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炎の娘は英雄になれない  作者: 各駅停車
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王都南区、闇との闘い その2

「敵は最後通牒を受け入れなかった。これより実力行使に移る」


「これまでも結構、実力を行使していたような……」


「あちらにも理性があるだろうと思っていたが、どうやらボクの思い違いだったようだ」


「だって、猫ですし」


 少女の言葉は聞こえなかったことにして、レイチェルは近くの魚卸の店主に声をかけた。


「すまない、その魚の切れ端を提供してくれないか。作戦に使用する」

 

 店主は、網に絡まったまま屋根を睨んでいた若い女冒険者をしばらく無言で眺めたあと、何も尋ねないことにしたらしく、まな板の端に残っていた白身魚の切れ端を紙に包んで渡してくれた。

 レイチェルはそれを受け取り、視線を路地の先へ向けた。少し先の小さな空き地に、片方の車輪が外れた古い荷車が置かれている。

 積み荷もなく、持ち主もおらず、身を潜めるにはちょうどいい。

 作戦は単純だった。

 魚の切れ端で敵を誘引し、近づいたところを捕獲する。


「うまくいきますかね」


「もちろん。ボクの頭脳が勝利するところを見ていたまえ」


「頭脳……」

 この少女にはまだ難しいかもしれないが、とレイチェルは思った。単純であるということは、決して浅はかであることを意味しない。古来より、数々の英雄は、結構単純な策で強大な敵を打ち破ることがあった。穴を掘る。酒を飲ませる。火をつける。囮を置く。つまり、魚の切れ端を置くこともまた、正しい戦術のひとつなのである。

 レイチェルは荷車の下に潜り込み、地面に伏せた。湿った土と魚市場特有の匂いが鼻先まで迫ってきて、正直あまり英雄らしい姿勢ではない気がしたが、勝利のためには多少の屈辱も受け入れなければならない。

 そして切れ端を、荷車に近く、かつ屋根の上のミミから見える位置にそっと置く。

「ミミ……おいで……美味しいお魚だよ……」


 ミミは屋根の縁からこちらを見下ろしていた。尻尾がゆっくり揺れる。


「そうだ。いい子だ。君は帰るべき場所を思い出す。暖炉の前、柔らかな布、飼い主の膝……そして、たぶんボクの昼食よりずっと高価なごはん……正直羨ましい…… 」


「最後、本音出てますよ」

 少し離れたところで見守っている魚屋の少女が小声で言った。レイチェルは荷車の下から片手だけを出し、黙って待機せよ、の合図を送った。たぶん、作戦行動中の騎士のように格好よく見えたはずだ。少なくとも、地面に腹ばいになっている本人だけはそう信じた。



 言葉が通じたのか、それとも魚の切れ端の匂いが通じたからか、ミミは屋根から塀へ降り、塀から樽へ、樽から地面へと近づいてきた。

 レイチェルは息を止めた。

 一歩。もう一歩。ふんふんと鼻を鳴らして警戒しながらも近づいてきたミミの鼻先が、ついに切れ端に触れた。

 ふふふ、所詮は獣。

 今だ。


「捕まえ――」


 荷車の下から伸びた腕を、黒い影がするりと躱した。


「たっ、と思ったのに!」

 

 明らかにこちらの待ち伏せを予期していた動きだった。

 ミミは魚の切れ端をくわえたまま、距離を取ってレイチェルをじっと見た。その表情から何かを読み取ることは難しかったが、少なくとも焦っているようには見えなかった。

 

「この、あいだぁっ!」


 レイチェルは荷車の下から這い出ようとして、荷台の底にしたたかに頭をぶつけ、再び地面に這いつくばった。

 湿った土が頬につき、英雄譚であれば決して吟遊詩人に歌われない種類の苦戦が、王都南区の小さな空き地で繰り広げられていた。

 

「待て、待って、お願いだから捕まって!」


 腹ばいの状態で冒険者らしからぬ懇願をするレイチェルを、ミミが切れ端を咥えたまま座って見ている。逃げるでもなく、寄るでもなく、ただ、見ている。

 その沈黙が妙に重かった。


「……君、なかなかやるじゃないか」


 レイチェルは小声で言った。


「でもね、ボクにも退けない理由がある。依頼だからだ。依頼を受けた冒険者は、最後までやり遂げるんだ。たとえ相手が猫でも。たとえ報酬が銅貨三枚でも」


 ミミは切れ端を地面に落として食べていた。


「聞いてる?」


 当然、黒猫は全く聞いていなかった。


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