王都南区、闇との闘い その1
冒険者レイチェルは、王都の闇と対峙していた。
場所は王都南区、魚市場の裏路地である。
昼間であれば、売り子の張り上げる声や、魚を捌く包丁の小気味よい音、客と店主が値を競り合う騒がしさに満ちているはずの場所だったが、日が傾き、店先の桶が片づけられ、濡れた石畳だけが鈍く光るころになると、そこはまるで別の土地のように静まり返っていた。
潮と魚脂の匂いは石の隙間にまで染みつき、軒先に吊るされた干物の影は、風に揺れるたび、細長い指のように地面を這っている。
その路地の奥。木箱と空樽が無造作に積み重なった陰で、二つの瞳が光った。
琥珀色の双眸。闇を切り裂く獣の瞳。
「……見つけた」
レイチェルは息を殺し、角から路地を覗き込んだ。外套の裾を片手で押さえ、もう片方の手ですでに何度も読み返して端が少し折れた依頼票を握りしめる。
依頼内容:迷い猫の捜索
対象:貴族の飼い猫(個体名ミミ)
特徴:黒毛、尻尾の先だけ白い。
好物:魚全般
依頼票に記された文字だけを見れば、どこにでもありそうな平凡な仕事に思える。だがその淡々とした文字列は、王都南区の屋根という屋根を影のように渡り、魚屋の番台から干し魚をくすねて回り、洗濯縄の上を綱渡り芸人のように通り抜け、この魚市場を荒らして回っている黒き小獣の恐ろしさを少しも伝えてはいなかった。
あれは猫ではない。
いや、言い過ぎた。猫ではある。しかし、ただの猫ではない。
「《疾駆する暗黒》め……」
「猫ですよ」
低く呟いたレイチェルの後ろで、魚屋の少女が訂正した。
彼女は両親の店をこの小さな悪魔に荒らされているとのことで、対象捕獲への協力を申し出てくれた勇気ある民間人だ。ちなみに本人は、ただ早く店番の邪魔を片づけたいだけ、という顔をしていた。
レイチェルは咳払いをした。
「猫であっても油断はできない。動物というものは、人に飼い慣らされていれば牙が鈍るというものでもないからね」
「その子、噛みませんよ」
「噛まずとも爪がある」
実際、レイチェルの手の甲にはすでに一本細い赤線が走っていた。
最初の接触でつけられた傷だ。塀の上で丸くなって眠っているのを見つけ、「さあ、怖くないよ」とできる限り柔らかい声で呼びかけながら指先を伸ばした瞬間、恐るべき獣は目にも留まらぬ速さで前足を振るい、レイチェルに一撃を与えてから、まるで最初からそこにはいなかったかのように姿を消したのである。
貴族の飼い猫だというのに、その動きには、確かな野生があった。
今、ミミは木箱の上で尻尾を揺らしている。黒い毛並みは薄暗い路地に溶けかけていたが、尻尾の先だけが白く、まるで闇夜に落ちた小さな火花のように、ゆらり、ゆらりと左右へ振れていた。
レイチェルはその火花を見失わないよう目を細め、慎重に路地へと一歩を踏み出した。
「いいかい、ミミ。ボクは君に危害を加えるつもりはない。ただ、君を待っている人のところへ連れて帰るだけだ。家には温かな寝床があり、おいしい餌があり、君の名を呼ぶ主人の声がある。さあ、抵抗はやめて――」
説得の途中で、ミミが跳んだ。
「あっ」
黒い影は木箱から樽へ、樽から塀へ、塀から軒先へと軽やかに駆け上がり、白い尻尾の先だけをちらりと揺らして、こちらを振り返った。
まるで、話は終わり、とでも言うように。
レイチェルは慌てて追う。
「待てっ、待つんだ! せめて最後まで話を聞いて!」
積まれた魚籠を飛び越え、軒先から垂れた縄をくぐり、干された網に足を引っかけてよろけた拍子に、洗濯物が入った桶を蹴飛ばしてしまう。桶はごろりと横倒しになり、中に張られていた水が石畳の上へ盛大に跳ねた。
「うわっ!」
冷たい水が脛を濡らし、レイチェルは思わず情けない声をあげた。洗濯をしていた女が、濡れた布を両手に持ったまま「ちょっとなにすんの!」と抗議の声を上げる。
「ごめん! 苦情はギルドに!」
「どこのギルドだい!」
「冒険者ギルド!」
叫びながらも、レイチェルの視線はミミから離れなかった。
ミミは軽やかだった。干し魚の吊るされた影をすり抜け、低い屋根の庇を蹴り、屋根瓦の上を爪音ひとつ立てずに進んでいく。その背中は小さい。けれど、夕暮れの空を背負ったその黒い姿は、レイチェルの目にはまるで高き城壁の上に立つ魔王のように映った。
「上か……!」
レイチェルは周囲を見回し、道端に積まれた木箱に手をかけた。一段、二段と登っていく。木箱の塔が、ぎしり、と音を立てた。
しかし冒険者たるもの、高所を恐れていては務まらない。古今東西の英雄は、崖を登り、塔を駆け、竜の背にすら飛び乗ってきたのだ。ならば、魚市場の木箱くらい登れずして、何が冒険者か。
「ふ、ふふ……この程度……!」
「それ、空箱だから危ないですよ」
「そういうの早く言って!」
三段目に足をかけた瞬間、木箱が盛大に崩れた。
「わあっ!」
網が外套に絡み、潮と魚の匂いが全身を包む。髪にも、肩にも、どこから飛んできたのかわからない干物の破片が張りつき、片方の靴には小さな鱗が一枚、妙に堂々と貼りついていた。
頭上で、ミミが「にゃあ」と鳴いた。
勝ち誇っている。少なくともレイチェルにはそう聞こえた。
「笑ったな……?」
レイチェルは、網に半分くるまれたまま、屋根に鎮座する敵を睨んだ。
「今、確かに笑ったよね、君」
「猫ですよ」
追いかけてきた魚屋の少女の声は、どこまでも冷静だった。
レイチェルは、網を剥がし、 魔物の群れに立ち向かう英雄のごとく立ち上がった。依頼を受け、対象を追い、困っている人を助ける。その主要構造においては、魔物退治も迷い猫探しも、そう変わりはない。
たぶん。
いや、少し違うかもしれない。
やっぱり、かなり違うかもしれない。
それでも、誰かが困っていることに変わりはないし、依頼票に名を書いた以上、《炎の娘》──自作の二つ名だ──レイチェルが途中で投げ出す理由にはならなかった。
レイチェルは干し網の山から這い降り、外套についた干物の欠片を払い落とした。完全には落ちなかったが、今は細部にこだわっている場合ではない。英雄譚において、戦場帰りの勇士が多少魚臭いことなど、きっと些末な問題なのだ。




