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5.君の髪に触れると絹の糸のようだった


「無理だ」


 俺は即答した。


 昼休み、校舎の屋上へ続く階段の踊り場。立入禁止の札がかかった扉の前は、俺が中学時代から愛用している「誰にも見つからない場所」の高校版だ。入学三日目にして発見した、校内屈指の安全地帯である。


 そこに今、王女がいた。


 護衛四人を「お手洗いに行くわ」の一言で巻いて、俺の後をこっそりついてきたらしい。


 問題は、この踊り場が一人用に設計されていることだ。二人で座ると、肩と肩の間は、拳ひとつぶんしかない。


「どうして無理なの?」


 王女は、階段の一段上に腰かけて、不満そうに首を傾げた。さらりと流れた白金の髪が、俺の肩先をかすめる。


「護衛がいるだろ。コンビニくらい、あいつらと行けばいい」


 髪が触れた肩を、さりげなく反対側に寄せながら言った。


「行ったわ。先週、日曜日に」


「じゃあ――」


「お店が、貸し切りになったの」


 王女は、遠い目をした。


「凛が事前に連絡して、お店のひとを全員外に出して、ノアのドローンが天井を飛んで、ひなたが入口で仁王立ちして、紫苑が店員さんに『本日はご協力感謝いたしますわ』って封筒を渡していたわ。……私は、誰もいないお店の中を、ひとりで歩いただけ」


「……」


「それは、コンビニではないと思うの」


 たしかに、それはコンビニではない。


 何か別の、もっと緊張感のある施設だ。


「私が知りたいのは、みんなが知っているコンビニなの。レジに人が並んでいて、店員さんが『いらっしゃいませー』って言って、あたたかい食べ物がガラスの箱に入っていて……そういう、普通のコンビニ」


 王女の青い瞳が、じっと俺を見つめていた。


 そして、ぐい、と身を乗り出してきた。


「お願い、灰原くん。放課後、一度だけでいいの」


 近い。


 青い瞳に、俺の間抜けな顔が映り込んでいるのが見える。それくらい、近い。


 俺は、背中を壁に押しつけた。これ以上、下がれない。


「ち、近い」


「え? ……あっ」


 王女は、ぱっと身を引いた。それから、自分の顔の近さに今さら気づいたのか、頬をほんのり染めて、こほんと咳払いをした。


「ご、ごめんなさい。……でも、お願いは本気よ」


「……なんで俺なんだ」


「だって、あなたしかいないもの」


 あっさりと、彼女は言った。


 俺の心臓が、いらないところで跳ねた。


 ……勘違いするな。今のは、そういう意味じゃない。ただの消去法だ。わかってる。わかってるが、言い方というものがあるだろう。


「この学校で、凛たちに気づかれずに私の隣にいられるのは、あなただけでしょう?」


 ほらな。


 ぐうの音も出なかった。理屈としては、まったくもって正しい。


「……見つかったら、また米袋にされるぞ。俺が」


「その時は、私が全力で庇うわ」


「昨日も庇ってくれたけど、結局運ばれた」


「……今度は、もっと全力で庇うわ」


 王女は、両手をぎゅっと握りしめた。


 その真剣な顔を見ていたら、なんだか断るのが馬鹿らしくなってきた。


 俺は、深々とため息をついた。


「……一回だけだぞ」


「本当に?」


「一回だけだ。あと、俺の言うとおりにしろ」


「ええ、ええ! なんでも言うとおりにするわ!」


 王女は、ぱっと顔を輝かせた。


 表情の変化はほんのわずかなのに、なぜかそれが、花が咲くみたいに見えた。


 それから、右手の小指を、すっと俺の前に差し出した。


「……なんだ、それ」


「約束の印。指切り、というのでしょう? 本で読んだの」


「子供か」


「いいから。ほら」


 断る理由が、もう見つからない。


 俺は観念して、自分の小指を絡めた。


 細くて、驚くほどあたたかい指だった。


「ゆーびきり、げんまん」


 王女は、大真面目な顔で、ぶんぶんと腕を振った。


「うそついたら、はりせんぼん、のーます」


「物騒だな」


「ゆびきった」


 指が離れても、小指だけが、しばらく熱かった。


◇


 計画を立てるにあたって、まず必要なのは情報だ。


 護衛四人の放課後の動き。校門の警備体制。七瀬ノアのドローンの巡回ルート。黒服の大人たちの配置。


 普通なら、そんな情報を集めるのは不可能だろう。相手は、一国の王女を守るプロ集団だ。


 だが、俺には、ある特技がある。


 五時間目と六時間目の間の休み時間。俺は、教室の後ろの、掃除用具ロッカーの陰に立っていた。ロッカーの前では、護衛四人がひそひそと打ち合わせをしている。手を伸ばせば、氷室凛のポニーテールに触れられる距離だ。


「――本日の下校ルートだが、正門に車を待機させる。十六時十五分出発予定」


「了解っす。ひなたは正門前で待機っすね」


「……ミツバチ一号から四号、校舎上空を巡回。十六時十分に、三号と四号のバッテリー交換。……二分くらい、西側が手薄になる。めんどい」


「西側には裏門がありますものね。念のため、わたくしが見張っておきますわ」


「いや、紫苑は麗様のお傍に。裏門は、黒服の方々に任せる。十六時から十六時十五分まで、南の通用口に二名、裏門に一名」


「ひなた、トイレの前で待ってればいいっすか? 麗様、最近トイレ長いっすよね」


「……長い。昼休み、十五分いなかった」


「女性の身だしなみには時間がかかるものですわ。詮索は無粋ですのよ」


 ふむふむ、と俺は頷いた。


 四人の誰も、背後のロッカーの陰には目を向けない。


 当たり前だ。誰だって、掃除用具ロッカーの陰に人が立っているとは思わない。思っていないものは、見えない。十六年間、俺はずっとこうやって生きてきた。人の輪のすぐ外側で、誰にも見られずに、誰かの話を聞いている。


 寂しい特技だと、ずっと思っていた。


 まさか、それが役に立つ日が来るとは。


「――以上だ。……それと、もうひとつ」


 凛の声のトーンが、わずかに下がった。


「今日の麗様は、ご機嫌がよすぎる。昼休みから戻られて以来、三回も窓の外を眺めておられた」


「あ、それ、ひなたも思ったっす! ずっとにこにこしてるっす!」


「……ん。鼻歌、うたってた」


「女性が突然ご機嫌になる理由は、古来ひとつと決まっておりますわ」


 紫苑が、扇子を口元に当てて、ふふ、と笑った。


「…………まさか」


 凛の目が、すっと細くなった。


「相手が、いる、と?」


 四人の視線が、教室の男子を、一人ずつなぞっていく。


 サッカー部の爽やかなエース。眼鏡の学級委員。机で寝ている不良っぽいやつ。


 俺は、ロッカーの陰で、息を止めた。


「怪しいのは、あの辺りか……」


「サッカー部のあいつ、麗様に挨拶してたっす!」


「……あいつ、要注意」


「放課後までに、身辺調査をいたしましょう」


 ……俺の名前は、最後まで出なかった。


 ありがたいような、そうでもないような、複雑な気持ちである。


「何か質問は」


「はいっす! 今日の購買のメロンパン、何味っすか?」


「知らん」


「……ん。あと、この辺、なんか……空気が、ひんやりする。……気のせい?」


 七瀬ノアが、きょろきょろと周囲を見回した。


 その視線が、ロッカーの手前でぴたりと止まって、くるりと別の方向へ逸れていく。


 ……惜しい。あと三十センチ。


「気のせいだ。解散」


 四人はそれぞれの席に戻っていった。


 俺は、自分の席に戻ってノートを開き、今聞いた情報を簡単な図にまとめた。


 十六時十分。バッテリー交換。西側。裏門の見張りは、一名。


 隣の席で、王女が興味津々という顔で、俺のノートを覗き込んでいた。肩が触れそうなくらい近い。


「……すごいわ、灰原くん。まるで、探偵みたい」


「探偵は、もっと格好いい」


「あら。今のあなたも、十分格好いいわよ?」


 さらりと言われて、俺はシャーペンの芯を折った。


「ここ、私?」


 王女が、図の中央の小さな丸を指さした。


「記号だ」


「かわいくないわ」


「記号に可愛さはいらない」


「……じゃあ、私が直しておくわね」


 王女は、俺のペンを勝手に借りて、丸の上に、ちょこんと小さな王冠を描き足した。


 それから、満足そうに、ふふん、と笑った。


 ……ただの記号が、急に、王女になった。


 その日の午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


◇


 決行は、十六時八分。


 六時間目の終わりのチャイムと同時に、王女は「お手洗いに」と言って教室を出た。獅堂ひなたが「了解っす!」とついていき、トイレの前で待機する。ここまでは、毎日のルーティン通り。


 問題は、ここからだ。


 白鷺学園の旧校舎側の女子トイレには、清掃用具入れを兼ねた小部屋がある。その奥の扉は、なぜか廊下の反対側――渡り廊下へと続いている。


 なぜ俺がそんなことを知っているのかというと、入学初日に校舎の構造をすべて歩いて確かめたからだ。影の薄い人間にとって、「誰にも見つからない動線」を把握しておくことは、生存戦略の基本である。断じて、女子トイレに入ったわけではない。用務員さんの後ろについて歩いていたら、たまたま知っただけだ。


 渡り廊下の陰で待っていると、小部屋の扉が、きい、と開いた。


 王女が、おそるおそる顔を出す。


「……灰原くん?」


「灰原だ。こっち」


 小声で呼ぶと、王女はほっとしたように駆け寄ってきた。


「ひなたは?」


「トイレの前で、メロンパン食べてる。たぶんあと五分は気づかない」


「まあ……」


 俺は、手に持っていたものを差し出した。


 落とし物箱から拝借してきた、黒いニット帽だ。持ち主には後で返す。たぶん、持ち主も俺と同じくらい影が薄いのだろう。入学式の日から、ずっと落とし物箱に入っていた。


「髪、これに入れろ」


「え?」


「その髪は目立ちすぎる。百メートル先からでもわかる」


「……そんなに?」


「そんなにだ」


 王女は、不満そうに唇を尖らせながら、長い白金の髪をくるくるとまとめて、ニット帽の中に押し込もうとした。


 入らない。


 押し込むそばから、髪が、さらさらとこぼれ落ちてくる。


「……入らないわ」


「貸せ」


「え?」


「時間がない。後ろ向け」


 王女は、一瞬きょとんとして、それから、おとなしく背中を向けた。


 俺は、こぼれた髪を手ですくって、帽子の中に押し込んだ。指先に触れた髪は、冷たい絹糸みたいにさらさらしていた。


 帽子を深くかぶせて、前に回り込み、前髪を整える。


「……っ」


「動くな」


「は、はい」


 王女は、ぎゅっと目をつぶっていた。


 まつ毛が、長い。


 ……いや、見るな。作業に集中しろ。


「なんで目をつぶってるんだ」


「だ、だって、顔に、触るから」


「触るのは帽子だ」


「それでも、近いの!」


 さっき踊り場で俺に「近い」と言われた人間の、堂々たる逆襲だった。


 ……お互いさまだ。


「……よし。できた」


 一歩下がって、全体を確認する。


 それでも、まだ目立つ。顔が。たたずまいが。存在そのものが。


 ……まあ、仕方ない。完璧を求めてはいけない。


 ただ、ニット帽をかぶった王女は、普段の凛とした姿とはまるで違って、そこらの女子高生と同じくらい、いや、それより少しだけ、可愛かった。


 ……いやいや。何を考えてるんだ、俺は。


「いいか。俺の、すぐ後ろを歩け」


「すぐ後ろ?」


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