王都南区、闇との闘い その3
その時、油断していたミミの頭上から、ふわりと影が降った。
魚屋の少女が、いつの間にか背後へ回り込み、魚用の網を両手で広げて投げたのだ。投網というには小さく、洗濯網というには魚の匂いが強すぎるそれは、驚くほど正確にミミの上へ落ちた。
黒猫はにゃっと鳴いて身体をくねらせて、逃げようとするが、ますます網に絡みとられるだけに終わった。白い尻尾の先だけがぴこぴこと抗議するように揺れた。
あっけなく、捕獲が完了した。
レイチェルは荷車の下から半分だけ出た姿勢で、拳で石畳を力強く叩いた。
「見たか作戦どーり! 勇敢な少女よ、よくぞボクの指示通り動いてくれた!」
少女は、自分は何も指示されていないと言おうとして口を開きかけたが、地面に這いつくばったまま堂々と勝利宣言をしている冒険者の悲しい姿を見て、面倒くさくなったのか途中で口をつぐんだ。
「……はい」
「見事な投げ網だった。将来はボクの右腕にだってなれるだろう」
少女は地面に這いつくばったままのレイチェルの袖の汚れた右腕、そして甲に刻まれた赤い線を見た。
「あ、はい。どうも」
レイチェルはようやく荷車の下から這い出すと、絡んだ外套を直し、髪についた土を払ってから、慎重に網をめくり、腕の中に柔らかく温かいものを抱え込んだ。
「よし、捕まえた」
黒猫は温く、軽く、そしてものすごく暴れた。
「痛い痛い痛い痛い! 爪! 爪はやめよう爪は!」
ミミの細い前足がレイチェルの頬を叩き、爪が一本、二本、三本と赤い線を引いていく。暴れるたびに黒い毛が鼻先をくすぐり、レイチェルはくしゃみをこらえながら、それでも腕だけは決して緩めなかった。
「くっ……《夕闇を切り裂く者》め……最後まで抵抗するか……!」
「だから猫ですってば。ほら」
少女がひょいと手を伸ばし、首の後ろあたりを掴むと、それまで暴れていたミミは、水を浴びた焚火のようにすんと静かになった。
「……魔法?」
「習性です」
「少女よ、君はすごい。網も使えるし猫の習性も知っている。このお礼は後日必ずしよう」
「別にいいですよ。楽しかったですし、これで父さんたちの気苦労もひとつ減りますし」
「そうか。だが、民の助力に報いることも英雄たる者の使命だからね」
「民……。英雄……?」
少女は何か言いたげだったが、ミミがまた足を動かしたので、そちらを押さえることを優先した。不必要な議論を避け、目の前の問題を処理する、実に賢い少女だった。
レイチェルは少女にこくりと頷き、黒猫をまるで封印された魔物でも差し出すように掲げた。
「対象、確保!」
掲げられたミミは「にゃあ」と鳴いた。
その声は実に可愛らしかった。
貴族街は、王都の中心たる大灯台に寄り添う丘の上にあった。
下町から続く坂道は、登るごとに石畳の色を白くしていき、魚を焼く匂いや馬糞の匂い、露店の油の匂いといった生活の気配は、少しずつ風の中から抜け落ちていった。代わりに流れてくるのは、磨かれた石と刈り込まれた庭木の青い匂い、そしてどこかの屋敷から漂ってくる、甘く澄ました香の匂いだった。
丘の斜面に沿って建つ屋敷は、どれも門扉が高く、壁は白く、窓辺には季節の花が美しく飾られていた。通りを行く馬車の車輪さえ、下町の荷車よりずっと遠慮深い音を立てている。
そんな場所を、魚の匂いをさせながら、猫が中で暴れ回る籠を持って歩くというのは、貴族や豪商たちの屋敷が立ち並ぶ貴族街にあって、いささかどころではなく目立った。籠の中ではミミが不満げに鳴き、時折、竹編みの隙間から前足を突き出して抗議するように爪を鳴らしたが、任務をやり遂げたレイチェルの歩みを鈍らせはしなかった。
道行く侍女が目を丸くし、門番が眉をひそめ、馬車の窓から小さな令嬢らしき顔がのぞいた。
レイチェルは全身に好奇の視線を浴びながらも、外套に染みついた魚の匂いを英雄の戦場帰りの匂いであると心の中で言い聞かせ、白い石畳を堂々と歩いて、依頼主の屋敷にたどり着いた。
玄関から飛び出すように出てきた貴婦人は、籠の中の飼い猫を見た途端、今にも泣き出しそうだった顔をぱっとほころばせた。
「ああ、ミミちゃん! こんなに震えて。きっと辛い目にあったのね」
「辛い目にあったのはほぼボクですけどね」
「まあまあ、怖い冒険者さんに追いかけられて」
「怖い冒険者さん」
レイチェルは復唱した。依頼主の認識というものは、必ずしも冒険者の苦闘と一致しないらしい。
ミミは貴婦人の腕に収まると、先ほどまでの荒ぶる獣ぶりが嘘のように大人しくなった。喉を鳴らし、尻尾の白い先をゆらゆらと揺らしている。
その姿だけを見れば、魚市場の屋根を駆け、網をかいくぐり、若き冒険者の頬に三本の傷を刻んだ存在と同一猫物であるとは、とても思えなかった。
「この子、臆病なものですから」
「臆病」
手元に辞書がないことが悔やまれた。
「ええ。知らない場所に迷い込んでしまって、きっと心細かったのでしょうね」
「迷い込んだといいますか、自ら魚市場を制圧していたといいますか……」
「まあ、可哀想に」
「可哀想」
レイチェルはもう一度復唱した。今度から辞書を持ち歩こうと思った。
どうやらこの戦いの記録は、依頼主の胸の中では、迷子になった可憐な飼い猫を心配する美しい物語として保存されるらしい。
そこに、干し網に尻から落ちた冒険者や、荷車の下で地面に伏せていた冒険者や、猫に頬を引っかかれながら涙目で耐えていた冒険者の姿は、たぶん含まれない。
「ありがとうございました。助かりましたよ、冒険者さん」
貴婦人はそう言って、レイチェルの手に銅貨を三枚載せた。
銅貨三枚、手の甲と頬の傷、お気に入りの外套には魚の匂い。髪には干し網の切れ端。
依頼完了。
《炎の娘》 レイチェルはそれらをすべて受け止め、深く、とても深く頷いた。
「うん。王都の平和は守られた」
ミミが、貴婦人の腕の中で、もう一度「にゃあ」と鳴いた。
それが礼だったのか、勝利宣言だったのか、レイチェルには最後までわからなかった。




