6.「あーん」する作法なんてあったっけ?
「半歩後ろ。俺と同じ速さで。きょろきょろするな。人の顔を見るな。……俺の背中だけ見てろ」
王女は、なぜか、少しだけ目を見開いた。
「……誰かの背中について歩くのは、初めてだわ」
「は?」
「凛たちは、いつも私の前か、周りにいるの。後ろを歩いたことなんて、一度もない」
王女は、ニット帽の下で、小さく笑った。
「ちょっと、わくわくするわね」
それから、こくりと頷いた。
「……ええ。わかったわ。あなたの背中だけ、見てる」
……変なことを言うな。心臓に悪い。
十六時十分。
校舎の上空を旋回していた小さなドローンが二機、すうっと東の方へ飛び去っていく。
「今だ」
俺たちは、渡り廊下から西側の中庭へ抜け、植え込みの陰を伝って裏門へ向かった。
裏門の前には、黒いスーツの大柄な外国人が一人、腕を組んで立っていた。サングラスの奥の目が、油断なく周囲を見回している。
王女が、俺の袖をきゅっと掴んだ。
「……灰原くん。あのひと、こっちを見ているわ」
「大丈夫だ。あの人が探してるのは、白金の髪の少女と、黒服の仲間だ。ニット帽の女の子と、地味な男子の二人連れは、探してるものの中に入ってない」
「え?」
「いいから、そのまま歩け」
俺は、歩く速さを変えずに、まっすぐ裏門に向かった。
だが、袖を掴んだ王女の指が、小さく震えているのが、布越しに伝わってきた。
「……袖だと、はぐれる」
「え?」
「手」
俺は、前を向いたまま、後ろ手に、左手を差し出した。
一拍、置いて。
おずおずと、小さな手が、俺の手に重なった。
あたたかくて、少し汗ばんでいて、やっぱり震えていた。
「……大丈夫だ」
根拠なんて、何もない。
それでも、王女の指が、きゅっと、俺の手を握り返した。
黒服の男が、こちらを向く。
その視線が、俺たちの上を、通り過ぎる。
人間の目というのは、案外いい加減なものだ。見ようとしたものしか見えないし、見えると思ったものしか見ない。そして、俺という存在は、昔から、どういうわけか誰の「見ようとするもの」の中にも入らない。
だから、俺の半歩後ろにぴったりくっついて、俺の背中に隠れるように歩いている少女のことも――。
黒服の男の視線は、校舎の方へ向けられた。
そのまま、何事もなかったように、裏門をくぐる。
五メートル。十メートル。二十メートル。
角を曲がったところで、王女が、ぷはっと息を吐いた。
「……ほ、本当に、気づかれなかった……!」
「だから言っただろ」
「すごい……すごいわ、灰原くん! あなた、魔法使いなの?」
「ただの影の薄い男だ」
王女は、ニット帽の下で目をきらきらさせながら、ぴょんと小さく跳ねた。
つないだ手が、ぐいっと引っぱられる。
「……おい、手」
「え? ……あっ」
二人同時に、視線を落とす。
繋ぎっぱなしだった。
王女の頬が、ぼっと赤くなった。
「ご、ごめんなさい、離すわね」
「あ、ああ」
王女の手が、離れかけて。
ぴたりと、止まった。
「…………あの」
「なんだ」
「もう少しだけ、このまま、じゃ、だめ? 緊張が、まだ解けなくて」
ニット帽の下から、青い瞳が、上目遣いに俺を見上げていた。
……ずるい。
断れるわけが、ないだろう。
「……好きにしろ」
「ありがとう」
ふにゃり、と王女が笑った。
その笑顔を見ないように、俺は、まっすぐ前だけを見て歩いた。
◇
学校から歩いて七分。
国道沿いの、ごく普通のコンビニの駐車場が見えてきたところで、どちらからともなく、手を離した。
手のひらが、急に寒い。
……何を考えてるんだ、俺は。
「ここが……」
王女は、ガラス張りの店構えを、まるで大聖堂でも見上げるみたいに見つめていた。
「普通の、コンビニ……」
「普通のコンビニだ」
「中に、人がいるわ!」
「いるな。普通だからな」
俺は、自動ドアの前に立った。
しーん。
開かない。
「……」
「灰原くん? 入らないの?」
「……開かないんだ。俺だと」
「え?」
「自動ドアのセンサーが、俺を感知しない。昔からだ」
王女は、ぽかんと口を開けた。
それから、おそるおそる一歩前に出て、俺の隣に並んだ。
ういーん。
自動ドアが、滑らかに開いた。
「いらっしゃいませー」
店員の気の抜けた声が響く。
王女は、開いたドアと俺の顔を、交互に見比べた。
「……私がいると、開くのね」
「そうみたいだな」
「ふふっ……あははっ」
王女が、声を上げて笑った。
教室では決して見せない、屈託のない笑い声だった。
「おかしいわ、灰原くん。私がいないと、あなた、コンビニにも入れないのね」
「普段は、他の客の後ろにくっついて入ってる」
「じゃあ、今日は私が、あなたの自動ドアね」
「……妙な称号だな」
「だから、これからも、ずっと一緒にいないとね」
王女は、無邪気に言った。
……だから、言い方というものがあるだろう。
それからの二十分間は、なんというか、ひとつの冒険だった。
「灰原くん、見て! このガラスの箱の中、あたたかいわ! まんまるのパンがたくさん並んでいる!」
「肉まんだ」
「にくまん!」
「中に肉が入ってる」
「まあ! パンの中に、お肉が!」
王女は、ホットスナックのケースにへばりつくようにして、肉まん、あんまん、ピザまん、カレーまんを一つずつ指さしては、名前を確認していった。
「こっちの、茶色くてころころしたのは?」
「からあげ」
「からあげ! 聞いたことがあるわ。日本の国民食ね!」
「国民食かどうかは知らん」
店内の他の客たちは、ニット帽をかぶった外国人風の美少女がはしゃぐ姿を、微笑ましそうに眺めていた。王女だとは、誰も気づいていないらしい。まさか一国の王女が、こんな国道沿いのコンビニで肉まんに感動しているとは、誰も思わないのだろう。
ちなみに、品出し中の店員さんに「すみません、通ります」と声をかけたら、「あ、はい」と、普通に返事をされた。
見てもらえる時は、見てもらえるのだ。自動ドアにだけは、ずっと見てもらえないが。
レジ待ちの列で、前に並んでいたおばあさんが、くるりと振り返って、にっこり笑った。
「かわいいお嬢さんねえ。デート?」
「で、でーと……」
王女の動きが、ぴたりと止まった。
「ち、違います。ただの同級生で」
「あらあら、そうなの。ふふ」
おばあさんは、意味ありげに微笑んで、会計に向かっていった。
隣で、王女が、ぼそりと呟いた。
「……違うの?」
聞こえなかったことにした。
断じて、聞こえなかったことにした。
「――肉まんを一つと、からあげを一つ、ください」
レジで、王女は緊張した面持ちで注文した。
「肉まんとからあげですね。ポイントカードはお持ちですか?」
「ぽ……ぽいんと?」
王女が、助けを求めるように俺を振り返った。
「……ないです、って言え」
「な、ないです!」
「かしこまりましたー。袋はご利用ですか?」
「ふ、ふくろ……?」
「いらない、って言え」
「いらないです!」
「お会計、四百八十円になります」
王女は、制服のポケットから、黒く輝くカードを取り出した。
店員の目が点になった。
俺も、点になった。
「……それ、しまえ」
「え? これで払えないの?」
「払えるかもしれないけど、しまえ。いろいろ面倒なことになる」
俺は、自分の財布から五百円玉を出して、トレーに置いた。
「二十円のお返しです。ありがとうございましたー」
王女は、肉まんとからあげを、まるで宝物みたいに両手で抱えて、店を出た。
出る時、自動ドアはちゃんと開いた。彼女が一緒だったから。
「灰原くん、お金、あとで返すわ」
「いらん」
「でも」
「……次に来た時にでも、奢ってくれ」
言ってから、しまった、と思った。
「次!?」
王女の顔が、ぱあっと輝いた。
「次が、あるのね! 一回だけじゃ、なかったのね!」
「いや、今のは言葉の綾で――」
「約束よ、灰原くん。指切りも、したもの」
……ここで、指切りを持ち出すか。
外堀を、埋められた。
◇
コンビニの裏手を流れる川沿いの、古びたベンチ。
俺たちは並んで座って、肉まんを半分こした。
俺が割ると、ほわっと白い湯気が立ちのぼった。
「……熱っ」
「気をつけろ。中は熱い」
「はふっ……ふっ……」
王女は、小さな口で懸命に肉まんを冷ましながら、一口かじった。
もぐ、もぐ。
「…………おいしい」
ぽつり、と。
噛みしめるように、彼女は言った。
「とっても、おいしいわ。灰原くん」
「そうか」
「宮殿の料理人が作るどんなお料理より、おいしい気がする」
「それは気のせいだ。たぶん」
「気のせいでもいいの」
王女は、川面に反射する夕陽を眺めながら、もう一口かじった。
その頬に、肉あんの小さな欠片が、ちょこんとついていた。
「……ついてるぞ」
「え? どこ?」
「右のほっぺた」
「ここ?」
「もうちょっと上」
「こう?」
空振り。王女の指は、見事に外れ続けた。
……だめだ、見ていられない。
「じっとしてろ」
俺は、ほとんど反射的に、親指を伸ばして、王女の頬の欠片をぬぐった。
指先が触れた瞬間、王女の肩が、びくっと跳ねた。
……待て。俺は今、何をした。
王女の動きが、停止した。
俺の動きも、停止した。
鴨が、がー、と鳴いた。
「……す、すまん」
「い、いいえ。……ありがとう」
お互い、全力で、川を見た。
しばらく、無言。
先に口を開いたのは、王女のほうだった。
それから、からあげを爪楊枝で刺して、俺の方へ、ずいっと差し出した。
「はい、灰原くん。あーん」
「…………は?」
「コンビニでは、こうするのが正しい作法だと、紫苑が言っていたの。『食べ物を分け合う時は、あーん、ですわ』って」
「あの人は、何を教えてるんだ……」
「違うの?」
「違う。……いや、違わないこともないが、人前でやることじゃ」
「人前じゃないわ。川と、鴨と、あなたしかいないもの」
王女は、きょとんとして、爪楊枝を引っ込めない。
鴨が、がー、と鳴いた。
……逃げ場がなかった。
俺は、観念して、口を開けた。
からあげを、ぱくりと食べた。
熱かった。味は、まったくわからなかった。
「おいしい?」
「…………熱い」
「ふふ。灰原くん、顔が、真っ赤」
「夕陽だ」
「そうかしら」
王女は、くすくすと笑って、爪楊枝に残ったからあげを、ぱくりと自分の口に運んだ。
……待て。
それは、さっき、俺が食べた爪楊枝だ。
「……おい、それ、同じ――」
「え?」
王女は、きょとんとして、もぐもぐと咀嚼して。
それから、ゆっくりと、手の中の爪楊枝を見た。
もう一度、俺を見た。
……三秒後。
ぼんっ、と音がしそうな勢いで、王女の顔が、耳まで真っ赤に染まった。
「ち、ちがうの! これは、その、作法で、紫苑が……!」
「……紫苑さんには、一度、俺からも話をしたい」
「ゆ、夕陽よ! これは夕陽のせいよ!」
「…………そうか」
さっきの俺の台詞を、そっくりそのまま返された。
川面は、一面、オレンジ色に染まっていた。
けれど、隣に座る少女の耳の赤さは、どう見ても、夕陽のせいだけじゃなかった。
……たぶん、俺の顔も、そうなんだろう。
俺は、膝の上で拳を握りしめて、川面を睨みつけた。
からあげの味は、結局、最後までわからなかった。




