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炎の娘は英雄になれない  作者: 各駅停車
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勇者の帰還 その1

 ギルドの扉を押し開けた瞬間、レイチェルは、自分が少しだけ強くなったような気がした。

 もちろん、強くなったと言っても、剣の腕が上がったわけではないし、火術を覚えたわけでもなく、強大な魔物を倒したわけでもない。

 だが、依頼票を受け取り、街を駆け、対象を発見し、追跡し、負傷し、最後には確保して報酬を受け取ったのだから、それは紛れもなく冒険者としての一歩であり、後世に語られる英雄譚の序盤としても、決して悪くはないはずだった。


 たとえ対象が猫であっても。

 たとえ報酬が銅貨三枚であっても。

 そしてたとえ外套から、まだ魚の匂いがしていても。


 ギルドの中は夕方らしく、仕事を終えた冒険者たちの声で賑わっていた。

 酒場を兼ねた広間の奥では、鎧を脱いだ男たちが木杯をぶつけ合い、掲示板の前では翌日の依頼を探す者たちが肩を並べ、受付の前には報告書を持った冒険者が何人か列を作っている。

 壁際の卓では、誰かが討伐した魔物の牙を見せびらかし、別の卓では、荷運び帰りらしい冒険者たちが肩を揉みながら明日の天気をぼやいていた。

 笑い声、椅子を引く音、木杯の底が卓を打つ音、濡れた外套の匂い、酒の匂い、革鎧の油の匂い。

 ギルドは一日の終わりを迎えつつある冒険者たちを飲み込み、明日の依頼へ吐き出すための大きな胃袋のように、熱とざわめきで満ちていた。


 その中を、レイチェルはできるだけ堂々と歩いた。

 できるだけ、というのが重要だ。

 頬には猫の爪痕があり、膝には泥がつき、髪に絡まった干し網の切れ端は途中で外したつもりだったが、実はまだ一つ残っていた。

 本人はそれを知らない。知らないので、レイチェルは胸を張ることができた。知らないということは、ときに人を強くすることがある。


 受付へ向かう途中、何人かの冒険者がちらりとこちらを見た。視線はまず頬の傷へ行き、次に外套へ行き、最後に髪に残った干し網の切れ端へ行ったが、レイチェルはそれを、依頼を終えた者に向けられる敬意の視線であると解釈することにした。


 受付台で、ギルド職員のセリカは、レイチェルの姿を見るなり、にこりと笑った。


「お帰りなさい、レイチェルさん。迷い猫捜索、完了ですね」


「少し表現が簡潔すぎないかな」


 レイチェルは受付台に依頼票を置きながら、少しだけ眉を寄せた。


「簡潔、ですか?」


「うん。もう少しこう、激闘の末に対象を確保、とか、南区裏路地における追跡戦を制す、とか、闇に潜む小獣との知略戦、とか」


「迷い猫捜索、完了ですね」


「問答無用だね」


 セリカは慣れた手つきで依頼票に判を押した。

 ぽん、という小気味よい音がして、レイチェルの苦闘は、帳簿の上ではあっさり片づいたことになる。

 ギルドというものは、冒険者の人生を、さほど劇的には記録してくれないらしい。


「今回の報酬は依頼主様から直接お支払いとのことでしたので、ギルド側での支払いはありません」


「うん。銅貨三枚は、すでにこの手に」


 レイチェルは腰の小袋に触れた。ちゃり、と控えめな音が鳴る。

 その音は、思っていたよりも軽かった。だが、何もないよりはずっといい。

 三枚の銅貨には、魚市場の人々の思いと、猫の爪痕と、干し網の記憶が詰まっている──そう考えてから、ちょっと生臭そうだなと思った。


「登録したての新人さんとしては順調ですね、レイチェルさん」


「順調、か」


 悪い響きではない。むしろ、とてもいい響きのはずだった。

 新米冒険者が最初から大きな依頼を任されることなど滅多になく、迷い猫を探し、荷物を運び、店番の手伝いをし、時には誰かの落とし物を捜す。

 そうやって小さな依頼をひとつずつこなしていくことが、冒険者として信用を積むということなのだと、登録の時にも説明された。

 それは、わかっている。わかっているのだが。

 掲示板の方から、別の冒険者たちの声が聞こえた。


「西の村で魔狼が出たらしいぞ」


「討伐依頼、三人以上だとよ」


「火術師の同行があれば楽なんだがな」


 魔狼。討伐。火術師。

 その言葉たちは、銅貨三枚よりも少し重い音を立てて、レイチェルの耳に落ちた。


「ボクにも、ああいう依頼は来るかな」


「そういう、というと?」


「魔狼とか、盗賊とか、古代遺跡とか、封印されし何かとか」


 セリカは困ったように笑い、受付台の上で手を揃えた。


「今後に期待ですね」


「今後かぁ」


 セリカはくすりと笑い、次の冒険者を呼ぶ準備をしながらも、ふとレイチェルの髪を見た。


「レイチェルさん、髪に網がついてますよ」


「……どこ?」


 セリカが指で示した場所を探ると、確かに細い糸のようなものが髪に絡まっていた。

 レイチェルはそれを摘み、少し考えてから、 誇らしげに掲げて見せた。


「戦利品」


「捨ててください」


「はい」


 レイチェルは網の切れ端を近くの屑籠へ入れた。少しだけ、名残惜しかった。

 受付を離れたレイチェルは、そのままギルドの掲示板へ向かった。今日のところはもう帰ってもいい。

 むしろ、帰るべきだ。外套はなんだかあまりよくない感じに湿っているし、頬は痛いし、腹も減っているし、足も疲れている。新人冒険者としては、一日に一件の依頼をこなしただけでも十分な成果だろう。

 けれど、掲示板の前に立つと、無数の依頼票が彼女を呼んでいるように見えた。

 薬草採取、倉庫整理、荷運び補助、井戸掃除、迷い犬捜索、看板修理。

 どれも、吟遊詩人が歌うには少し地味だった。

 かなり地味だった。

 しかし、その一枚一枚の向こうには、困っている誰かがいる。薬草を必要とする治療院があり、荷を動かせず困っている商人がいて、井戸を使えず不便をしている住人がいる。そう考えると、依頼票の小さな文字たちは、ただの雑事ではなく、王都のどこかに開いた小さな穴のようでもあった。

 冒険者とは、その穴を塞ぎに行く者なのかもしれない。

 レイチェルは少し真面目な顔で掲示板を見上げた。

 ──あるいは便利な日雇い労働者なのかも。

 その考えは、かなり的を射ている気もしたので、レイチェルはそっと胸の奥にしまった。


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