1.なぜか隣にいる影の薄い俺
「本日より、エルステリア王国第一王女・天城麗様が、この一年B組に在籍される。我々四名は、麗様の護衛を務める者だ。私は氷室凛。以後、覚えておくように」
ひむろ、りん。名前まで刃物みたいだ。
「そして――ここに、エルステリア国王アルベルト陛下より賜ったお達しを伝える」
彼女は懐から、筒状に丸めた厚手の紙を取り出し、ばさりと広げた。羊皮紙みたいな質感の紙に、金色の紋章と、流麗な外国語の文字。その下に、明らかに後から書き足したとわかる、妙に達筆な日本語が添えられている。
氷室凛は、それを一字一句、朗々と読み上げた。
「『いかなる男子も、王女のお傍に近づくことを禁ず』」
教室が、しんと静まり返った。
五秒くらい、誰も何も言わなかった。
それから、男子の誰かが、おそるおそる手を挙げた。
「……あの。お傍に近づくなって、教室の中だと、けっこう、なんていうか……」
「問題ない。既に座席は調整済みだ」
氷室凛が顎で示した先――窓際の最後列付近の席の周りには、いつの間にか机が綺麗に配置し直されていた。王女の席を中心に、前後左右を護衛四人の席が固め、そのまわりには、女子の席しかない。
「えっ、ちょ、俺の席は!?」
「犬飼大地。貴様の席は廊下側の最前列に移動させた」
「なんで名前知ってんの!?」
「クラス全員の氏名と顔写真は、事前に記憶している」
騒ぐツンツン頭の犬飼を一瞥で黙らせて、氷室凛はお達しの紙をくるくると丸めた。
「以上だ。なお、お達しに違反した者は――」
ちゃき、と。
竹刀袋の中で、何か硬いものが鳴った。
「――相応の対処をさせてもらう」
男子一同、震え上がる。
女子の何人かが、なぜか頬を染めて「かっこいい……」と呟いた。
その時だった。
「――麗様ぁっ!」
廊下から、爽やかな大声が響いた。
教室の後ろの扉が、がらりと開け放たれる。立っていたのは、長身で、やたらと顔のいい男子生徒だった。ネクタイの色からして二年生。両腕いっぱいに、真っ赤な薔薇の花束を抱えている。
「二年A組の一条蓮です! サッカー部です! 昨日、講堂であなたを一目見た瞬間から――」
一条先輩は、まるで映画のワンシーンみたいに、花束を差し出しながら教室に踏み込んだ。
一歩。二歩。三歩。
「――はい、そこまでっす! アウトっす!」
弾むような声と同時に、何かが視界を横切った。
あの小柄な茶髪の少女だ。いつの間に移動したのか、一条先輩の懐にするりと潜り込み、その手首を軽く掴んで――くるり、と。
長身の一条先輩の体が、嘘みたいに綺麗な弧を描いて宙を舞い、そのまま廊下の床に、ふわりと着地させられた。痛そうな音はひとつもしなかった。受け身すら取らせてもらえないほど、完璧に制御された投げだった。
薔薇の花束だけが、ばさりと教室の床に落ちる。
「二年A組、一条蓮。サッカー部」
氷室凛が、廊下に転がった先輩を見下ろして、冷たく告げた。
「警告は一度だけだ。二度目はない」
「ひなた、ちゃんと手加減したっすよー。えらいっすか?」
「……よくやった」
「やったっす!」
獅堂ひなた、というらしいその少女は、八重歯を見せてにぱっと笑うと、落ちていたメロンパンの残りを拾ってもぐもぐ食べ始めた。三秒ルールらしい。
教室中の視線が、廊下に集中していた。
犬飼が「一条先輩が……二秒で……」と白目を剥いている。女子たちは「え、なに今の、合気道?」とざわめき、灰銀髪の少女はタブレットに何やら打ち込みながら「……記録。侵入者一。排除完了。……ねむい」と欠伸をし、蜂蜜色の髪の少女は「あらあら、薔薇が可哀想ですわね」と花束を拾い上げている。
誰も彼もが、そっちを見ていた。
だから、誰も気づかなかった。
いつの間にか窓際の席に着いていた王女が、隣の席を、じっと見つめていることに。
正確には。
隣の席で、黙々と文庫本を読んでいた俺を、見つめていることに。
ぺらり、と。
俺はページをめくった。名探偵が、最後の謎解きを終えたところだった。
「……あなた」
小さな声がした。
鈴を転がすような、という表現を本で読んだことはあったけれど、実際に聞いたのは初めてだった。
「いつから、そこに?」
顔を上げる。
すぐ目の前に、深い青の瞳があった。
近くで見ると、なるほど、これは住んでいる世界が違う。睫毛の一本一本まで作り物みたいに整っていて、肌は陶器みたいに白い。表情はほとんど動かないのに、瞳の奥だけが、何か珍しい生き物を見つけた子どもみたいに、きらきらと揺れていた。
俺は、少し考えてから答えた。
「最初から」
「最初から?」
「ああ。……灰原だ。この席の」
いつもの癖で、名乗る。
俺は誰かに話しかける時、必ず最初に名前を言う。そうしないと、たいてい「え、誰?」と聞き返されるからだ。十六年の人生で身につけた、ささやかな生活の知恵である。
王女は、ぱちりと一度瞬きをした。
「はいばら、くん」
確かめるように、ゆっくりと繰り返す。
「灰原くん。……ふふっ」
そして、笑った。
ほんの少しだけ、口の端を持ち上げて。春の陽だまりに、薄い氷がほどけていくみたいに。
「あなた、面白いのね。王女の隣の席に、最初から座っているなんて」
「……俺が先に座ってたんだ。そっちが後から来た」
「まあ。それは失礼しました」
王女は、くすくすと肩を揺らした。
教室の誰も、それを見ていなかった。
護衛の四人でさえ、廊下の侵入者の後始末に気を取られて、振り返りもしなかった。
後で知ったことだが、護衛たちが事前に受け取っていたクラスの座席表では、王女の左隣――窓際最後列のこの席は、「空席」と記されていたらしい。担任の牧野先生が、俺の名前を書き忘れたのだ。
空席だと思っている場所を、人は、わざわざ見ようとしない。
いつものことだ。
俺の人生において、「書き忘れられる」ことほどありふれた出来事はない。
これが、俺と天城麗の出会いだった。
国王陛下のお達しの、すぐ内側で。
いかなる男も立ち入れない絶対王女の蚊帳の中に、影の薄い男が一人、最初からうっかり紛れ込んでいた――という、ただそれだけの話の、始まりだった。




