0.見えない境界線
シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に星屑みたいに散らばっていた。
東京・麻布、エルステリア王国大使館。
その大広間には、燕尾服とドレスの群れがざっと二百人。グラスの触れ合う澄んだ音と、聞き慣れない外国語の囁きが、高い天井へ吸い込まれていく。
その中心に、彼女は立っていた。
月の光を溶かし込んだような白金の髪。深い湖の底みたいな青い瞳。純白のドレスに身を包んだ、エルステリア王国第一王女――天城麗。
今夜、十六歳になったばかりの少女だ。
彼女の前には、祝いの言葉を述べるための長い列ができている。王族、貴族、大臣、各国の大使。誰もが彼女を見ていて、誰もが彼女の一挙手一投足に神経を尖らせている。
そして。
その彼女の、半歩後ろに、俺は立っていた。
学校の制服のまま。招待状も持たずに。
「……次。背の高い爺さん。白い顎髭、左手に杖。ヴァイスベルク侯爵。去年、孫が生まれた」
唇をほとんど動かさずに囁く。
王女は、ほんのかすかに顎を引いた。それが「わかった」の合図だ。
杖をついた老人が、彼女の前に進み出る。王女はドレスの裾をつまみ、教本に載せたいほど完璧な角度で膝を折った。
「ヴァイスベルク侯爵。ようこそお越しくださいました。お孫様のご誕生、心よりお祝い申し上げますわ」
老侯爵の目が丸くなり、それから皺だらけの顔がくしゃりとほころんだ。
「おお……このような老いぼれの孫のことまで、覚えていてくださったとは。殿下、光栄の極みにございます」
周囲から、小さな感嘆のため息が漏れる。
――二百人の中で、俺の存在に気づいている者は一人もいない。
大使館の警備員も。入口の金属探知機も。玉座の脇でグラスを傾けている国王陛下その人ですら。
ただ一人、彼女を除いて。
「次。……気をつけろ」
列の向こうに、金色の髪がちらりと見えた。
「あの金髪の男。あいつは、あんたの敵だ」
王女の背中が、ほんの一瞬だけ強張った。
それでも彼女は顔を上げる。逃げない。俯かない。この八か月、俺の隣で少しずつ覚えていった、あの強情な横顔のままで。
俺はその小さな背中を見つめながら、生まれて初めて、自分の影の薄さに感謝していた。
十六年間、誰の記憶にも残らなかった。
名前を呼ばれず、名前を覚えられず、そこにいるのに、いないものとして扱われてきた。
だからこそ、俺は今、ここに立っていられる。
誰にも気づかれずに。誰にも止められずに。
――彼女の、いちばん近くに。
話は、八か月前に遡る。
俺と彼女の間に、まだ国王陛下のお達しという名の確かな境界線が、はっきりと引かれていた頃に。
◇
私立白鷺学園高等学校。入学式の翌日。
一年B組の教室は、朝から異様な熱気に包まれていた。
「来るぞ……本当に来るぞ……!」
「マジで王女様なんだよな? 本物の? 着ぐるみとかじゃなく?」
「着ぐるみの王女ってなんだよ。エルステリア王国だろ、アルプスの。昨日ニュースでやってた」
「入学式の時、見たか? あれ人間か? なんか光ってなかったか?」
「光ってた。俺には後光が見えた」
男子どもが窓際に群がり、校門のほうを食い入るように見つめている。女子は女子で、鏡を覗き込んで前髪を直したり、「ねえ、お辞儀ってどうやるの?」「カーテシー? 膝曲げるやつ?」と、よくわからない予行演習に余念がない。
昨日の入学式に、彼女は来なかった。正確には、来ていたらしいが、新入生の列には並ばなかった。
講堂の二階席、特別に設けられたカーテンの向こう側。その隙間から一瞬だけ覗いた白金色の髪を見て、新入生三百二十人のうち、たぶん二百人くらいが恋に落ちた。
残りの百二十人のうち何人かは、俺みたいに寝ていた。
「おい、来たぞ!」
誰かが叫んだ。
窓の外。桜並木の続く校門前に、黒塗りの車が三台、音もなく滑り込んでくる。
先頭と最後尾の車から、まず黒服の男たちが降りた。いかにも「プロです」という顔つきの外国人たちが周囲を固め、真ん中の車のドアを恭しく開ける。
降りてきたのは――四人の少女だった。
全員、白鷺学園の女子制服を着ている。
一人目は、背が高い。長い黒髪を頭の高い位置でひとつに結い上げ、背中には竹刀袋。切れ長の目で周囲をひと睨みしただけで、校門前にたむろしていた上級生たちが蜘蛛の子を散らすように後ずさった。
二人目は、逆に小さい。オレンジがかった明るい茶髪のショートカットに、きらきら光る星のヘアピン。なぜか片手にメロンパンを持っていて、それを齧りながら周囲をきょろきょろ見回している。
三人目は、灰銀色のボブに大きな猫耳のヘッドホン。サイズの合っていないカーディガンの袖から指先だけを出して、タブレットを抱えている。眠そうだ。遠目にもわかるくらい眠そうだ。
四人目は、蜂蜜色のゆるく波打つ長い髪。背筋がすっと伸びていて、歩き方ひとつとっても華やかだ。校舎の窓を見上げ、群がる男子どもに向かって、ひらひらと優雅に手を振ってみせた。
窓際から「おおおっ」という野太い歓声が上がる。
そして、四人が左右に分かれた、その中央。
最後に車から降りた少女の姿を見た瞬間、教室の喧騒が、ぴたりとやんだ。
白金の髪が、春の風に揺れていた。
桜の花びらが一枚、その髪にふわりと落ちて、滑るように離れていく。
遠すぎて、表情までは見えない。けれど、彼女がそこに立っているだけで、校門前の景色が一枚の絵画みたいに切り取られて見えた。
誰かが、ごくりと唾を飲む音がした。
「……かわいいとか、そういうんじゃないな」
「ああ。なんていうか……住んでる世界が違う」
窓際の男子たちの呟きを背中で聞きながら、俺は手元の文庫本のページをめくった。
ちょうど、名探偵が犯人を指名する場面だった。
こっちのほうが大事だ。
ホームルームの開始を告げるチャイムと同時に、教室の前の扉が開いた。
最初に入ってきたのは、担任の牧野先生――ではなく、あの黒髪ポニーテールの少女だった。
つかつかと教壇に上がり、竹刀袋をがちゃりと鳴らして、教室中を見渡す。
それだけで、ざわついていた空気が凍りついた。
「傾注」
よく通る、鋭い声だった。




