3.王女様に「あ~ん」は流石に出来ない
「王女様のお傍……それは、俺たち男子と王女様の間に引かれた、越えられない境界線……! なあ、そう思うだろ、灰原!」
急に話を振られた。
驚いた。犬飼が、俺の存在を認識しているとは。
「……ああ、まあ」
「だよな! お前もわかってくれるか! お前も王女様と話したいよな!」
「……」
俺は少し考えた。
今朝、出席の後に「毎朝あれをしているの?」と聞かれた。
一時間目の数学では「この記号はなんて読むの?」と聞かれた。
三時間目の英語では、逆に俺が発音を直された。
四時間目の終わりには「明日の天気はどうかしら」と聞かれて、「知らん」と答えたら、なぜか笑われた。
今日だけで、たぶん累計三十分くらいは話している。
「……そうだな」
俺は、曖昧に頷いた。
なんというか、言いづらい。
言ったところで、たぶん信じてもらえないだろうし、信じてもらえたらもらえたで、面倒なことになりそうな気もする。
それに――。
正直に白状すると、ほんの少しだけ、胸の奥がくすぐったかった。
この学校のすべての男子が焦がれてやまない少女が、俺にだけは、あの小さな笑顔を見せる。
それがどういう感情なのかは、まだよくわからない。優越感、と呼ぶには、俺はあまりにも「何もしていない」。ただ、元から座っていた席に、座り続けているだけなのだから。
「よし、決めた! 俺は明日、王女様に挨拶するぞ! 遠くから、全力で!」
「おお、犬飼!」
「勇者だ!」
「で、灰原、お前はどう思う……あれ?」
犬飼が、俺のいる方を振り返って、首を傾げた。
「……今、誰かと喋ってなかったっけ、俺」
「気のせいだろ」
「そっか」
犬飼は、あっさりと納得してパンを齧った。
俺は、そっとその場を離れた。
いつものことだ。中学三年間、同じクラスだった犬飼ですら、この調子なのだから。
◇
事件が起きたのは、その翌日の昼休みだった。
その日は、護衛の四人が珍しく王女の周りから離れていた。
氷室凛は「学食の警備体制を確認してくる」と言って出て行き、獅堂ひなたは「購買のメロンパン、今日こそ全種類制覇っす!」と叫んで走り去った。
七瀬ノアは教室の隅でドローンの整備をしながら船を漕いでいて、鷹宮紫苑はクラスの女子たちに囲まれて何やら恋バナに花を咲かせている。
窓際の最後列だけが、ぽっかりと静かだった。
俺は、いつものように祖母が作った弁当を広げた。
白いご飯に、梅干し。ほうれん草のおひたし。きんぴらごぼう。それから、祖母の得意料理である、甘い卵焼き。
「……灰原くん」
隣から、囁く声。
「それは、何?」
王女が、じっと俺の弁当箱を見つめていた。
彼女の机の上には、大使館の料理人が作ったという、宝石箱みたいな三段重ねの弁当が置かれている。ローストビーフ、テリーヌ、色とりどりの野菜のマリネ。なんだかよくわからないが、宝石のように輝いて見える。
「卵焼き」
「たまごやき」
「卵を焼いたやつ」
「それは、なんとなくわかるわ。……黄色くて、くるくるしてる」
王女の目が、卵焼きに釘付けになっていた。
表情はほとんど変わらないのに、目だけが「食べたい」と言っている。わかりやすい。
「……食うか?」
「いいの?」
「一個だけな。婆ちゃんの卵焼きは、甘いんだ」
俺は箸で卵焼きを一切れつまみ、少し迷ってから、弁当箱の蓋の上に置いて差し出した。さすがに「あーん」は、いろいろな意味で死ぬ。
王女は、自分の銀のフォークで、おそるおそる卵焼きを刺した。
ぱくり、と小さな口に運ぶ。
もぐ、もぐ。
「…………!」
青い瞳が、まんまるに見開かれた。
「甘い。……甘いわ、灰原くん。お菓子みたい」
「お菓子ではないけど……」
「不思議。とても美味しい」
王女は頬を押さえて、ふにゃりと目を細めた。
鉄壁王女だとか、氷の王女だとか、この数日で囁かれるようになった異名が、嘘みたいな顔だった。
――その時。
「……あら?」
教室の中ほどから、華やかな声がした。
鷹宮紫苑が、女子の輪の中からこちらを見ていた。
正確には、王女の手元――俺の弁当箱の蓋を。
「麗様、そのお弁当箱の蓋……どなたのものですの?」
王女が、ぴたりと固まった。
鷹宮紫苑の視線が、弁当箱の蓋から、それを差し出している手へ、手から腕へ、腕から肩へと、ゆっくり辿っていく。
そして、俺の顔の上で、止まった。
たっぷり三秒。
彼女の口元に浮かんでいた優雅な微笑みが、引きつった。
「――男子、ですわ」
すうっと、息を吸って。
「麗様のお傍に、男子がいますわーっ!!」
教室中に、よく通る声が響き渡った。
船を漕いでいた七瀬ノアが、がばりと顔を上げる。
「……え。うそ。センサー、反応ない……え、え?」
廊下の向こうから、ものすごい速度で足音が近づいてくる。
がらっ、と教室の扉が開いた。
「どこだッ!!」
氷室凛だった。竹刀袋に手をかけ、鬼の形相で教室を見回す。その後ろから、両手いっぱいにメロンパンを抱えた獅堂ひなたが飛び込んでくる。
「侵入者っすか!? どこっすか!?」
「窓際ですわ! 麗様の左隣!」
「左隣は空席のはず――」
氷室凛の視線が、王女の左隣に向けられる。
俺と、目が合った。
……いや、一度は合わなかった。「空席のはず」という思い込みが、彼女の目を、俺の上でするりと素通りさせた。けれど、次の瞬間、ぎぎぎ、と錆びついた機械みたいに、視線が戻ってきた。
「…………いる」
呆然とした声だった。
「いる。……なぜだ。いつから、そこに」
「最初から」
俺は、卵焼きをもう一切れ口に運びながら答えた。
「灰原だ。この席の」
「――ひなたァッ!!」
「了解っす!」
視界が、ぐるんと回った。
気がついた時には、俺は獅堂ひなたの小脇に、まるで米袋みたいに抱えられていた。小柄な体のどこにそんな力があるんだろうか。
「対象男子、確保っす!」
「連れて行く! 尋問室へ運べ!」
「ちょっ……弁当……」
獅堂ひなたは、俺を抱えたまま教室を飛び出した。
遠ざかっていく教室の中で、王女が慌てたように立ち上がるのが見えた。
「待って、凛! 灰原くんは何も――」
「麗様はお下がりください! 紫苑、ノア、麗様を!」
「は、はいですわ!」
廊下を運ばれていく俺を、すれ違う生徒たちが、ぎょっとした顔で見送っていた。
「なに今の」
「デカい荷物?」
「いや、人じゃね?」
こういう時だけは、ちゃんと、みんな俺を見る。
見られたくない時に限って、これだ。
尋問室では何をされるのだろうか。そんなことに思いを馳せながら、俺は抱えられたまま学校の中を少し注目を集めながら移動していった。




