7.王女を狙うカメラの影
鴨が、もう一度、がー、と鳴いた。たぶん、笑われていた。
「……私ね、ずっと、こういうことがしてみたかったの」
しばらくして、王女が、ぽつりと言った。
「コンビニで肉まん買うことが?」
「誰にも見られずに、普通の女の子として、何かをすること」
白金の髪をニット帽に押し込んだ横顔が、夕陽に照らされて、淡い橙色に染まっていた。
「生まれた時から、ずっと誰かに見られてきたわ。宮殿の中でも、外でも。私が何を食べて、何を着て、誰と話して、どんな顔をしているか。みんなが見ていて、みんなが何かを言うの」
「……」
「でも、今日は違った。誰も私を見ていなかった。あなたの後ろを歩いていたら、まるで、私も透明になれたみたいだった」
王女は、俺の方を向いた。
「ありがとう、灰原くん。……今日は、今までで一番、楽しい日だったわ」
真っ直ぐな、青い瞳。
俺は、なんと答えていいかわからなくて、からあげを一つ口に放り込んだ。
熱かった。
ものすごく、熱かった。
――その時だった。
「……あれ? ちょっと待てよ。あの子……」
背後の土手の上から、男の声がした。
振り返ると、首から大きなカメラを下げた中年の男が、こちらを凝視していた。よれよれのジャケットに、無精髭。いかにも、という風体だ。
「間違いねえ……エルステリアの王女じゃねえか!」
男が、カメラを構えた。
「『お忍び王女、放課後の買い食いデート』……こいつは、とんでもねえスクープだ!」
王女の顔から、さあっと血の気が引いた。
かしゃ、かしゃかしゃかしゃ、と。
立て続けに、シャッター音が鳴る。
「――立て」
俺は、王女の手首を掴んで立ち上がった。
「灰原くん……!」
「走るな。歩け。俺の後ろ」
「で、でも――」
「いいから」
俺は、王女の手を引いて、土手を下る細い道に入った。
後ろから、男が追ってくる足音がする。
川沿いの道を抜け、住宅街の路地に入る。角を二つ曲がると、古い商店街のアーケードが見えてきた。夕方の買い物客で、ちょうど混雑している時間帯だ。
「待てっ、おい! 一言だけ! 一言だけコメントを!」
男の声が近づいてくる。
俺は、人混みの中に、するりと入り込んだ。
「灰原くん、どこへ――」
「黙ってついてこい」
八百屋の前。魚屋の軒先。惣菜屋の行列の横。
俺は、人の流れと同じ速さで、人の流れと同じ方向に、ただ歩いた。
目立たないコツは、いくつかある。
周りと同じ速さで動くこと。急に止まったり、急に走ったりしないこと。人の視線が集まる場所――店の看板や、呼び込みの声や、目を引く商品――の、ちょうど反対側を通ること。
そして、誰とも目を合わせないこと。
十六年間、嫌というほど身につけてきた、透明人間の歩き方だ。
「……っ、灰原くん……」
人混みの中で、王女の手が、俺の手から離れかけた。
振り返ると、彼女は、人波に押されて、不安そうに周囲を見回していた。
その青い瞳が、すぐ目の前にいる俺の上を、一度――するりと通り過ぎた。
迷子の子どもみたいな顔だった。
「灰原だ」
俺は、彼女の手を掴み直した。
「ここにいる」
王女が、はっとしたように俺を見た。
それから、ぎゅっと、俺の手を握り返した。
驚くほど、強い力だった。
「……ええ。わかったわ。あなたの声は、すぐにわかる」
小さな、震える声だった。
俺は、その手を引いて、また歩き出した。
アーケードの中ほど、古い和菓子屋と文房具屋の間に、人ひとりがやっと通れるくらいの細い路地がある。地元の人間でもほとんど知らない抜け道だ。なぜ俺が知っているかといえば、この商店街の外れに、俺の家があるからだ。
路地を抜け、裏通りをもう一本曲がる。
表通りの喧騒が、嘘みたいに遠ざかった。
背後から、もう足音は聞こえなかった。
◇
後で聞いた話だが、あのカメラマンの撮った写真は、一枚残らずピンボケだったらしい。
どういうわけか、カメラのオートフォーカスが、王女ではなく「その手前にある何か」にピントを合わせようとして、迷い続けたのだそうだ。結果として、写真に写っていたのは、ぼんやりとした灰色の影と、その向こうで溶けた白金色の何かだけ。スクープどころか、心霊写真にしか見えなかったという。
その「手前にある何か」が何だったのかは、言うまでもない。
顔認識機能に一度も四角い枠を出してもらえなかった俺の顔は、プロ仕様のカメラにとっても、どうやら難問だったらしい。
◇
「――麗様ぁぁぁっ! ご無事で! ご無事でよかったっすぅぅぅ!」
裏通りを抜けた先の、小さな公園。
上空から急降下してきたドローンに発見されて三分後、護衛四人が、文字通り飛んできた。
獅堂ひなたは、王女に抱きついて号泣している。鷹宮紫苑は「もう、心臓が止まるかと思いましたわ」と胸を押さえ、七瀬ノアは「……ミツバチ、麗様は発見。……でも、隣の反応、やっぱりゼロ」とタブレットを睨んでいる。
そして、氷室凛は。
「――そこの男子」
竹刀袋を肩に担いで、俺の前に仁王立ちしていた。
「貴様、何者だ」
「灰原だ」
「灰原……? ああ、窓際の……」
凛は、こめかみを押さえた。
「……名前が、また抜けていた」
名乗ったのは、これで三回目だ。
「麗様を連れ出したのは、貴様か」
「凛、違うの!」
王女が、獅堂ひなたの腕の中から、身を乗り出した。
「私が頼んだの。灰原くんは、私を助けてくれたのよ。カメラを持った人に追いかけられた時も、この人が――」
「麗様」
氷室凛は、静かに王女の言葉を遮った。
「麗様のお言葉は、承知いたしました。この男子に悪意がないことも、信じましょう。……ですが、お達しはお達しです」
そして、俺を見据えた。
「ひなた」
「……ぐすっ、了解っす」
獅堂ひなたが、鼻をすすりながら王女から離れ、俺の方へとことこ歩いてくる。
そして、ひょいっと。
俺は、再び米袋になった。
「対象男子、連れて行くっす……」
「……おい」
「ごめんなさいっす。でも、お仕事なんで」
獅堂ひなたは、泣き腫らした目で、申し訳なさそうに笑った。
小脇に抱えられた俺の視界の端で、鷹宮紫苑が、なぜか口元に手を当てて、にまにまと笑っているのが見えた。
「あらあら……『カメラを持った人に追いかけられた時も、この人が』……ですって。まあまあまあ」
「紫苑、何がおかしい」
「いいえ、なんでもありませんわ、凛。……ええ、なんでもありませんの」
七瀬ノアは、じっと俺を見つめて、ぼそりと呟いた。
「……観測対象、H。……興味深い」
運ばれていく俺に、王女が、両手を口に当てて、叫んだ。
「灰原くん! 今日は、本当にありがとう!」
それから、少しだけ、恥ずかしそうに。
「……肉まん、とっても、おいしかった!」
夕焼けの公園に、その声が響いた。
俺は、米袋の姿勢のまま、片手だけ上げて応えた。
――影が薄いことが、誰かの役に立ったのは。
たぶん、生まれて初めてだった。




