香は覚悟の上で口を開き始めた。
「あの……うち、一つ言わなあかんことがあんねんけど……」
「何?」
祐介と目が合うと急に言い出す勇気がしぼんでゆく。今、ここで言うべき事なのかすら分からなくなってきてしまった。近くのテーブルにカップル客が座る。
「なんかここでは話しにくいねん。うちの部屋でもいい?」
「いいけど…じゃあここ出ようか?」
16階の部屋に辿りつくまでエレベータの数字を見つめたまま二人は無言だった。
終始無言のまま美香はふかふかの廊下を進み、祐介が後に続く。
部屋の扉を開けた時、シルクの様に透けるカーテン越しに視界に入ってくる夜景に祐介が感激して声をあげた。
「すごー。さすが16階だね。すっげーきれいだわ…」
「そうよ、きれいやろ。うちはこんないい部屋に毎週泊まらせてもらってるんやからホンマに感謝せなあかんねん。…シャンパンあるけど飲む?」
「う、うん」祐介は窓辺に立ち尽くしたままで答えた。
美香はシャンパンを開けて二つのグラスに注ぐ。テーブルまで運び席につき
生まれては消える小さな泡をなんだか切ない気持ちで眺めていた。
「言わなきゃいけないことって何?」祐介が椅子に座りながら話を戻す。
美香はグラスのシャンパンを一気に飲み干して潤んだ目で祐介を見つめながら話し始めた。
「うち、あれから祐介さんのこといいなって思い始めてる。でも…付き合えるほどいい女じゃないねん」
「なんで?」
「祐介さんと純さんって友達やろ?うちはその純さんと前に一晩一緒に過ごしてしまった。最後まではしてない、失恋した直後で落ち込んでた、お酒も沢山飲んでしまって何も考えられへんかったし、色んな言い訳があんねんけど そういう事をしてしまったねん。今はめちゃめちゃ後悔してるけど…でももう取り消せへんから」
「最後まではしてないんでしょ?」
「そう…けど、…」
「それなら気にしないから。聞かなかった事にする」
美香は困った様な表情を浮かべて2杯目のシャンパンをつぎ口をつけた。自分が祐介の気持ちに答えるべき誠実さを持ち合わせてない気が痛いほどして歪んだ悲しみが胸を打つ。
「うち、ホンマに祐介さんにふさわしい女やないねん。前の彼氏にもらった物を全部まとめて封印した。全部忘れて前向きに頑張りたい。強くなりたいのに まだなれへん、うまくいかへんねん」
「そんなの少しずつでいいじゃん。本当は僕以外の人のことなんて さっさと忘れろよ!って言いたいけど少しずつでいいんじゃない?」
落ち着いていて誠実なその声が心に染み渡る。
どうしてこの人はこんなにも優しいのだろう…。世界でたった一人、今の自分の心を分かってくれる人なのだと言うの?今、私も好きと言ったならばその優しさを永遠に降り注いでくれるのかしら?
祐介を見つめる美香の目は涙が溢れていた。
美香ちゃんが誰かを完全に忘れるまでボーッと持ってることなんで出来ないよ。あなたの心にまだ誰かが住んでいてもいいから あなたが欲しい。祐介の心は再び高ぶり、気がつくと席を立って泣いている美香を抱き寄せていた。
「ありがとう…、なんでいつもこんなに優しいねん?」そう言うと美香は激しく泣き出した。
出勤してからのアルコール、ラウンジでのカクテル、部屋でのシャンパン。完全に酔っ払った美香は誰にも言えなかった感情を一気に口にし始めた。
「うちな、プルメリアで嫌われてるねん。煙たい存在。恭子ママとの出会いがあって東京でアルバイトするチャンスを頂いてバイト始めたのに気がついたらお店中の女の子に嫌われてしまった。何も悪い事してないと自分では思ってても何かがいけないねん。
昔はな、クラスの女の子に男たらしって言われてん。いつも目立たへんように努力してるんやけど、何故か目立ってしまって。夏祭りで男子に告白された次の日はうわさの的やし。高校の時なんてある日、靴箱に うちの彼氏○○くんに馴れ馴れしくせんどいて!っていう手紙も入ってたんやで。
ライブもそう。TAKEがインディーズの頃も達也さんの彼女ってすぐにうわさが立って、付き合いで出る他のバンドの打ち上げでもいつも白い目で見られてん。女の敵っていうやつ…。
うちに話しかけてくる人はホンマは興味本位でやねん。
でも、恭子ママにはホンマに感謝せなあかんねん。高いお給料もらってるし、このお給料がなかったら来年弟が大学に行けへんから うちはもっと頑張らないとあかんの。
頑張らないと幸せになれへんから。今のままでは幸せになれへんねん。普通の家庭に生まれたのに途中から普通じゃなくなってしまったねん」
祐介はしゃべり疲れた美香をベッドに運び、横で添い寝をしながら尚も美香の話を黙って聞いた。
彼女が中学1年の時から姉弟だけ暮らすようになり、その頃から今まで6年間も達也と付き合っていたことを知った時は戸惑った。終わった関係とは言え自分の入り込む隙間なんてあるのだろうか?それでも目の前で憔悴しきっている彼女を見てその心の傷の深さがいたたまれなかった。
こんなにも可憐な顔を生まれ持つ。有名大学へ通い、週末は銀座の一流のお店でプロ顔負けの人気嬢として一身に光を浴びる。傍から見れば誰もが憧れるスーパー女子大生なのに人知れず心はこんなにも傷ついてるのだ。
ただの失恋では留まらない色んな現状を抱えて生きてる美香に初めて祐介が気がついた夜だった。
彼女の心の中を垣間見ることが出来て、この人を絶対に幸せにしたい。強く強く心に思う。
ベッドサイドのボタンで白熱灯の明かりを暗く落として、疲れ果てて眠りに落ちてしまった美香の寝顔を長い間見つめた。外はもう夜明け。本当はいい香りがするはずなのに仕事のせいでタバコの匂いにまみれてしまった彼女の髪をそっとなでた。
あなたの事が好きで好きでたまらないから…。祐介は心の中でつぶやいた。




