王宮を追い出された日、私は死んだ王女の忘れ物を拾った
「リリア・ベルフォード。本日をもって、お前を王宮の職務から解任する」
その言葉を聞いたとき、私が最初に考えたのは、明日の朝食をどうしようかということだった。
王宮の使用人には、一日三度の食事が支給される。
パンは少し硬いけれど、温かいスープがついてくる。週に二度は肉料理も出るし、冬には暖炉のある部屋で眠れる。
孤児院を出てから十年間。
私にとって、それは十分すぎるほど幸せな暮らしだった。
「聞いているのか?」
「あ、はい。聞いております」
慌てて頭を下げる。
目の前にいるのは王宮の人事を取り仕切る宮内長官、バルド侯爵。
その隣には、金色の髪をした美しい少女が座っていた。
新しく召喚された聖女、セレスティア様だ。
彼女の周囲には淡い光が漂っている。
神聖魔法の証だという。
美しいな、と素直に思った。
「お前の加護は《遺失物保管》だったな」
「はい」
「拾った物を保管し、持ち主へ返す。それだけの能力だ」
「はい」
「王宮にはすでに専門の管理官がいる。魔道具による遺失物管理も整備された。今さらお前のような者を置いておく必要はない」
「承知いたしました」
あっさり答えると、侯爵は不機嫌そうに眉を寄せた。
「……随分と物分かりがいいな」
「十年間、お世話になりましたので」
「不満はないのか?」
「はい。ですが、一つだけお願いがございます」
「なんだ」
「今朝、厨房で借りたエプロンを返してから退職してもよろしいでしょうか」
沈黙。
侯爵は何か言いたそうに口を開き、結局、深いため息をついた。
「勝手にしろ」
「ありがとうございます」
私はもう一度頭を下げた。
そのときだった。
「かわいそう……」
聖女様が小さくつぶやいた。
彼女の青い瞳が、私を見ている。
「十年も働いたのに、何も残らないなんて」
私は少し考えてから答えた。
「そんなことはありません」
「え?」
「たくさんの方から、ありがとうと言っていただきましたから」
聖女様は不思議そうな顔をした。
侯爵は鼻で笑った。
私は二人に礼をして、部屋を退出した。
扉が閉まる直前、侯爵の声が聞こえた。
「まったく。最後まで欲のない、つまらん女だったな」
私は廊下を歩きながら、少しだけ首を傾げた。
欲がないわけではない。
美味しいものは食べたい。
暖かい布団で眠りたい。
いつか小さな家に住んで、庭で花を育ててみたい。
それから。
誰かが大切にしていたものを、できるだけ持ち主へ返してあげたい。
ただ、それだけなのだ。
◇
私の仕事は、王宮で失くされたものを拾うことだった。
手袋。
髪飾り。
書類。
鍵。
子供が落とした木彫りの人形。
王宮の人々は、私のことを「忘れ物係」と呼んでいた。
馬鹿にする人もいたけれど、私はこの仕事が好きだった。
なぜなら、私には見えるからだ。
普通の人には見えない、落とし物の周囲に漂う小さな光。
それは持ち主の想いが形になったものだった。
青い光なら、懐かしさ。
赤い光なら、怒り。
桃色なら、愛情。
そして金色なら――。
「……あら?」
私は足を止めた。
王宮の西回廊。
すでに使われなくなった、古い礼拝堂へ続く廊下だった。
床の隅に、小さな鍵が落ちている。
銀色の鍵。
古びていて、飾りもない。
けれど。
「金色……?」
鍵の周囲に、金色の光が漂っていた。
私は思わず膝をついた。
金色の光を見るのは、初めてではない。
ただし、十年間で三度しか見たことがなかった。
一度目は、死んだ母親が娘に残した指輪。
二度目は、戦場へ向かった兵士が妻へ書いた最後の手紙。
三度目は、処刑された囚人の懐から出てきた、幼い子供の絵だった。
金色は、決して破ってはいけない約束の色。
私はそう呼んでいた。
「こんなところに……誰の鍵でしょう?」
手を伸ばす。
指先が触れた瞬間。
――カチリ。
小さな音がした。
どこか遠くで、鍵が回ったような音。
そして、目の前に文字が浮かび上がった。
【遺失物を確認しました】
【名称:星銀の鍵】
【所有者:エレノア・アルディス】
【状態:所有者死亡】
【最後の約束:十三年前の春、必ず迎えに行く】
私は息を止めた。
文字が見えるのは、いつものことだ。
けれど、亡くなった人の名前が表示されることは珍しい。
何より。
「エレノア……?」
その名前に、聞き覚えがあった。
王国の第三王女。
十三年前、王城の火災で亡くなったとされる、悲劇の王女。
肖像画は撤去され、記録の大半は封印されている。
王宮では、その名前を口にすることすら避けられていた。
「どうして王女様の鍵が、こんなところに……」
そのとき。
【未完了の約束を検出しました】
新しい文字が現れた。
【返還を希望しますか?】
【はい/いいえ】
私は目を瞬かせた。
こんな表示は、初めてだ。
これまで私の加護は、落とし物の持ち主を教えてくれるだけだった。
死亡した相手への返還など、できるはずがない。
私は少し迷った。
でも。
「……大切なものだったんですよね」
誰もいない廊下でつぶやく。
「返せるものなら、返してあげたいです」
そして、そっと答えた。
「はい」
瞬間。
鍵から光が噴き出した。
「きゃっ!」
金色の光が廊下を走る。
古い壁が震え、窓ガラスが音を立てた。
礼拝堂の扉に刻まれていた紋章が、一斉に輝き始める。
そして。
【第一の封印を解除しました】
【消失した記録を復元します】
目の前の空間に、少女が現れた。
透き通るような白い肌。
長い銀髪。
王族だけが身につける、青い宝石の首飾り。
少女は驚いたように私を見つめていた。
『……あなた、私が見えるの?』
声がした。
透き通った、寂しそうな声。
「は、はい」
『十三年よ』
少女は笑った。
泣きそうな顔で。
『十三年間、誰にも見つけてもらえなかった』
私は立ち尽くした。
少女はゆっくりと手を伸ばした。
『お願い。私の名前を、忘れないで』
「エレノア王女殿下……?」
その名前を呼んだ瞬間。
王城の鐘が鳴り響いた。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン。
普段は決して鳴らない、十三回の鐘。
王族が亡くなったときにだけ鳴らされる、弔いの鐘だった。
しかし、それはおかしい。
王女が亡くなったのは、十三年前のはずなのだから。
◇
「そこから離れろ!」
鋭い声が響いた。
振り返ると、黒い騎士服を着た男が廊下を駆けてきた。
銀の刺繍が施された外套。
腰には黒い剣。
整った顔立ちに、冷たい灰色の瞳。
見覚えがある。
近衛騎士団の副団長。
カイル・ヴァレンシュタイン様だ。
王国最年少で副団長に就任した、天才剣士。
使用人の間では、その美貌と無愛想さで有名だった。
「その鍵を置け!」
「えっ?」
「早く!」
私は慌てて鍵を床に置こうとした。
けれど。
『駄目!』
王女の声が響く。
『離しては駄目! また消される!』
私の手が止まった。
騎士様はすでに目の前にいた。
剣の柄に手をかけている。
「お前……何をした?」
「えっと……忘れ物を拾いました」
「ふざけるな!」
「ふざけておりません!」
思わず言い返してしまった。
騎士様が驚いたように目を見開く。
私自身も驚いた。
王宮で偉い人に口答えをしたのは、十年間で初めてだった。
けれど、この鍵を離してはいけない。
なぜだかわからないけれど、そう思った。
「……お前には、何が見えている?」
騎士様が低い声で尋ねた。
私は王女へ目を向けた。
「銀色の髪をした女の子がいます」
「……何?」
「十三年間、誰にも見つけてもらえなかったそうです」
騎士様の顔から血の気が引いた。
「その少女の名前は?」
「エレノア・アルディス様です」
沈黙。
騎士様は剣から手を離した。
そして、膝をついた。
私にではない。
私の隣にいる、透き通った少女に向かって。
「……姉上」
かすれた声だった。
「本当に……そこにいるのですか?」
私は息を呑んだ。
姉上?
この騎士様が、王女の弟?
そんなはずはない。
ヴァレンシュタイン家は公爵家。
王族ではない。
けれど、私が質問するより早く。
『カイル……』
王女が涙を流した。
『大きくなったのね』
騎士様の肩が震えた。
「……ずっと、探していました」
その声には、深い悲しみがあった。
「十三年間……ずっと」
私は二人を交互に見つめた。
何が起きているのか、さっぱりわからない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この鍵は、確かに持ち主のところへ帰りたがっている。
私は小さく微笑んだ。
「よかったですね」
騎士様が顔を上げる。
「何?」
「大切な方に、また会えたんですよね」
その瞬間。
王女の姿が揺らいだ。
『……逃げて』
小さな声。
『あの人たちが来る』
廊下の奥から、足音が聞こえた。
一人ではない。
十人、二十人。
重い鎧の音。
騎士様が立ち上がる。
「……遅かったか」
彼は私の腕を掴んだ。
「来い」
「えっ、でも私、エプロンを返さないと」
「今はそれどころではない!」
「それに、今日で王宮を解雇されまして……」
騎士様は一瞬、信じられないものを見るような顔をした。
「解雇?」
「はい。私、役立たずだそうです」
彼は無言になった。
そして。
なぜか、笑った。
「……役立たず、か」
それは冷たい笑いではなかった。
何かを諦めていた人が、ようやく希望を見つけたような笑い方だった。
「十年間、我々が探し続けても見つからなかったものを、お前はたった一度で見つけた」
「たまたまです」
「たまたまで済む話ではない」
彼は私の手にある鍵を見つめた。
「その鍵は王国の最重要機密だ。そして今、お前は王家の隠した真実を知ってしまった」
「……え?」
「おそらく、すでに追手が来ている」
私は廊下の奥を見た。
現れたのは、王宮の衛兵たちだった。
先頭には、先ほど私を解雇したバルド侯爵がいる。
侯爵は私の手元を見て、顔色を変えた。
「……なぜ、それを持っている?」
「あの、拾ったので……」
「その鍵を渡せ!」
侯爵の叫び声が響く。
私は思わず後ずさった。
だが、騎士様が私の前へ出た。
「バルド侯爵。彼女には私が用がある」
「ヴァレンシュタイン卿! そこをどけ! その娘は国家反逆の疑いがある!」
「つい先ほどまで、十年間王宮に仕えた使用人だったはずだが」
「それがどうした!」
「随分と罪を犯すのが早いものだな」
侯爵の顔が赤くなった。
「その女を捕らえろ!」
衛兵たちが剣を抜く。
私は震えた。
怖い。
ただの忘れ物なのに。
どうして、こんなことに。
そのとき、騎士様が静かに言った。
「リリア」
「は、はい」
「私と来い」
「でも……」
「仕事がないのだろう?」
「……はい」
「ならば雇おう」
「えっ?」
「給金は王宮の三倍。住む場所も食事も用意する」
私は思わず顔を上げた。
「三倍……?」
「ああ」
「毎日、温かいご飯が出ますか?」
「当然だ」
「……お風呂は?」
「好きなときに入れる」
私は真剣に考えた。
そんな良い職場が、この世に存在するのだろうか。
「お仕事内容は?」
騎士様は私を見つめた。
そして、はっきりと告げた。
「この国が忘れたものを、すべて取り戻してほしい」
その言葉を聞いた瞬間。
私の目の前に、無数の文字が浮かんだ。
【新しい依頼を受理しました】
【依頼者:カイル・ヴァレンシュタイン】
【対象:王国から消されたすべての約束】
【未返還件数:1,048,576件】
私は固まった。
百万。
百万件以上。
そんなにたくさんの忘れ物があるなんて。
そして最後に。
【特別依頼を確認しました】
【依頼名:世界の忘れ物】
【所有者:不明】
【返還期限:残り365日】
【期限を超過した場合、世界は初期化されます】
……はい?
私はもう一度、文字を読み直した。
世界が。
初期化?
どういうことだろう。
ただ、ひとつだけ言えることがあった。
どうやら私は、とんでもなく忙しい職場に転職してしまったらしい。
それでも。
騎士様の隣で泣いている王女様を見て、私は思った。
たった一つの忘れ物を返しただけで、これほど喜んでもらえるのなら。
きっと、この仕事も悪くない。
「……わかりました」
私は鍵を握りしめた。
「私でよければ、お手伝いします」
騎士様が微笑んだ。
「契約成立だな」
その背後で、侯爵が絶叫した。
「二人とも捕らえろ! 生かして逃がすな!」
騎士様は剣を抜いた。
銀色の光が廊下を走る。
私は思わず目を閉じた。
そして思った。
せめて。
厨房のエプロンだけは、返してから出てくればよかった。
◇
同じ頃。
王城最上階の玉座の間で、一人の男が目を覚ました。
老いた国王だった。
枕元には、一枚の古い肖像画が置かれている。
銀髪の少女。
十三年前に死んだはずの、第三王女。
国王は震える手で、その絵に触れた。
「……エレノア?」
忘れ去っていた名前。
思い出してはならないはずの名前。
そして、壁の向こうから声がした。
『最初の約束が、返還されました』
国王は顔を上げた。
『封印が一つ、解除されました』
「まさか……」
『世界の記録が、修復を開始します』
国王は悲鳴を上げた。
「やめろ! その記録だけは戻してはならん!」
だが、声は止まらなかった。
『次の返還対象を確認しました』
玉座の間に、赤い文字が浮かぶ。
【遺失物:王国の正統な王位継承権】
【本来の所有者:エレノア・アルディス】
【現在の不正所有者:現国王】
国王の顔が、死人のように青ざめた。
そして、誰もいない部屋で。
十三年前に死んだはずの王女の笑い声が響いた。
『――お父様。ようやく、私を思い出してくださったのね』




