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2.出席確認でさえ忘れられる

 自己紹介をしておこうと思う。

 どうせ誰も覚えていないだろうから、念のため。

 俺の名前は灰原霞。私立白鷺学園高校一年B組、出席番号二十四番。身長は百六十八センチで、体重は平均。成績は中の中。部活は無所属。趣味は読書。特技は――強いて言うなら、「そこにいるのに気づかれないこと」だ。

 影が薄い、というレベルの話ではない。

 たとえば、自動ドアが開かない。

 コンビニでもスーパーでも、俺がひとりで前に立つと、センサーが俺を感知してくれない。仕方がないので、ほかの客が来るのを待って、その後ろにくっついて入る。小学生の頃は、これを「自動ドアの呪い」と呼んで本気で悩んでいた。

 たとえば、出席で飛ばされる。

 小学校から中学校までの九年間、俺の名前が一度で呼ばれた学年は一つもない。担任が「全員いるな」と言って出席簿を閉じるたび、「灰原です」と手を挙げるのが、俺の毎朝の日課だった。

 たとえば、遠足のバスに置いていかれる。

 小学四年の春、動物園からの帰り道。点呼の時に「全員いまーす」と誰かが答えて、バスは俺を乗せずに出発した。俺は十二キロの道のりを歩いて帰った。学校に着いた時、担任は俺を見て「あれ、灰原くん今日休みじゃなかった?」と言った。

 たとえば、かくれんぼで翌日の朝まで見つからない。

 これについては、あまり詳しく語りたくない。翌日の朝になって、鬼だった子の母親が「そういえば、灰原くんって子はいた?」と言い出して、ようやく捜索が始まったとだけ言っておく。俺はずっと、公園の滑り台の下に座っていた。

 とにかく、そういう人間なのだ。

 誤解のないように言っておくと、俺は別に、透明なわけではない。正面から目が合えば、人並みに見える。顔だって、ちゃんとそこにある。……たぶん。

 問題は、それ以前にある。

 人は、そこに誰かがいると思っていない場所を、わざわざ見ようとしない。見ようとしなければ、そこに立っている俺は、背景と同じだ。おまけに、運良く見てもらえたとしても、名前だけが、するりと記憶から抜け落ちる。

 世界から、少しだけはみ出している。機械もそうだ。カメラの顔認識機能すら、俺の顔にだけは、四角い枠を出してくれない。

 悲しいとか、寂しいとか、そういう時期もあった。けれど十六年も続けば、人は慣れる。慣れてしまえば、これはこれで悪くない。誰にも絡まれないし、誰にも期待されないし、誰にも邪魔されずに本が読める。

 そう思って生きてきた。

 ――その俺の隣に、よりにもよって、この国で今いちばん注目されている少女が座ることになるとは。

 『現実は小説より奇なり』とは言うが人生というのは、ミステリー小説よりもよほど予想がつかない。

◇

「出席とるぞー。相川ー」

「はい」

「石田ー」

「はーい」

 入学から三日目の朝。担任の牧野先生は、今日も眠そうな声で出席簿を読み上げていた。二十八歳、独身、趣味は二度寝。初日の自己紹介でそう言い放った、なかなか味わい深い人である。

「……天城ー」

「はい」

 王女が、鈴の鳴るような声で答える。

 それだけで、教室の男子の半分くらいが幸せそうに天を仰いだ。

「――で、手島、飛んで……えーと、萩野ー」

「はい」

「……よし、全員いるな」

 ぱたん、と出席簿が閉じられる。

 俺は、黙って手を挙げた。

「灰原です」

「うおっ!?」

 牧野先生が、教卓の後ろで五センチくらい跳ねた。

「……なんだ、灰原か。いたのか。びっくりさせるなよ」

「毎朝います」

「そうか。……出席簿に名前がないんだが」

「書き忘れです。先生の」

「そうか」

 先生は、あくびをしながら出席簿の余白に何かを書き込んだ。たぶん明日には、また忘れている。

 くすっ、と。

 すぐ隣から、小さな笑い声が聞こえた。

 横を見ると、王女が教科書で口元を隠して、肩を震わせていた。

「……毎朝、あれをしているの?」

 ひそひそと、囁くような声。

「九年間な。今年で十年目だ」

「まあ」

 青い瞳が、楽しそうに細められる。

 王女の前の席では、氷室凛がぴんと背筋を伸ばしたまま、教壇の方を睨んでいた。右隣の鷹宮紫苑は手鏡で前髪をチェックしていて、斜め前の七瀬ノアはタブレットを枕にして寝ている。後ろの獅堂ひなたは、早弁をしていた。

 四人とも、俺たちの会話に気づいていない。

 正確には、王女が「誰と」話しているのか、気づいていない。

 初日からずっと、そうだった。

 授業中、王女はときどき、こっそり俺に話しかけてくる。ノートの端を指でとんとんと叩いて、囁くように。

「灰原くん。今読んでいる本は、何?」

「……推理小説」

「すいり?」

「人が死んで、探偵が犯人を見つける話」

「まあ、物騒ね」

「現実よりは平和だ。最後に必ず謎が解ける」

「……ふふ。あなた、ときどき詩人みたいなことを言うのね」

 そんな、とりとめのない会話。

 囁き声が耳にかかるたびに、こそばゆくて、俺は毎回、ノートの端に意味のない線を引いてしまう。授業のノートが、日に日に、幾何学模様の芸術作品になっていく。

 護衛たちの誰かが振り返ることもあった。けれど、そういう時、彼女たちの視線は、王女の隣をちらりと撫でるだけで、すぐに窓の外へ抜けていく。座席表の上では、そこは「空席」なのだ。空席だと思っている場所を、人は、ちゃんとは見ない。王女が独り言を言っているとでも思っているのか、あるいは、窓の外の鳥にでも話しかけていると思っているのか。

「……麗様、何か?」

「いいえ、凛。なんでもないわ」

「左様ですか」

 氷室凛は、俺の目の前三十センチのところで、何事もなかったように前に向き直った。

 お達し違反の男子が、王女の真隣で、毎日二十分くらい雑談している。

 それに、この国で最も優秀であろう護衛たちが、まるで気づいていない。

 なんだか申し訳ない気持ちになってくる。

◇

「――というわけで、この学校で王女様と会話できた男子は、まだ一人もいねえんだよ!」

 昼休み。

 廊下側最前列に追放された犬飼大地が、パンを片手に熱弁をふるっていた。周りには、同じく王女様に焦がれる男子が五、六人。いつの間にか「王女様に近づく会」なるものが結成されたらしい。

「一条先輩ですら二秒で投げられたんだぞ! 二秒! サッカー部の次期キャプテンが!」

「俺、昨日、廊下ですれ違おうとしただけで、あの眠そうな子に『……そこ、近すぎ。警告』って言われた……」

「俺なんか、落とした消しゴムを拾ってあげようとしたら、あの金髪のお嬢様に『まあ、ご親切に。でも結構ですわ』って笑顔で消しゴムごと没収された」

「消しゴム没収はひどくね?」

「ちなみに消しゴムはまだ返ってきてない」

 口々に報告される、痛ましい戦況。

 犬飼は拳を握りしめ、天井を仰いだ。


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